木曽めんぱ

木曽めんぱ

木曽漆器は長野県木曽福島の八沢が発祥とされ、『西筑摩郡誌』(大正四年
刊)には室町前期(1400年頃)とあります。

江戸時代初めになり奈良井・平沢に伝承され、木曽漆器が作られるようになっ
た要因には木曽谷で産する檜等が良質であったことや雨量に比較的恵まれた
為に漆を乾かす適度な湿気が保たれたことなど好条件下にあったようである。

木曽谷北部は農耕地が少なく自給自足が困難であったために曲げ物・櫛・漆
器製品を生み出す結果となり、特に櫛や曲げ物などは軽く持ち運びやすいため
に宿場の土産物として観光の一環を支えた。

木曽檜で造るメンパを八沢や奈良井では木曽春慶塗と呼び丸盆・重箱・膳など
が生産された。

当時は漆に弁柄を練り込んで塗る下地や、柿渋を塗る下地を施してから木目が
透けて見える塗り方をした。

江戸時代木曽は、尾張藩の領地で藩により山の木々は留山と呼ばれ住人が
近づくことが許されなかったが、藩は御免白木といって毎年六千駄の檜白木を
下付し産業を支えた。(一駄は馬一頭が背負う量で凡そ三十六貫 約135kg)
奈良井にはそのうち、千五百駄の白木が下付されたようで曲げ物や指物など
の木地職人の数の多さを知ることが出来る。

 尾張藩は苗木の植え付けを奨励したようであるが高冷地であるためにうまく
育たなかったようであり、旧楢川村誌によると漆掻職人により近間での採集が
行われてはいたが賄いきれずに他産地より調達していた記録が残る。

木曽で作られたメンパは天然ヒノキを母体として作られ、「めんぱ」とは木曽檜
で作られた弁当箱のことを言います。

檜を薄く裂き小判型或いは丸く形を整えます。その継ぎ目は「押糊 オシノリ」 
(炊いたご飯を押し潰して糊状にして使います))で接着してから山桜の皮で縫
い上げて綴じ底板をはめ込みます。今はそこに漆を十分浸み込ませて乾かし、
その後に塗っていきます。

天然ヒノキとはいえ、木地に生じる変形には対処しにくいこともあり蓋は少し大
きめに作られています。蓋は被せるといえども乗せてあるという状態になりま
す。木地の時に蓋と身との隙間を見た目良く作ると後に蓋が被さらない状態が
起きてしまうからです。(旧楢川村編纂誌より)

流れ・・飛騨春慶 → 木曽福島八沢春慶 →木曽春慶(木曽溜)







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