まごの手
                     宮川集造
 純三がインターネットの接続回線を、定額のADSLに変更したのは、妻の一恵のパート代が被扶養限度額を超えたかも知れないことを知る前だった。
 ネットに接続する時間が増すにつれて、かさむ料金やネット接続時は他からの電話が受けられないことなどから、純三は思い切ってADSL回線にした。変更後は、情報を得るスピードが速くなり、他から掛かってくる電話のことは気にしなくても良くなる。ただし電話料金は倍以上になる。
 彼は一年くらい前からインターネットを始めていて、半年経った去年の五月くらいからは、自身が書き貯めた小説を発表するホームページを作っていた。そこでは文芸などを通じ、会ったこともない人たちとの交流を楽しんでいる。ネット上だけのつき合いは、他人と深くつき合うのが苦手な純三には、都合の良いものだった。
 ADSLを申し込んだことを純三が一恵に話すと、
「えー、そんなのに入ったの。私、今日、会社から源泉徴収票を貰ってきたけれど、前の会社のと合わせると、扶養の限度額を超えるかも知れないのに。そうなったら自分で年金や保険を払わなければいけなくなるんだ」
「そうなのか。困ったな。でも、もっと長くネットを繋ぎたくなったんだよ」
「そんなにインターネットって面白いの」
「まあね」
 純三は、地元の同人誌に入っている。そこの平均年齢は六十代くらいで、彼とは二たまわり年齢の差があり、勉強にはなるが、文芸以外の交流は出来にくい感じもある。ネットで知り合った人たちは、年齢が近く感覚も通じ合うものがあるようで楽しい。毎日それぞれのホームページの、日記や掲示板と呼ばれる誰もが書き込めるページを見て、いろいろ考えさせられるものがある。ネット上のほとんどの友人とは面識がないし、本名も知らない人が多い。しかし純三は、パソコンを通じ確かに人が存在するのを感じる。だから電子メールを送ったり他人のホームページの掲示板に書き込む際には、実際にあって話すよりも、優しく書き込むようにしている。あるネット仲間から純三は、人当たりが柔らかいあるタレントに雰囲気が似ていると言われたことがある。それは作品を通じての印象だが、できるだけ他人とは争いたくない純三の、性格の表れかと思っている。
「ねえ、そのインターネットのADなんとかっていうの、取り消せないかな」と一恵は夕食の用意をはじめながら言う。
「いやだ。その分くらいなんともないさ」
「そう、じゃいいけど。ーーこれ運んで」
「おう、純三は、そう応えるとおかずなどを載せたお盆を食卓へ運ぶ。
「それにさあ、インターネットって得することもあるんだよ」
「へーえ、何するのよ」
「懸賞とかね」
「あら、それだけかしら」一恵は、ニヤリとした。
「ええっ」
 純三がADSLにした表向きの目的は、文芸関係の交流を活発にしたいというものだ。しかし暇つぶしに見る成人向けの画像や、行き当たりばったりに見つけたページを読むことの方が、時間的には多いかも知れない。
「でもさあ、そんなお金があるなら眼鏡を変えたら良いんじゃないの。今のは格好悪すぎるよ」一恵は、純三をちょっときつく見た。
「そうかなあ」
 純三の眼鏡は六.七年前に作ったものでデザインは古臭くいつもかけているせいか、所々壊れ始めている。しかしチタン製フレームであり、落としても変形しないのを彼は気に入っている。それに視力がここ数年安定しているため、新しい眼鏡を必要としないのだ。
「純ちゃんって、今の眼鏡をかけているとすごくおじさんに見えちゃう。コンタクトレンズとまでは言わないけど、眼鏡を変えたら」
「君がお金をくれたら変えるよ」
「なに言ってんの。それくらい自分でなんとかしなさいよ」一恵は、そう言うと部屋から出ていった。
 純三は、見栄えとかファションを殆ど気にかけていない。特に結婚してからはその傾向が強くなった。人様に不愉快な思いをさせなければ、どんな格好をしようと構わないというのが、彼の考えだ。

   日曜日、この日は保育園バスの運転はもとより、家業の畳の方も仕事はない。他の用事もない。純三にはある考えがあった。
 朝食を取りながら一恵は、
「今日はどうするのよ。畳の仕事もないのでしょ」
「それがさぁ」純三は、茶を飲みながらいやらしく笑った。
「もしかしてーー」
「なんだよ」
「また温泉に行くとか」
「あったり、よく分かったね」
「なに言ってんのよ。あんたこの頃、暇さえあればすぐに温泉に行くのね」一恵の目は少々きつい。
「まあいいじゃないの。仕事はちゃんとしているんだから」
