乾いた涙
                             吉原集造

朝、十時を過ぎたら父が配達から帰って来る。今日はそんな感じだ。それは八年以上もこの商
売をやっているカンで分かるのだ。そろそろ仕事場に入っておかなければ、父にサボッていた
ことがバレてしまう。コーヒーをもう一杯飲んでからはじめよう。
 ぼくは父の自営の畳店を手伝っている。ぼくの年は二十八才で、一応の仕事は覚えた。いま
の季節、桜の咲くころになると色々なことが改めてスタートするが、ぼくの生活は殆ど変わりが
ない。せいぜいテレビのニュース・キャスターが代わったな、と感じるくらいだ。まあ、何事もな
いというのは、良いことなのだろうと解釈している。
 やがて軽トラックの音がしたかと思ったら、やはり父だった。父は車を止めるとすぐに仕事場
に入って来た。「ただいま、おい何枚出来たか」
「いやまだだよ」
「なんだ一枚もか」
「うん」
 言い忘れたが、わが吉原畳店では畳表を縫い付ける仕事のほかに、畳床そのものを作って
いる。(実は、今朝父が配達して来たのも畳床なのだ)父は、イヤな顔を見せて仕事場から出
て行った。以前は、父が来るまで仕事場に入らないこともあって、すると彼はえらい様子で怒っ
た。そんな事が何回かあって、とにかく父が帰って来たときには、仕事場に入っていれば、あま
り成果がなくても小言くらいですむのに気付いたのだ。しかし小言でもうるさい。昼飯を食べな
がら
「お前なあ、本当にこの商売をやる気があるなら、もう少しマジメにやれ」
「あるよ、だからやっているじゃん」と言いながら、ぼくはテレビから目を離さない。
「おいふざけるなよ」父は少し強く言い、残りの酒を飲み干した。うちの父は、時たま昼飯を食
べる前に酒を飲む。自営だから出来ることだ。
「おい、聞いているのか」
「聞いているよ」ぼくはテレビから視線を父に移した。 「おい」父の目が座って来た。こういう時
は少し危ない。 
「わかったよ、まじめにやる」
 飯を食べ終わる父はさっきの調子で、
「これを今すぐに洗っておけ」と言い、あごで使った茶碗を指した。
「あとでね。いまテレビいいところなんだ」
「いますぐにだ」
「あとでいいだろう」と言いながら、父の顔を見たら、こりゃまずいと思って、
「わかったよ、洗えばいいんだろ」ぼくはたってお盆を
もち台所にいった。以前、こういう状況で父を無視し、自分の部屋でFM放送を録音していたら
父に部屋の電源ブレーカーを切られ、録音をダメにしたことがあった。それ依頼、よって目の
座った父には反抗しないようにしている。それからはブレーカーは切られていない。これは七年
くらい前になるだろうか。
 夕方、母が仕事から帰って来た。母の仕事は保母で、来年退職になる。母の悩みは兄とぼく
の結婚で、とりわけ目の付くところにいるせいかぼくに早く身を固めてもらいたいらしい。
 その母が帰ったしなにぼくに向かい
「お前、いづみちゃんて同級生がいたろう。いづみちゃん、どう思う。今日ね、いづみちゃんの
お母さんにスーパーで会ったの。で、お前の事、いづみちゃんに聞いてもらうよう、お母さんに
頼んでおいたよ」
「何を頼んだんだい」
 いづみさんという女の子は、中学のときの同級生で、嫌いではないが好きだという程でもな
い。母がいづみさんのお母さんに、何を頼んだのは知っている。だが聞いてやるのだ。
「お前の結婚相手にどうかと思ってさ。いづみちゃんのお母さんも聞いてみるって言ってたよ。
お前のこと、まじめでいい青年だっていってたよ」母は得意そうに話す。「おれ、いづみさんとは
殆どはなしたことがないんだ。だから急に結婚とか言われてもピンと来ないよ」
「いづみちゃん、嫌いなのかい」  
