にぼし
                       宮川集造

 新居でむかえた一日目の朝、目が覚めると隣のベッドに、逆を向いて眠っている一恵の布団
が横たわっている。全く動こうとしないそのかたまりを見ながら、小山純三は、俺本当に結婚し
たんだな、と腹でつぶやいた。
 ややあって急に布団が動きだし、面長の一恵がこっちを向き、
「おはよう」と言う。
 純三はおはようと口では応えながらも、頭では別のことを考えている。
「よく眠れた?」
「あっ、うん」
「私の顔、じっと見ているけど、何か変なの」
「いや」純三は、一恵の鼻に手をもっていきながら、
「これからずっと、この人と暮らすのかと思ったんだ」「ふーん、まさか後悔しているとか」
「ばか、そんなんじゃないよ」
 純三は伸ばした手を一恵の胸に移しながら、慌ただしかった結婚までを振り返ってみる。

 一恵との結婚話をもって来たのは、近所の人のいいおじいさんで、実は前々から純三の縁談
を頼んでおいたのだった。そのおじいさんから去年の暮れに、同じ村内への婿養子の話があ
るがどうか、との打診があった。純三は、婿に行くことを考えたこともなかったので、少々面食
らいぎみだったが、先に兄が東京で自分の姓で所帯をもち、自身二男でもあり、村内の中心地
にこちらで建てた新居に住み、これまでのように畳屋の仕事を続けさせてくれるなら会ってみた
いと希望した。そして何より彼女との相性が肝心だと思った。また純三が三十三才であるという
ことも、婿に応じる一因ではあった。
 初め彼らは、二人だけでファミリー・レストランで会った。一恵も同じ村の生まれであり、年齢
も三つしか離れてないので、最初は共通の友人・知人の噂から話し出し、やがて、
「○○スーパーには、どれくらい勤めていたの?」と、純三が言った。以前、一恵は村の近くに
会ったスーパーで働いていて、ぼんやりと純三は覚えていた。
「六年くらいです。でも街中で仕事がしてみたくなって、今の会社に移ったんです」一恵は伏し目
がちに言う。そこへ注文しておいたスパゲティ・セットが運ばれてきて、二人人はそれを食べ
た。
 ひと息つくと純三が、
「どこか行ってみたい所がありますか」と言うと、
「いえ、別に‥‥」
「遠慮しないで言って下さい」
 そんなやりとりがちょっと続いた後、一恵は、
「駅前に新しくできた、ホテルの最上階の喫茶店で、夕焼けを見たいんです。でもまだ早いし」
と、十二月とはいえまだ陽の高い昼下りの街を見渡す。
「いいじゃないですか。とにかく行ってみましょう」
 二人がそのホテルの最上階に着くと、喫茶店には入店を待つ人の列がある。どうやらタイ
ム・サービスのケーキ食べ放題の順番を待つ、人たちらしい。純三と一恵は、列には加わら
ず、窓から風景を眺めていた。
「あの青い玉ネギみたいなのが、ホワイト・リンク、オ

リンピックでフィギア・スケートが行われる会場ですね」と、純三が指さし、
「ほんとに、ここからよく見えますね」一恵はうなずく。「この街もオリンピックでどんどん変わって
いくね」
「ええ、たくさんホテルも建っているいし、新しい道路も通そうとしています」
「うん」
 純三は、会って数時間しかたっていなかったが、一恵との相性は悪くない、そんな手応えをも
ったーー。

