屏風山 794.1m    1.15

 さて 今日から2005年の山歩きがはじまる 長野県内は雪国だが 恵那山トンネルを抜けるとそこは全く雪のない いまにも草花の芽が出てきそうな温かい国であった。
 今日は岐阜県の山へ登ろう 中央道を恵那ICで下りて 国道19号を多治見へ下り 左右に見える山のどれかに登ろう 登山口はカーナビを見て見当をつけよう てなわけで ゆっくり起きて 先日味噌漬にしておいた秋刀魚を焼いて めしを2杯食って 下着から上着まで寒くないよう 汗はすぐ乾くよう登山用のウェアーで身を固め 歩いていて楽しくNOが出るよう(楽しいときに体が作り出すNO細胞は癌細胞をやっける働きをするそうだ)ラジオを持って 雪の深さで使い分けるよう2種類のアイゼンを持って 出かけた。
 カーナビを見ながら19号を下ったが 結局屏風山へ登ることとし 釜戸町交差点を左折し県道66号多治見恵那線へ出て 登山口は みずなみCC入り口近くに 屏風山山頂へ 近ずく道があるので たぶん登山口もあるだろうということで そちらへ向かった。
 県道には登山口の看板が出ており  ここの登山口は平井といい ここから山頂までは1500m 1時間20分の登りだった。
 登り始めは小雨がけむっていたが 暖かい日で長袖の下着にカッパ一枚で汗だくになった。
 屏風のような山であり平井から登ると坊主山623m 北屏風山778mをへて屏風山山頂へ着いた。
 久しぶりに気持の良い汗をかいた 健康第一 むりをしないで 息切れのしない速さで ゆっくり歩くことだ。  今年も健康でいくぞ!!!   

 

県道66号に登山口表示あり              常盤登山口                       坊主山750m

  


                               北屏風山                        山頂
  


        登山口は5箇所  山は11
     


黍生山 374m   飯盛山 250m    1.23

 愛知県の黍生山kibyuは足助町の裏山だ  登山口は飯田から行くと足助町町外れの追分交差点を右折し 砂利置場の向いがわに黍生城跡への看板が出ている。
黍生城跡は黍生山の山頂にある 平安時代足助氏が山頂に城を築いてから平氏に攻め落とされるまで城のあった場所だ 登山口からは登り45分下り25分の場所だ 山頂には水も無く攻められたら逃場もない 麓の村の彼女のとこへ遊びに行くにも不便な場所だ ここがほんとに城に適していたのだろうか。
 香嵐渓の飯盛山iimoriは大正13年に森林公園として整備された 山全体にもみじの木が植えられ 山頂からは経塚の跡が見付った 今はもみじの枯葉だけで 紅葉の時期の美しさは想像するだけだ 麓の500円先取りの駐車場から山頂までは15分 下りは勅正一豊栄稲荷 装束塚 香積寺を経て 三州足助屋敷に下る 更に巴川上流に向かうと 昔の崩れかかった茅葺で足助村が造られている。
 三州足助屋敷は 昔の武士の屋敷かと想像していたが 昔の茅葺の民家や 牛小屋 水車小屋 桶屋 傘職人 などの小屋や土蔵を配置したものだ 信州の飯田市山本にも規模を大きくした伊那谷道中というのがあるが歴史のある森林公園や 巴川の素晴らしい自然の景色で負けている。
 

香嵐渓  山林公園紅葉の木が中心      川もいい川だ                     牛は耳標を着けている
  


昔の農村風景か                     飯盛山頂                        香積寺
  


足助村                           豊栄稲荷
  

 
碁盤石山  1189m

 その昔この山を住処にしていた天狗は碁の強いのが自慢であった、あるとき麓の村の天才と山の碁盤石で対局することになった 七日七晩に及ぶ激しい勝負の結果、天狗は負けてしまう 天狗は悔しさのあまり碁盤石をひっくり返してしまったと伝えられている。
 国道153号線を下り愛知県稲武へ 稲武から257号線を設楽町へ 設楽町 名倉カントリー入り口 反対側の名倉津具村道路を碁盤石山方面へ向かう。
 道が山腹へかかり高度を上げていくが 道路が凍結していてスリップしそうな状況で怖い、 道の左側に東納庫登山口の大きな看板が出ている。
 道路脇の駐車場に車を止めてしばらく杉林を行くと胸突坂(100m坂とも云う) 急な階段が凍結していて滑りそう ここを登り切ると七寿岩 地図には出ていないが舗装道路がここまで開いてきている まあせっかく来たのだから森の中を歩いたほうが健康にいいよ。
 なだらかな山道を20分で天狗の庭へ到着 松は形の良い松で 碁盤石もあるが ここだけではそんなに素晴らしい庭と言える景色でもない しかしここから富士見岩を経て山頂手前のピークまでの 植物群はなかなかのものだ これも含めた天狗の庭は そりゃ大したものだ。
 山頂は林の中の山頂で途中のピークの方がイメージの良い場所だ  ピークから山頂までは一旦下りとなるが ガスの中で なんかそのまま麓へ下ってしまいそうな不安を感じた雪の中の道であった。
 登山口から山頂まで1時間 下りは40分 休日の散歩にちょうど良い距離だ。   本日の登山者は4名か。 