「好きとか嫌いとかじゃなくて、それ以前の問題で、彼女のことよく知らないんだ」
「でも嫌いじゃないんだね」
「そりゃ、そうだけど・・」
「とにかく頼んでおいたからね。お前も頑張りなさいよ」母はそう言い終わると、買って来たスー
パーの袋をもって台所に入った。ぼくが父を見ると、父はポカンとした顔でぼくを見返し、晩酌
の続きを始めた。ほくは、世の中の女性が皆、母のようだったら結婚なんかしないほうがいい
な、と本気で思った。
 その夜、ぼくは自分の部屋で今朝書いた手紙を読み返した。女の人に手紙を出すのは本当
に久し振りだなと思いながら−−。それと映画の前売り券を二枚、封筒に入れた。きっと振ら
れるだろう、馬鹿なことをする、でもこれで気が済む、などと思いながら、机の引き出しから一
枚の写真を取り出した。それはこの前、部屋の掃除をしていた時、タンスに隠れていたのが出
て来たもので、高校のころ仲間で遊びにいったときの奴で、その頃好きだった女の子が写って
いる。もう五年も会っていない。結婚したのは誰かに聞いたけど、その後はどうなっているのだ
ろう。友達に無理に聞き出そうとして、まだ未練があると思われるのも、シャクだし現在の彼女
が分かったところで、何の得もないのだ。だから知らないままにしておきたい。彼女はいつまで
も十七才のままでいて欲
布団に入ってから、あの頃のことを思い出した。ぼくのクラスの男と付き合っていた(後で分か
った)彼女は仲間では一番かわいく、ぼくは彼女を好きになり、個人的に付き合って下さいと手
紙を書いた。すると彼女は、皆と一緒に遊んでいるのが今は楽しいの、ごめんなさい、という手
紙をくれた。それでもぼくは諦め切れずに、彼女から目を離せなかった。ある日、帰り道で彼女
がぼくのクラスの男と二人で歩いているのを見た。気になって後を付けてみると、二人は家と
は違う方向に歩いて行く。そして二人は公園のベンチに腰掛け、ほかに人がいなくなるとキス
をした。−−−                        
 その後で、ぼくは自動販売機の缶ビールを買い、それを飲んだ所までは覚えているが、それ
からどうしたのか分からない。気が付くと、駅の花壇を枕にして寝ていた。それがもとで風邪を
ひき、学校を休んだ。彼女やクラスの男の顔を見るのが嫌でずるずる一週間、休んだ。すると
彼女と奴の二人でぼくの家に見舞いに来てくれたが、会わずに追い返した。それからぼくはま
た一週間、学校に行かずに過ごした。登校してからは、ぼくは仲間から離れてしまった。卒業し
てから仲間で会う機会があり、一度ぼくも呼ばれたが、あれ以来会っていない。ただ彼女がぼ
くの知らない誰かと結婚して事を知っているだけだ。
 いま考えてみると、どうしてあの時、彼女の気持ちを思い、行動出来なかったのだろうかと思
う。彼女が手紙
に嘘を書いたのは、総て丸く収めるためにしたことなのだ。それはあの頃でも、頭の中では分
かっていたはずだった。でも自分のことしか考えられなかった。
 今こんなふうに考えられるのも、ぼくが大人になったという事なのだろうか。さて、今度の場
合、はどうなるだろう。彼女もぼくを好きなら、こんないい話はない。たぶんそうは行かないだろ
う。とすると、失恋したぼくはどんな行動をとるのか。缶ビールを堂々と買っても、別に咎められ
る行動ではない。まして、酔って道路で寝たとしても、カッコ悪いだけだ。二十代後半にふさわ
しい失恋の心を癒す、方法とは何なのか。実際にぼくはどんな行動を取るのだろうか。そんな
事を考えていると、ふと笑いが込み上げて来た。
 翌日、ぼくは理髪店に行った。ぼくは髪形はあまり気にしないほうで、ただ長いのだけは嫌い
