心温、誕生
                               宮川
「県大会ですって!」助産師がちょっと声を張り上げた。ここは分娩室。出産直前の一恵が、分娩台で唸っている。
「いえ、女子の陸上ホッケー部がある高校が県内に二つしかないんです。だからいきなり県大会」
「なんだそうだったの。ワハハ」助産師が声を立てて笑う。若い女医もつられてニヤニヤ。何故こんな話になったのかというとーー、分娩台にのぼった一恵が、台の両側にある足を載せる箇所へ、スムーズに足をおいたのを見て助産士が
「奥さん、体柔らかいのね。何かスポーツでもやっていたの」と聞いたので、純三は、一恵が高校の頃、陸上ホッケーで県大会に出場した話をしたのだ。
 分娩室に入る前、純三は指示された薄青の医者が着るような服に着替え、先ほどまで一恵が苦しんでいたベッドに横たわった。すると妊娠が判明してから今までのことが頭に浮かんできて、彼はちょっと鼻がむず痒くなった。しかし彼は今日が一番大事なのだと思い直し、鼻の頭の感覚を無理に無視した。

   純三たち夫婦は結婚して七年目、当初一度は妊娠したものの、すぐに流れてしまい、それからは子どものことは頭にはあったが、何が何でも欲しいという気持ちにはならず、数年経った。去年の秋、一恵に妊娠の可能性を伝えられ、いよいよ俺も人の親になるのかと思った。純三、三十九歳。妊娠が確かに認められたら一恵は、それまで勤めていた会社をまもなく辞めてしまった。純三は、今から辞めることもないだろうと思ったが、流産を恐れる一恵の気持ちを考えると、黙って見守るしかなかった。彼女は三十代半ばになっていた。やがてつわりが始まり、純三は家事の手伝いをするようになった。外見は変わりのない一恵だったが、苦しみ方を見ていると、彼女の指示通り純三は動いた。それから数カ月経ち、腹が目立ってくると一恵は週の半分を実家で過ごすようになった。保育園の送迎バスの運転をしている純三は、妊娠中期から実家に通う母親なんていないと思ったものの、一恵の好きにさせておいた。純三にしても久しぶりの独身生活だったので、それも新鮮だった。産み月の二ヶ月前になると、一恵は実家で暮らすようになった。予定日の一ヶ月以内になると、いつ病院へ連れて行けと言われるか分からず、純三はいつも携帯電話を持ち歩いていた。定期検診では、腹の中で子どもは順調に育っていて、母子共に問題なしという話だったので、連れていくタイミングにうまく時間がとれるかが心配だった。一恵は、数ヶ月前から車の運転をしなくなっていたので、病院への送迎はほとんど純三がやっていた。