「私が働いているときに、ちょっと酷いんじゃないの」
「やるべき事はやっているんだから、いろいろ言うなよ。君だって休みの日に好きな所へ行けばいいだろう。俺は止めないぜ」
「私は別に行きたいところもないし、あんたみたいに一人で出かけて面白いのかな」そう言うと、一恵は立ち上がった。
 純三は、まあねと言いテレビのスイッチを入れる。
   彼が温泉に通いだしたのは、一年くらい前からだ。最初、以前から一度は訪れてみたいと思っていた、秋山郷のとある温泉に行ってから、彼は過度に観光化してない温泉めぐりを始めた。これまでの間、長野県内北側の温泉を主に二十カ所近く回った。やがて気に入った温泉も出てきて、彼は数カ所の温泉によく通うようになった。その中でも「十円玉色風呂」と彼があだ名を付けた温泉には、月に一度は通い続けている。「十円玉色風呂」の湯は、空気に触ると十円玉のような色に変色してしまい、白いタオルはうすい茶色に染まる。温めのお湯は長く浸かるのに向いていて、殆どの人は一時間以上入っている。知人と世間話に興じる人、一人で来て湯船に体を伸ばしうたた寝を楽しむ人、それぞれのスタイルで過ごす。純三は一人派で、無言のまま湯の揺れに体を預ける。露天風呂の脇に柿の木があり、それが日よけになり外からの視線を遮っているのにも役立っている。彼は、柿木の影の下の湯船で体を伸ばし、なにも考えずうたた寝を楽しむ。様々な人が入れ替わり露天に来るが、純三は言葉を交わすわけでもなく、皆裸なのでどんな人物なのか見当も付かない。いろいろな人がいるのだろうが、一つの風呂に入り、憩いの時間を共有する仲間、ーーそれだけで十分だし、これ以外はじゃまっ気、そう純三は思う。

「ちょっと、いつまでそんなの見ているのよ。私に貸すって言ったじゃない」一恵は、いつまでもインターネットを見続けている純三に声をかけた。
「あっ、もう止める」と応えつつ彼は画面から目を離さない。ネット上のページは、テレビに比べて一つひとつは地味だが、画面を通じて様々な個性に出会えるのが面白いと思う。またテレビだと完成された押しつけでしかないが、ネットは自分も参加し交流できるのは魅力だ。
「私、ゲームをやりたいのよ」
「うん、いいよ」
「だからーー」
「わかったよ」純三は、インターネットを切断しノートパソコンを一恵の方へ向け、
「どうぞお使い下さいーーなあ、俺たちって平等だよなあ」
「そうだけど、どうしてそんなこと言うの」
「このパソコンは二人で使っているよね。これは僕が買ったから、今度買うときは君が金を出してね」
「そういうことを言うかーーせこい奴」
「経済観念が発達していると言って欲しいな」
「なに言ってーー、スーパーで肉や魚が半額になるのを待っていて、風邪を引いて薬を買う羽目になったくせに」
「それを言うなよ。ねえ、それ貸してよ」純三は、一恵の側にあるまごの手を指さした。それを受け取り背中をかきながら、
「気持ちいいーー、いろいろうるさい誰かさんよりまごの手の方が、僕の味方のような気がする」
「なんですって! 」声を荒げる一恵に背を向けて、純三はまごの手を動かし続けた。

 純三は、結婚して数年経って相手の存在になれてしまい、好きとか嫌いとかの気持ちも枯れてしまった。これといって一恵に不満はないのだが、このまま心がときめくこともなく、老いていくかと思うと少々淋しい。不倫とまでは行かなくても、他の女性と交流を持ってみたいこの頃だ。
 純三は、インターネットの友だち募集の掲示板に、「温泉仲間を募集します。いつも一人で行っているので淋しいです。一緒に温泉めぐりを楽しんでくれる方いませんか。よろしくお願いします」と書き込んでみた。程なく、一人の男がメールを送ってきた。
ーー純さん、初めまして。ぱおしゅうと名乗ります。三十九、既婚。僕も温泉へは休みの度に行っています。露天に浸かりながら、人生、仕事、女性、酒、あっちの話やこっちの話、方々に花を咲かせましょうーー
 純三は、このメールを読み、ぱおしゅうという人物を悪くない奴だと思った。しかしこのメールを数秒後に削除した。彼は男同士で入浴を楽しむ趣味はない。その後、なん通かのメールは来たものの、全て男からのもので、その度に彼は削除していた。女性からのメールは来ないものと諦めていたとき、こんなのが来た。
ーーこんにちは。私は二五歳の女の子で〜す。アイといいます。彼はいるのですが、彼、温泉が好きじゃないんです。私も免許は持っているんですけど、ペーパードライバーで、山奥の温泉なんて行かれません。一緒に連れていって下さい。それと女性はどれくらいいますか。ヨロシクねーー