というタチだから、毎月行っている。パーマをかけようかと思わないではないが、めんど臭いの
とお金がもったいないので、今まで一度もパーマをかけた事はない。そんなぼくだから、利用す
る店はだいたい決まっていて、そこにしか行かない。その店とは、ぼくより五つ年上の男のひと
で、現在、独身。だが半年先に結婚するというウワサがあるのだ。その日は、ウワサの真偽を
確かめる楽しみもあった訳だ。 この手の話を始めるときは、当たり障りのない話題から始め
るのが定石だ。こういうタイミングは、最近覚えた。
「今度、友だちの結婚式のスピーチを頼まれたんだ。ぼくやった事ないんだけど、田中さん(理
髪点の主人)どんなのがいいかな。田中さんは、スピーチやったことある?」
 大きな鏡の前に座り、最初に髪を洗い体を起こしてすぐに、ぼくはこう言った。
「やった事もあるけど、ちかいうちにぼくがそれを頼む人になったんだ。」と自分から核心をつい
た話を始めたかと思うと、ニヤッと鏡ごしにぼくを見て、
「どんな感じに髪をしたいのかな」と言った。
「ただ短か過ぎて、人に笑われるようでなきゃいいよ。そんな事より、スピーチを頼むっての
は・・・」
「そう、結婚するんだ。日取りや式場はまだ決まっていないけど、半年ぐらいのうちには挙げた
いと思っている。田中さんは動かしている手を一瞬止めてまたニヤッとした。
「それは、おめでとうございます。ちらっとウワサは聞いていたんですが、驚いたな田中さんが
結婚するなんて」 田中さんは、今まで殆ど女っ気がない人で、だけど本人も寂しそうな様子は
見せなかった。だから今回のことも、単なるウワサ話に過ぎないんだろうと、ぼくは考えて田中
さんをからかうのにちょうどいい話題だと思っていた。それが急に本当の話になり、少々面食ら
ったのである。
「俺もいい年だしさ。紹介してくれる人があってね。そ
れで会ってみたんだ」
「それにしても驚いたな。で、相手の人はどんな女性なんですか」
「それが、二十七・八才でさ・・・」と田中さんは照れた笑いを浮かべて、
「俺好みの丸顔でさ。俺は人目見たら気に入ったんだけど、あっちも俺のこと嫌いじゃなかった
みたいで、二・三回付き合ってから決めちゃたんだ。実は俺もビックリしているんだ。
 今日の田中さんは動作のリズムがいい気がする。結婚するのが余程嬉しいらしい。 
「ねエ、車、決まりましたか」ほぼくは田中さんに聞いた。彼は相当の車好きなのである。特に
スポーツ車が好きだ。
「くるま?、ああ、あの事か。それがさ・・」
「ついに二人しか乗れないタイプを買いますか。長年の夢って感じだったもんね」
「それがさ・・、実は迷っているんだ」
「どうして、ちょうど奥さんもらうんだし、いい機会のようにも思うけど」 
「その奥さんていうか、結婚、つまり家庭をもとうとしている男が、二人しか乗れない車なんかを
買っていいのかどうか、なんだ」田中さんの手の動きが少し遅くなった。
「奥さんになる人、何か言っているんですか」
「いや、車を買うことさえ話してないんだ」 
「それだったら問題ないと思うのだけど・・」
「ところがそれがさぁ、自覚の問題だろうけど、結婚が決まった男の責任というのかな・・」
 遅くなっていた手の動きが一瞬止まり、田中さんは自分の中で何かを納得させたような素振り
見せ、すぐに黙々と仕事を続け始めた。
 話は全く変わるが、先日、偶然デパートで中学の担任の先生に会った。ぼくが本を立ち読みし
ていると、後ろから「吉原だろう」という声がしたので振り返ってみると、先生がいた。先生は変わ
っていなくて、ぼくもすぐに思い出せた。顔の形は昔のままだったし、ヒゲも同じだった。全体の雰