 純三が一人でベッドを抜け出し、リビングで新聞を読んでいると、しばらくして着替えた一恵が
入ってき、カーテンを開けながら、
「あら雨が降っている」
 そう、純三は新聞から目を離そうとしない。
 やがて朝食の用意が揃い、
「昨日、うちから貰ってきたものばかりなの。ごめんね」と、一恵。純三たちは前夜、一恵の家
に泊まっていたのだ。
「どれもおいしそうじゃないか。お義母さん、料理上手だね」
 食卓には、サラダや煮物、玉子焼きなどが並んでいる。純三は、みそ汁に手を伸ばし、一口
飲んで、
「これ、なんか懐かしい味しているね。何入れてんの」「えっ、だしのこと? にぼしよ」
「にぼしか。俺のうちでは化学調味料ばかりを使っていたんだ」
「嫌いなの」
「そんなこと、ないよ。これはこれでおいしい」
 純三は、にぼしという今まで生活になかったものが入ってきたことに、俺は所帯をもったん
だ、という気持ちをあらたにした。
 ーーと、順調? に動き出した二人の新しい生活ではあったが、数日たつと一恵がこんなこと
を口にした。
「私ね去年の今頃、まさか結婚しているとは思わなかったな。しかも純三くんと」
「その頃は、別の男と付き合っていたんだろう」
「そんなんじゃない」と、一恵は笑う。
 純三にしても、所帯をもつと一年前は思ってもみなかった。三十代になり、結婚を考えてはい
たものの、相手がいる訳でもなく、同年代の友人たちの多くが独身であらことなどから、一生こ
のままで終わるのも良いと、腹をくくっていた矢先の出来事だったのである。
 一恵としても、身を固めるつもりはあったが、積極的に相手を見付けるなどせず、毎日の生
活に追われていたので、ーーまさかことし純三くんとーーの発言になった。 ところで、一恵がこ
んなことを度あるごとに口にするので、純三が、今の生活に不満でもあるのかと問いただすと、
「違うってばーー、ただね人は明日のことは分からないってのが、よく分かりましたって所かな」
 一恵は、主婦として合格だろう。だが、その落ち度のない分、純三には、彼女が冷めている
ように感じられるのだった。というのも一恵には、純三を好いてはいないのではないかと思わせ
る節があった。
 それは、朝目覚めるときのことだ。純三が起きると、必ずと言っていいほど、一恵は夫に背を
向けて寝ている。
 それを指摘すると彼女は、
「私、左を向いて寝る癖があるの。純三くんが右側に寝ていたから、背を向けたようになっただ
けよ」と笑う。その時は、純三もそれで納得したが、数日後、左右を違えて寝る機会があった。
すると一恵は、またも純三に背を向けて寝ているのだった。
「おい、どうして俺の顔を見ないように寝ているんだ」純三が荒らしく言うと、
「そんなこと言われたって、寝ている間のことだもん、私にだって分からないわよ」一恵は困っ
た顔をする。
 純三は、煮え切らないものを感じ、たまに一恵に癇癪を落としたが、それでも大げんかになら
ずに済んでいた。しかしある日一恵が、
「これ、私が買ったんだけど、大きいから純三くんにあげる」と、長袖の薄いジャンパーを差し出
した。
「ありがと、ーー俺へのプレゼントとして買ったんじゃないのかい」
「そうだといいんだけど、前ね、バーゲンでよく確かめもしないで買ったら男ものだったって訳
よ」
「ふーん、男ものと女ものとが一緒になっていたのか。そんなワゴン・セール見たことないぞ」
「だって、そうなんだもん」
「本当は、以前、付き合っていた男のために買っておいたのが、渡すチャンスがなかったんじゃ
ないか」
「どうして、そう勘ぐるの」一恵は純三を睨みつける。 純三は、そのジャンパーが昔の彼のた
めに買ったのであっても、咎めるつもりはない。三十才の女性なら過去に恋人の一人や二人
いたって不思議はないし、プレゼントしそこねた服を今の夫にくれるのは、悪くはないと思う。た
だ純三は不安だった。それは、彼らが共に歩んできた時間の短さによるものだった。結婚を前
提に付き合い初めた二人が、一年足らずで夫婦になり、互いを知る機会がなく、今頃になり、
それぞれの個性が分かってきた。
 例えば、純三は散文を書く趣味がある。彼は起床して
 きた時間の短さによるのだった。結婚を前提に付き合い始めた二人が、一年足らずで夫婦
になり、互いを知る機会がなく、今頃になりそれぞれの個性が分かってきた。例えば、純三は
散文を書く趣味がある。彼は起床してすぐに居間で書く癖があり、ある朝、一人起きて書いて
いると、三十分くらいたって一恵が部屋に入って来て、
「よく朝っぱらから、そんなお金にもならないものを書く気力があるわね」と、半ばあきれ顔で原
稿を覗く。
「いいじゃんか、俺の一つだけの趣味なんだから。よその女を好きになったり、パチンコに金を
使うより良いだろう」
「そりゃそうだけど。ねエ、ちょっと見せてよ」
「うん、そのうち君にも読んでもらおうと思っていたんだ」純三は、書いてある原稿の数枚を一恵
に渡す。それを読んだ一恵は、
「何よこれ。私のことを書いているんじゃない。これって小説っていうの。なんかありのままを書
いているだけじゃないのよ」