 純三は、期待していたものがついに来たと思った。しかし、他に女性の応募がいないことを正直に書くと、逃げられそうな気がして、こうメールを書いた。
ーーアイさん、初めまして。メールありがとう。女性からは、問い合わせが二・三あります。アイさんが積極的になってくれたら、他の女性も参加してくれると思いますーー
 これに対しアイのメール。
ーー返事ありがとう。そうですか。女の人は今のところ少ないみたいですね。私、純さんのこと、女友達に話したら興味を持ってくれて、その子もいいですかーー
   純三は、
ーーありがとうございます。もちろん大歓迎です。よろしくお願いしますーー
 その後、純三はアイと名乗る女性と何度かメールのやりとりをし、彼女が県内の中程に住んでいること、彼氏とは方々へ行くが、一度も温泉を体験したことがないことなどを知った。
   やがて、互いの素性を知り合った後、温泉へ行く具体的な話が始まった。アイの希望としては、自然の中にあるような露天風呂があり、長時間浸かっていられるくらいの温度で、臭いも余りしないというものだった。混浴かどうかはなにも言わなかったが、純三はとりあえず男女別の方へ行こうと決めた。
 話が決まると、彼は眼鏡を流行している若者受けする物に替えた。ついでに靴もブランドの奴にした。髪に色を入れようか迷ったが、それは止めておいた。
「あんた急におしゃれになって、どうかしたの」一恵に聞かれても純三は、別に、とだけ応えた。
 温泉行きの前日には車を洗いワックスまでかけ、消臭グッズを取り付けた。当日、早く出発するので純三は早起きして支度をしていると一恵が起きてきて、
「早いわねえ、もう出るの」
「うん、遠くで待ち合わせたから」純三は、一恵にネットで知り合った仲間と温泉に行くと言ってはあるが、相手が若い女性二人とは告げていない。
「じゃあ、気を付けていってきてね。あっ、襟首の毛が伸びているよ。剃ってやろうか」
「そうか、まあいいや。もう時間だ。遅れるとまずい」
 純三は、ご飯を食べながら玄関を出た。待ち合わせの駅までは、車で一時間半くらいみておいた。そこでアイたちと落ち合い、目的の温泉まで二時間の予定だ。そこは男女別の露天風呂に休憩室があるのみ。純三は、女性たちが喜びそうな温泉を選んだつもりであったが、気に入って貰えるか心配だった。また初対面なので、携帯電話の番号やメールアドレスは教えあっておいたが、どんな容貌なのか期待していたが、不安でもあった。早朝の車があまり走っていない国道を純三は急いだ。道ばたのラブホテルの看板が、視界に入りすぐ消えた。
 待ち合わせの駅には二十分前に着き、時間を潰すためにコンビニに入った。そこでは若い男女の二人連れがいて、飲み物を選んでいた。 「で、何にする」と男。
「ウーロン茶と、コーラと、それからーー」女は商ケースを見ながら言う。
「そいつ、何を飲むんだ」
「さあ」
 純三は、トイレに入った。出てくると二人連れはいなかった。彼は、雑誌を立ち読みしコンビニを出た。
 車に戻ると、さっきの若い女が純三に近づいてきた。「あのぅ、JUNさんですか。私、アイです。初めまして」目印としてアイに純三の車の種類を伝えておいたのだ。
「初めまして。お連れの女の子はどちらですか」
「それが急に都合が悪くなって、代わりに私の男友だちを連れてきたんです。連絡入れなくてごめんなさい」と、アイはちょっと頭を下げる。
「はっーー、いえいえ」純三がさっきの男を思いだしていると、男が近づいてきて、
「前田といいます。こんにちは.突然すみません。急にこんな事になっちゃって」
「いえいえ、いいですよ」純三は、言葉だけは意外となめらかに出た。
「あのー、お詫びと言ってはなんですけど、僕、車出します。あれですけど」前田が見た先には、けっこう新しいRV車があった。
「いいんですか」
「お願いします」前田がそう言い頭を下げると,アイも作り笑顔でおじぎをした。
 純三の車を空き地に停めると、三人は前田の車に乗り込んだ。純三は後席。
「ほら、JUNさん怒らなかったでしょ」車が動き出すとアイが口を開いた。
「なに言ってんだ。目の前に当人がいるんだから、言葉が見つからないんだろ。すみません」前田は、後の純三をちょっと見る。
「いいえ、すっぽかされないだけ良いですよ。楽しく行きましょう」
 目的の温泉の前に着くと純三は、
「じゃあ一時間後、ここで待ち合わせましょう。良いですね。前田さんは入りますか」
「私、一人で入るのやだなあ」とアイが言うと、