囲気も変わらなかった。ただ、腹が少し出て来た。ぼくを教えていた頃、十数年前、せんせいは
二十才台の後半で、今や四十に手が届こうとしていることを思えば、腹が出たくらい、時の流
れで当然もか知れない。
「宮本先生ですね。よくぼくが分かりましたね」
「いやぁ、後ろ姿ですぐに吉原だって分かったよ」
「ぼくは中学生の頃から成長してないように見えるんですか」
「ううん、そうじゃないけど、吉原君が持っている感じみたいな物は、変わってないよ。ちょっと座
らないか」と言い、先生は僕をデパート内の喫煙所に誘い、そこの椅子に腰を掛けた。タバコを
取り出したので、ぼくが火を点けてやった。
「ありがとう。気が付くな。吉原はむかし、こんなことを自然にできるタイプじゃなかったけど。大
人になったということかな」
「そうですか。人のたばこに火を点けるくらい、昔からやっていたと思うけど。先生は変わってい
ませんね。ヒゲも健在だし、頭も薄くなっていませんし、ただ、お腹がナイスミドルになりました
ね。」とぼくは、先生の顔から視線を下げて見せた。
「これかネ、いや、そう言われると、あの頃より出ているかな。と言いながら、先生は手で腹を
撫でた。
 そのうちに、
「お父さん、こんな所にいたの。本売り場にいないんだもの、探したよ」男の子が近寄って来
た。見ると顔が先生に似ている。はたして、先生はその子を指しながら、「これ、俺の息子」とぼ
くに言い、息子さんのほうを見て、「この人なあ、父さんの昔の教え子なんだ。ところでいいゲー
ムソフトは見付かったか」
「ひとつあったからかって来た。ちょっと予算オーバーしちゃた」手におもちゃ店の袋をもってい
る」
「先生、お子さん、おいくつですか」
「来年、中学に入るところだ。おい、挨拶しろよ」と息子さんに言った。
「こんにちは」
「こんにちは。ちょうど、ぼくが君ぐらいのときの頃、お父さんに教えてもらっていたんだ。ねえ、
先生、そう
なりますよ」
「うん、そうかも知れない」
 ぼくはその朝の新聞にゲーム・ソフトの広告が入っていたのを思い出し、
「最近、ゲームのソフトも色々なありますね」と言うと、先生は、
「そうなんだ、次々に新しいのを欲しがって困ってしまう。かなり値も張るし、友達同士で交換し
ているようなんだけどね。お前たちが小さいころは、外で遊ぶのが多かったけれど、今の子ど
もたちは、テレビ・ゲームばかりしているような気がするよ」
「先生、ぼくらが小さいときは、テレビ・ゲームなんてなかったから、やりたくても、出来ませんで
したよ」
「そりゃ、そうだな」先生は笑った。
「なんか、時代の流れってやつですか」
「時代の流れか、||」
 この後、ぼくは先生に少しクラス仲間の現状について話し、別れた。
 宮本先生には苦い思い出がある。
 理科の授業で、ある実験をやった。たまたまテレビで同じような実験を見ていたぼくは、求め
られてもいないのに、得意になってその実験の結果を皆に向かって話した。その時、先生は困
ったような笑いを見せていた。そして気が付かなかったが級友たちも同じ表情をしていた
らしい。放課後、ぼくはクラスのリーダー格の奴に待ち伏せされて、「つまらないことを言うなよ」
と言われた。ぼくは心当たりがなかったから、「なんのことだよ」と返し、リーダー格は「理科の
時間、メチャクチャニしたろと半ば怒ったようだったが、それがぼくにはこっけいに見え、自身
全く悪気がなかったせいもあり、「そんな事くらいで、人を待ち伏せるようじゃ、お前、本当に馬
鹿だな」とニヤリ笑った。「お前の為を思って言ってやるんだクラスの仲間だから」「そんなアホ
な友だちはいらんよ」。「そうか、じゃ、友だちは止めた」リーダー格はそう言い切るとぼくにサッ