登山口                            七寿岩                            天狗の庭
  

 碁盤石                            富士見岩                          山頂手前ピーク    


登山道は霧の中                      山頂
 


岩山  932m 

 今日は岐阜県蛭川村hirukawaの岩山へ登ることとした 病み上がりで体調はあまりよろしくないが首の骨のずれからくるところの平行神経のずれのようで、車酔いの症状が出た 体のバランスをとることが重要だ そのためにも山登りは欠かせない。
 登山口は蛭川村の72号線遠ヶ根峠手前で林道へ右折して岩山・二ツ森山方面へ向かう 林道の雪は深くラッセルしながら走る。
 山頂近くに林道開通記念碑があり この少してまえから尾根に向けて国土調査の赤いリボンを見ながら雑木林と檜林の間を真っ直ぐ登る。 尾根に出れば道がある ピークには大きな岩があり ほかに表示も何もない それでも何かないかと先へ進むと 少し低い場所に山頂の表示がある。
 記念碑から山頂までは35分下りは20分くらいと思うが 下りは来たところを真っ直ぐに下らずに尾根づたいに下りていったら、記念碑の少し先から分岐している岩山林道へ到達した 到達したのは良かったが林道へ下りるところが大変な落差があり10本爪のアイゼンの前爪を引っ掛けながら木の枝につかまりながらやっとおりた。 岩山林道は積雪40cm 車のタイヤの跡も無く歩くのが大変だった。 
 帰りは二ツ森山登山口経由で切越峠へ抜けようと思い先へ進んだがバンパーが舟形になってないと無理のようで途中から引き返した。
 帰りは岐阜県の中津川市へ合併される山口村の馬籠magomeを通って帰ることとした。
 文豪島崎藤村は中山道nakasen(1716年までは中仙道と書いていたが中部山岳地帯を貫く道ということから中山道とした) 木曽の馬籠宿 本陣の生まれだが 中津川の馬籠になったら 「木曽はすべて山の中である」藤村の馬籠でなくなるのだろう。
 峠を越えて妻籠宿へ出たが 妻籠tumagoは確かに南木曽町の山の中だ 馬籠は中津川盆地のはずれ確かに山の外だ。
 
島崎藤村 本名島崎春樹
 明治5年馬籠宿旧本陣に生まれた。 明治14年上京し泰明小学校・明治学院に学ぶ。 「女学雑誌」に翻訳・エッセイを寄稿しはじめ 明治25年北村透谷の評論「厭世詩家と女性」に感動し 雑誌「文学界」の創刊に参加 明治女学校・東北学院教師を経て明治30年「若菜集」を発刊 近代日本浪漫主義の代表詩人として第一歩を踏み出した。 「一葉集」「夏草」と続刊 長野県小諸義塾に赴任「落梅集」を刊行。 「千曲川旅情のうた」「椰子の実」など今も歌い継がれている。 明治38年に上京翌年「破戒」を出版 小説家として透谷らとの交遊を題材とした「春」旧家の没落を題材に「家」を出版 大正2年
渡仏第一次世界大戦に遭遇し帰国。 童話集「幼きものに」小説「桜の実の熟するとき」「新生」「嵐」、紀行文集「仏蘭西だより」「海へ」など発表。 明治4年から10年まで中央公論に父をモデルとして明治維新前後を描いた「夜明け前」を連載。 昭和10年初代日本ペンクラブ会長 昭和18年「東方の門」執筆中に倒れ71歳で逝去。

妻籠宿
 江戸と京を結ぶ中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道ともよばれていた。 中山道六十九次のうち江戸から数えて四十二番目となる妻籠宿は、中山道と伊那道が交叉する交通の要所として古くから賑わいをみせていた。

岩山                              林道開通記念碑                     尾根へ出れば道がある

  


岩の上からりすが逃げていった             山頂                            雪が深く引き返すことにした
  


馬籠宿 彼方に中津川             馬籠宿本陣 今藤村記念館            展示室は長野県の小中高校生の寄付により完成した
  


妻籠宿                            妻籠宿本陣                       妻籠宿