「だから、君にも目を通してもらうつもりだったって言っただろ。勝手に君のことを小説に書い
て、夫婦げんかのもとになっても、つまらないからね。だも、細かい所や名称なんかは、創作し
ているんだ」
「そういえば、そうねエ」一恵は、原稿を純三に戻す。「でね、自分のことを素材に小説を書くの
は、私小説と呼ばれていて、日本の文芸の一つのジャンルとして確立されているんだ。まあ、
文芸好きの人でも、私小説を伝染病のように気嫌いしている人もいるけれど、ぼくが尊敬する
尾崎一雄さんという作家は‥‥。」ここで純三は区切り一恵の退屈そうな顔を見て、
「君は興味ないか」
「その言い方ってちょっと馬鹿にしてない? でもどうして私小説というのを書くの」と、一恵は上
目使いに純三を見る。
「どう説明したらいいかな。‥‥そうだな単なるエンタテイメントを書くんじゃなく、生きる証を刻
むって所かな」
「生きる証を刻むねエ。ーーそれってキザ過ぎる言い方じゃないの」
「おおせの通りだね。または資源の無駄使いとも呼ばれている」純三は、ニヤリとする。
「無駄使いの方があっているわよね。私は小説書き屋さんのの気持ちは分からないから、向い
たら推理小説でも書いて、一発当ててよ。ほんと、純三くんって、理解できない所がある人ね。
そういうのって芸術に向いているかもよ」
「ありがとよ。大いに期待しないで待っていてくれ」こんな軽口をたたく純三ではあったが、心の
中では一恵が純三を、理解できないと言ったことを考えていた。結婚して数カ月がたち、相手
の今まで知らなかった性格も分かってきた気がする。だが、ますます一恵という人間の理解で
きない点や自分とは違う考えも見付け出したりして、ちょっと不安になる時もあるのだ。
 長年つれそった夫婦なら、少しの表情に互いの心の動きを読み取れることがあるかもしれな
い。しかし純三たちの場合、年も今は比較的若く、好きあって一緒になったのではないせいも
あるが、人生を振り返る年齢になったら、あ・うんの呼吸が通じる二人になれる自信はなか
った。が、もともと人間なんて一人じゃないかと、純三は思い返す。いくら愛したり信じあってい
る同志でも完全に理解できることはない。それに自分自身だって、分からないこともあるんじゃ
ないのか。こんなラチもない考えに、落ち込んで行くのだった。
 その朝、いつもより早く目覚めた純三は、初夏でもあり寒気を感じなかったので、パジャマの
ままで書きかけの原稿を進めようと机に向かった。普段より書けたかなと一息ついていると、
一恵が起きてきて、
「そんなことをしているより、寝ているほうが、私は有意義だと思うわね」
 純三は、聞こえないふりをして、書き上げた原稿を見ている。
 異変が起きたのは、朝食を済ませてからだ。お茶を飲んでいると、腹の調子がおかしい。そ
れもただの腹痛とは違う。彼は、
「なんか腹が‥‥」と言いつつ、胃腸薬を手に取り飲んだ。
「なんでそんなものを飲むのよ。気のせいじゃないかな」「とにかく行って来ます」
 純三は、今年の四月から地元の保育園の送迎バスの運転手をしているのだった。拘束され
る時間の割に給料は良いが、他の仕事が中途半端になりがちになっているので、困っている。
 彼は、しばらくたてば腹のおかしいのも忘れてしまうだろうと思っていたが、迎えのバスの仕
事が終わっても体調は治らない。これは医者に行った方がいいと、一恵に告げると、
「どうせ、気持ちの問題よ。まあ、行ってくれば」いぶかし気な顔を純三に向ける。それを無視し
て純三は医者へ行き帰って来ても、からだは元通りになるどころか、風を引いた感じさえしてき
て、
「俺、午前中寝ている」と、布団にもぐり込んだ。
 すると、それ迄疑わし気な表情をしていた一恵は、心配そうに、
「純三さん、大丈夫? 」と布団をかけるのを、手伝ってくれたりした。しかし純三のからだは悪
くなる一方で、シャツ一枚で過ごせる陽気だというのに、寒気さえしてきている。食欲もほとんど
ない。そんな純三の世話を、一恵は嫌な顔をもせずにこなしていく。てきぱき動く彼女に純三
は、
「悪いなぁ。ありがとう」と力のない声をかける。
「いいさあ。病気だもん。早く治ってね」氷枕を置きながら、一恵は応える。
 こんな彼女の看護のせいか、純三の風邪は二・三日するとだいぶ治ってきた。今度の病気
のせいで、純三は一恵の自分への思いが分かった気がして、なんとなく嬉しかった。
 ある夜、布団の中で一恵が、
「私ね、思ったんだけど、純三くんは、私より早く死んだ方がいいんじゃないかな」と、なんの前
触れもなく言う。
「それって、どういう意味なんだよ。俺に早死にしろっていうのか」純三は大きく目を開いて一恵
を見る。
「変な意味じゃなくて、私が先に亡くなって、純三くんが一人になったら、世話をしてくれる人が
いなくなるじゃない。今度の君のかぜでそう思ったんだ」
「ふーん、そういうことか」
 純三は、一恵の暖かい気持ちの触れた感じがした。こういうのが夫婦っていうのかな、と彼は
胸の中で言った。そして、手を伸ばし、一恵の胸のふくらみに置いた。
 


    
                     
トップへ
トップへ
戻る
戻る