と素早く背を向けて、一人で帰ってしまった。そしてその後が大変だった。翌日、ぼくが学校に
行き友だちに「お早よう」と声をかけてもそっけない返事しか帰って来なかった。中には全く無
視する奴もいた。ようやくぼくも事の重大さに気が付いたが、それが手遅れで、ぼくはクラスで
仲間はずれになってしまった。困って宮本先生に相談したら「そうだなあ」と言ったきり、言葉が
続かなかった。先生の顔に、自業自得だ、と書いてあるのが読めた。
 そんなせいで、ぼくの中学時代は寂しいものになった。考えてみると、自分の愚かさに腹が立
つばかりだが、それからは不用意な発言はしないように気を付けているせいか、仲間、全体か
ら嫌われることはなくなったので、あれも良い経験だったと思えるようになりつつある。
 年を重ねいろいろな体験をして、ぼくにも常識らし、
ものが身についた来て、どんな状況になってもソツなく行動出来る感じになった。これは生活す
るうえで大変便利だ。それに比例するように、いろいろな場面、人間、自分自身をたやすく飲み
下せるようになった。これも良い。だが、最近、感動することがすくなくなって来たと感じられる
のは、なぜなのだろうーー。
 母が一方的にぼくの結婚相手を決めた数日後、今度は一方的に断ってしまった。まあ、ぼく
としては、それで良かったんだが。
「いづみちゃん、お前を結婚する対象として見たことがないからだって」と母。
「そら、どうせこうなることは分かっていたんだ」
「なんか私が悪いみたいじゃないのもとはと言えば、お前がしっかりしないせいなんだからね」
「分かってるって。でも焦っても良いことないって」
「そう言っていられる内は、いいんだけどね。そうだ、今日スーパーでお前が高校のとき、時々
うちにも遊びに来た女の子にあったよ。お目出たで、出産で里帰りしているんだっさ」
「えっ」
 ぼくは一瞬、高校のころ好きだった彼女を思い出したが、母は、
「ホラ、細面の色白の、なんとか江とかいう名前の・・」と訳の分からないことを言っている。
「名前に江なんて付く人、高校の友達にはいないよ」「そうかい、あの子の方から『集造君のお
母さんですね』って話し掛けて来たから、間違いないと思うんだけど」 それからも母は、ぶつぶ
つ何か言っていたようだが、ぼくは無理に耳をふさいでいた。というのは、もしかしてその女の
人が彼女となると、ぼくは恐ろしい事実を知らされてしまうことになってしまう気がした。何という
か、最後の逃げ場を壊される、そんな感じだ。年を重ねるに連れ、否応無しで大人になってし
まうぼくの、現実を忘れさせてくれる彼女のほほ笑みを失うなんて、想像したくない。とんでもな
い話だが、仮に彼女がぼくの子どもを産むとしも、厭だ。彼女は永遠に処女でなければならな
い。
 数日後、ぼくがこの前手紙を送った女性、鈴木さんから返事が届いた。はたして、ごめんなさ
い、と書いてあった。自分で説明するのも気が進まないので、鈴木さんの手紙を書くことにし
た。
ーー集造君、手紙と映画のチケットありがとう。わたし達が「スマイル」というテニス愛好会に同
じころに入会して、あれからもう四年くらいになるのかな。集造君は、ドジなわたしをいつも助け
てくれて、とても感謝しています。ただ、ごめんなさい。君はわたしより三つ年下のせいか、わた
しは集造君をかわいい弟としか思えず、男性としてみたことがなかったのです。やはり好きにな
るのは年上か同じ年かなって感じがして。わたしって古い
のなか。だから集造君に好きだって言われてもごめんなさいとしか言いようがないんです。そし
て頂いた映画のチケット、すみませんが、君とは行けません。でも君の好意を有り難く頂き、誰