 しばらくして、ご主人お入り下さい、と声が掛かり、純三は分娩室へ入った。一恵は、分娩台に仰向けで寝ていた。痛みに耐えながら半ば意識のはっきりしない一恵を見ていると純三は、女の人って大変だなと思った。周りから男は出産に立ち会うと感動して泣き出すとか、中には失神する人がいると聞いていたので、自分はどんなふうになるのだろうと、素人作家である彼は、その時の心の動きを客観的に見つめてみたい気持ちがあった。
 しかし幸いにもと言うか、一恵は出産日の二日前から入院し、生まれるかもしれないと病院から電話が入ったのは、日曜の早朝で仕事への支障もなく、純三は病院から連絡があってから一時間ほどして、一恵の実家へ電話をした。
 一恵の母と二人、コンビニでおにぎりなどを買い込み、ゆっくりとした足取りで病院へ入っていくと、一恵はすでに陣痛室に入っていて、看護師の介護を受けていた。純三はこの時多少は緊張したが、ここまで来ればもう俺の成すべきことは終わったようなもんだ、とちょっと安心もした。一恵は苦しそうに「出そう、赤ちゃん‥‥尻の穴を圧して」あえぎながら言った。純三は、赤ん坊がすぐに出てくるわけないし、出たら出たで結構な話だと思いながらも、ベッドの脇に座り言われた通りにした。すると、
「痛い! 純ちゃんの下手くそ。看護師さんの方が良い」一恵は切れ切れに言った。純三は、そりゃ看護師さんの方が上手いに決まっているだろうと、と小声では言ったものの、これでどうだいと手の圧す位置を変えてみた。やがて、陣痛を計る機械の針の揺れが小さくなり、間隔も間延びしてきた。
「こりゃ、陣痛促進剤を使った方が良いわねえ」助産師が、機械から出てくる記録用紙を手にしながら言った。そうですか、と純三は応えたものの、尻を圧しながら、半ば意識が飛んでいるようにも感じられる一恵を黙って見た。
「小山さん、早く赤ちゃんに出てきて貰って楽になるように、陣痛が強くなる点滴をしようね」
「はぁはぁ、えっ? 純ちゃん強く、痛い! 」
「おい、点滴して貰った方が良いってさ。早く生んで楽になれよ」
「えっ、何言ってんの、出ちゃう。純ちゃんの下手くそ、バカ! 」
「困ったわねぇ」
「了解ないけど、点滴しちゃいますか」
「それはまずいでしょう。どれ、お尻をこっちに向けて。ご主人ちょっと外して」助産師は、使い捨てのビニール手袋をはめた。一恵の子宮に手を突っ込み、赤ん坊の位置を知るのだ。作業が終わると純三は呼び戻され、
「赤ちゃんはすぐそこまで出てきているんだけど、お母さんの力が弱くなってきていて、こりゃ促進剤を入れた方が良いなあ」と助産師。 「そうですか」純三は一恵に向かい、点滴して貰えよ、早く生んじゃえ、点滴頼むぞ、いいな、と強く言った。
「ええぇ? うん」と苦しそうだがやっと一恵が応えたので、すぐに促進剤の準備をしてもらった。この時、俺の役目はほとんど終わったんだな、と思った純三だった。
 点滴を初めしばらくすると、強い陣痛が来た。ややあって分娩室へ歩いて移動するように促されると、僅か数歩だが一恵は歩けないと言った。すると車椅子を用意して貰い、分娩台へ横付けになり、自力で台に上るように言われ、彼女は何とかはい上がった。そこで分娩室の扉が閉じられ、これを着るようにと薄青色の医者が着るような服を渡され、素早く着替えた純三は、手持ちぶたさに先ほどまで一恵が唸っていたベッドに横たわった。
 やがて分娩室に入るように言われ、彼が行くと、
「ご主人は、奥さんの横に立ち頭を持ち上げて下さい」助産師に言われ、純三はその通りにした。しばらくすると彼は、 「おい、麦茶飲むか」と一恵にストローのついたペットボトルを見せたが、
「いらない」一恵が応えると、
「じゃあ、俺飲むか」自分で飲み始めた。出産時の妊婦は、水分補給が大切だから、ストロー付きのペットボトル飲料を持っていくように、近所のおばさんにアドバイスされていたのだ。それを純三が飲んでいる。
「うん、だんだん強くなってきた。その調子よ」助産師が、機械から出てくる記録用紙を見ながら言う。
 それから助産師と女医は、使い捨てのビニール手袋をはめて、代わる代わる一恵の腹に手を突っ込んで、八時だとか十時とか話し合っている。赤ん坊の頭の向きを確認しているらしい。助産師には、陣痛には波があるのでその波が来ないとき一恵はリラックスしていて良いと言われていたし、純三には一恵の頭を持ち上げなくて良いと言った。
 純三は、好奇心から一恵の股間の方へ回った。夫婦なので初めて見たわけでもなかったが「ほほう」と思わず声がもれた。ここまで来ると妻と子を心配すると言うより、立ち会いがたいこの時を目に焼き付けておこうとする気持ちの方が強かった。再び波が来て去ると、純三はまた股に回った。割れ目から赤ん坊の頭がチラッと見えた。ーーこういう場面に立ち会うと、男は泣いたりするのかなと思ったりもした。しかし、彼にはそんな気持ちの揺れは全く起こらなかった。
 次の波が来て、まもなく赤ん坊が出てきた。予定通り女の子だった。体は茶褐色だったが、へその緒の「白」が印象に残った。
 二〇〇三年六月十五日のことだ。
 素早く処置し、赤ん坊を一恵の頭の方へ持っていき見せた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」柔らかな笑顔で一恵が言った。そのシーンを純三は撮った。ビデオも録りたいと思ったが、一恵が嫌がったので止めておいた。これからどうするのだろうと思っていると、ご主人はあちらへと言われ、赤ん坊と一緒に隣の部屋に移り赤ん坊がベビーバスに浸かり汚れを落としたり、腹の中に溜まっている水分? を機械で吸い出して貰ったあと体重を量って貰った。三千グラムを越えていた。その時、処置していた看護師が「まあ、かわいい女の子ね。お父さんはこの子誰に似ていると思いますか」と聞かれ、不意をつかれた純三は思わず正直に「隣のおじさん」と言った。
「えっーー」看護師は一瞬、純三を観た見たがまた作業を続けた。抱いてみますか、と赤ん坊を差し出され、初めて我が子を抱いた純三は、この生き物が俺の遺伝子を継いでいるのか、という気持ちで生まれたばかりの赤ん坊を見つめた。父親になった実感はまだ湧いてこなかった。
 やがて面会が許され一恵の母が入ってきた。続いて父。連絡はしなかったが純三の親も来ていた。代わる代わる赤ん坊を抱いてみた。かわいい、元気に生まれてきて良かった、などと言っていた。
 しばらくすると一恵は、一般病棟に移った。普通に会話もでき、純三は兼ねてから頭にあったことを口に出した。
「おい、名前さあ、心に温と書いて『しおん』で良いよなあ」
「うん、それにしてよ。わたし、しおんの花好きだし、心が温かい女の子になって欲しいもん」
 純三たちは前もって、赤ん坊の性別を聞いていたのだ。名前を決めるに付けては、あまり深く考えず響きと字面で選んだ。名前が決まったところで母親二人が来たので、
「赤ん坊の名前だけどさあ、心に温泉の温で心温と付けることにしたよ。なっ」純三は一恵を見た。
「わたしもそれで良いと思うの」と彼女。
「しおんちゃんかーー」
「面白い名前ね」
母親たちは口々に言ったものの異論はなさそうだったので、 名前はあっさり心温に決定した。
 出産後約一週間、一恵は入院していた。その間、純三は毎日病院へ通った。毎日行く必要はなかったが、それでも顔を見に行った。なぜ毎日行くのか自分でも説明できなかったが、欠かすことはなかった。行く度に赤ん坊を抱いたが、不安定な塊を落とさないようにするのに気を取られて、かわいいとか愛おしいとか、そんな気持ちは実感できない純三だった。

 五ヶ月後、体重は生まれたときの二倍になり、心温の首は座って扱うのもだいぶ楽になってきた。子どもの成長を腕で感じ取りながら、彼は自分の中にこの子への暖かな責任感が育っているのが分かった。
 



                     
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