「君が行きたいと言ったから来たんだ。今さらなんだい。あっ、僕はそこら辺をぶらついていますから」前田は、たばこを取り出し火をつけた。
 純三は、二人と別れると男の露天風呂に向かった。ここは露天のみの男女別の風呂で、プレハブの休憩室はあるが別料金。入浴料は三百円。純三は、この温泉に数回訪れたことがあり、慣れた足取りで更衣室に入り、服を脱ぎ始める。裸になりタオルで股間を隠し風呂に向かった。晴天だが木々の葉に日差しを遮られていて、露天を楽しむにはちょうど良い。中年の男が一人先客にいたが、縁にタオルを掛け、それを枕に寝ている。体が微妙に動かなければ、死んでいる様にも見えた。女湯の方から、アイが先客に挨拶するような声が聞こえる。
 純三は、静かに掛け湯をしてゆっくり湯に入った。少し温めで長く浸かっているのにあっている。彼は、胸まで浸かりながら、手足を伸ばし湯の動きに体を預ける。目に写るのは葉の緑色と木漏れ日。彼は、なにを考えるでもなくボーっとしていると、この自然の中に身も溶け込んでしまい、自身の存在さえも消えたような感覚に陥るときがある。純三がそれを楽しんでいると、
「空いてますねえ」前田が、服を着たまま入ってきた。
「やあ、あなたも入りますか」
「僕は入りません。タオルも持ってないし」と前田は軽く手を振った。
「そう」純三は、前田から目をそらす。
「でも、こんな虫とか葉が浮いている風呂に浸かって、気持ち悪くないですか」
「うーん、こういう露天風呂に入りに来るって、流行りの言葉では、癒されたいと言うのかな。別に体を洗いたくて来ているんじゃないんだ。前田さんは、のんびりしたいなあと思うことないの」
「そりゃあります。だけど僕は他のことで癒します」
「温泉じゃなくても良いんですけど、ーーなんて言うかな、生活していれば誰だって時々エアーポケットに落ちることがあるじゃないですか。その穴から抜け出すとまでは言わないですけど、一時忘れさせてくれる気がするんですよ」こう言い切ると純三は、つるんと顔をなでた。その時、女湯の方から大きな笑い声が聞こえてきた。
「エアーポケットって言葉、そんな使い方しましたっけ。まあ、良いか。なんだか温泉も楽しそうですね」こう言い、じゃ僕は外で待っています、と前田はその場から立ち去った。
 純三が湯から上がり外に出てみると、前田が一人でたばこを吸ってた。しばらくしてアイが二人の所に来て、
「楽しかった。初めて会ったおばさんたちと話し込んじゃった。今日はJUNさん、ありがとうございました」
「いやあ、こちらこそ楽しかったです」と純三。
「これからどうします」前田が口を挟むと、アイと純三は、さあと言いたそうな顔をして互いを見た。
「帰ろうか」純三がそう言い、途中コンビニで軽い昼食を買いそこで食べ帰った。
 純三が家に着くと、勤めに出ている一恵はまだいなかった。彼はパソコンを回線接続し、電子メールが来てないか確認した。外出から戻ると、彼はこうする癖が付いていた。するとダイレクトメールに混じってアイからメールが届いていた。
ーー今日は本当にありがとうございました。これ携帯電話から送っています。前田君もなんだか温泉に興味を持ったみたいで、今度二人で貸し切り風呂に挑戦しようと決まりました。今からワクワク。さようならーー
 純三は、パソコンを閉じた。ふと疲れを感じ始めコーヒーでも飲もうと思ったが、カップを取りに行くのさえ面倒になった。しばらくボーっとしていると一恵が帰ってきた。
「ただいま。声がしないから純ちゃんいないのかと思ったよ。なんか暗いね。温泉どうだったの」
「まあ、ね。楽しかった」
「全然、楽しいようには見えないけど」
「そんなことはない。ちょっと疲れただけ」
「そう。あっ、うなじ。朝剃ってなかったね。今剃ってやろうか」一恵は、純三のうなじをそっとなでた。
「頼むよ」
「こっちに来て」産毛剃り機を持った一恵は、ベランダへ行く。純三はつられて重い腰を上げた。
 剃り始めると軽い機械音が響き、彼のうなじは綺麗になっていく。時たま刃が喰い入ることがあり、純三は思わず体をビクッと動かす。
「ごめん、痛かった? 」一恵は手を止めていった。
「いや、大丈夫ーーいつもありがとう」
「今日はお礼なんか言って珍しいわね」そう言い一恵は再び手を動かし始めた。するとまた純三は喰いたような感じがした。しかし今の彼には、その痛みさえも嬉しく感じられるのだった。
 


                     
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