かと行こうと思っています。あっ、話は前後しますが、わたし今年の秋に結婚しようと思っていま
す。相手の人はわたしの会社と取引のある会社の関係の人で、わたしより二つ上です。(この
彼とは映画には行きません)今までスマイルの仲間に黙っていて、ごめんなさい、なかなか言
い出す機械がなくって、・・。 集造君は、やさしくて思いやりがあって、ステキな人です。きっと
お似合いの女性と巡り会えると思います。わたしも遠くからですが、君の幸せを祈っています。
 映画のチケットありがとう。そしてごめんなさい。
 いま、鈴木さんからの手紙を書き写して気付いたのだが、手紙の最後、幸せを祈る、ではなく
て、折る、になっている。きっと彼女は一気に書いて、そのままザッと読み返して封をしたのだ
ろう。そそかしいと言えなくはないが、こんな愛嬌がある鈴木さんがぼくは好きだった。 こうし
て、ぼくの告白作戦は予想通り失敗に終わったのだが、不思議と悲しくはない、これは結果が
分かっていたというんじゃなくて、悲しいんだが、その悲しみをクールに自身が見つめてしまっ
ている、そんな感じなのだ。
 机の引き出しから、高校のころ好きだった女の子の写真を出して見た。いつの間にか黄ばん
でしまっていた事
 に気付いた。ーー
 今回、鈴木さんのことでぼくは自分がどんな行動を取るかとても興味があった。もうすぐ30才
に手が届こうとする男が、失恋の傷心を癒す方法とは何なのか。それを客観的に楽しんでみ
たいという、妙な気持ちもあった。そして何より、回りや自分をも呆れるような馬鹿げた行動を
取るぼく自身を見たかった気がする。言葉では説明出来ない若さゆえのパワー、そんなものが
まだ自分の中に残っていることを確認したかったのだ。しかし、いまの自分を見ると、そんな物
はどこにもない。失恋して悲しい、それは確かだ。だがそこから沸き上がるワォーとかウォーと
いった類いのもの、そんな物が現れる気配はぼくの中のどこにも無かった。
 鈴木さんに振られたのは悲しい。だが今ぼくを重く暗い気持ちにしているもの、それはぼく自
身の中にあるものなのだ。ーー
 また、理髪店に行くころとなった。ぼくは余程のことがない限り行く店は決まっている。今回も
田中さんのところだ。行ってみると珍しく中年の先客がいた。こんなことは初めての事で、ぼく
は少々面食らったが、何食わぬ顔で長椅子に座って漫画を見ていた。やがて、先客が終わろ
うとしていたときに田中さんは、肩揉み機を持ち出して来て、その客に当てた。田中さんが客に
どこか凝っている所はないかと聞き客が言うと、田中さんはそれに応えて、肩揉みを終わらせ
ると、お待ちどうさまでしたと言った。その客が帰ると今度はぼくの番だ。鏡の前に座りぼくは
「珍しいですね。お客さんですか」
「珍しいはないだろう。君一人がうちのお客なんて事はないさ」
「それはそうだろうけど・・」
「君の来る時間は、いつも暇なんだよ」
 それは言うと、田中さんはぼくの頭を洗い始めた。ぼくは頭をマッサージされるのを快く感じな
がら
「ねっ、車どうなりましたか」と聞いた。
「その話ね、スポーツカー・タイプのは止めて、他のを 頼んじやった。あと一週間くらいで来るっ
てさ」
「それでどんなのを選んだの」
「大勢乗れる奴だよ」
「へえ、そりゃまたどうして」
「なんて言うかな。これから結婚して家族が出来るだろう。そうしたらたくさん乗れるほうがいい
だろう」
「それはそうかも知れないけど・・いい機会だと思ったんだ。スポーツ・カーに乗る」
「確かにそうなんだめだけど結婚が決まって自分の責任みたいなものを考えるようになったん
だ」
「そういうもんですかね」
 田中さんはぼくの顔を剃り出した。自然ぼくは黙った。田中さんはカミソリに集中した。
 それが終わりぼくは、
「結婚するって、そんなに人生観が変わるもんですかね」と言った。
「そりゃ、そうだろう。人生観って大げさなものじゃなくても、一人で気ままに暮らしていたときと
違って来るのは当然だと思うけどな。他人と二人で新しい家庭を作り上げていくって事なんだ
からさ」
「ふーん、ところで最近、田中さんは泣いた事ありますか」 
「ないけど、どうして」 
「泣くっていうか、この頃ぼくは泣くほど嬉しかったり悲しかったりなんて事ないんですよ」
「そういえば、俺も最近は変に気持ちが高ぶるなんて事ないな」
「でしょ、二十五才を過ぎてから感情のままに動くを自制したり怖がっている。ただ生きているっ
て感じがして自分に枠をはめて、その中で生きて行こうとしている感じなんですよ。だから酒を
飲んでもばかになれない」
 すると田中さんは手を止めて
「それじゃ、寂しいだろう。人間幾つになっても夢はもっていなきゃ、生きていたってしょうがない
だろう。それに自分に枠をはめるのは自分なのだから自分でそれを取っ払ってしまえばいいん
じゃないかな」
「じゃ、田中さんは最近、酒の飲み過ぎで食べた物を戻したことがありますか。ぼくはここ二・三
年そんな飲み方をしたことがないし、出来ないんです」







「俺だって戻すなんて事は、最近ないな。でも俺は焼肉が好きで、食べ過ぎると必ず下痢をす
るんだ。そのときは嫌になるだけどまた焼肉を食べれば、その繰り返しなんだ。まあ、下痢って
いっても軽い奴だから、その習慣は直そうとも思っていないよ」
「下痢するまで焼肉ですか」
「だからさ、人間って案外そんなものじゃないの。してはいけない事を何度も繰り返したり、自分
の性格が嫌いになっても、結局はそのままの性格だったりして。それにそこが人間の面白いと
ころだと思うな。君みたいに後ろばかり見ている考えだと、早く老けちゃうぞ。まあ気楽に行こう
や」
「そうですね」とは言ったものの、ぼくの胸の中には、やり切れない何かが残った。
 ここで会話が切れた。田中さんは再びハサミを動かし始めた。総ての工程が終わり、外して
おいたぼくの眼鏡を渡してくれ、
「お待ちどうさま」と言った。
 ふと、立ち上がる前にぼくはさっきの客を思い出し、「そう言えば、この店にも電動の按摩機
があるんですねエ。前のお客にやってたでしょう」
「ああ、あれね、あるよ。それがどうした」
「ぼくにはやってくれた事ないでしょう。この店にないのかと思ってましたよ」
「それは君が若いからだよ若い人にやっても、くすぐっ

たいんでしょ」
 実は、前にぼくはこの按摩機をかけてもらった事があった。それはこの店が休みのとき、初
めて行った店で、オヤジに無理にやられて、くすぐったかったのだ。そのことを言いそびれてい
ると、田中さんは按摩機を持ち出して来て、
「試しにやってみろよ。慣れると気持ち言いもんなんだぜ。金は要らないからさ」と、スイッチを
入れ勝手にぼくの体に按摩機を押し当てた。
 果して、くすぐったかった。が、そのせいで今まで頭の中で固まっていた考えが解けて来て、
やがて気が楽になり力から抜けて気持ち良くなった。
「どうだ、くすぐったいだろう」と田中さん。
「そうですね」と言いつつも、今度は自分から按摩機に体を押し付けるぼくだった。
「これが気持ち良くなって来るとオッサンになったて事だぞ。君はまだくすぐったいから大丈夫
だ」
「ホント、くすぐったい、もう止めて下さい」そう言うぼくの声は、割りと自然に響いた。


                        
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