右手 ひだりて
                              吉原集造
「ちゃんと右手で書かないと、小学校へ入れてもらえないよ」
「だって、わたし、右手で書いたことないもん」
 三月のある日、四月になると小学校に入学するかなは、母さんと二人で、おばあちゃんの家
へ、ランドセルをもらいに来た。すると、おばあちゃんは紙とえんぴつを出してきて、かなに右手
で字を書くように言った。
 ーーかなは、左ききなのだ。
 おばあちゃんは、かなにきちんと右手にえんぴつを持たせながら、
「だから、れんしゅうしているんでしょ。さあ」
「左手ならできるよ」かなは、えんぴつを右手から左手に持ちかえ、スラスラと字を書く。
「字は右手で書くものなの。なんど言ったらわかるの。このいけない手!」と、おばあちゃんは、
かなの左手をたたいた。
「いたい。母さん、おばあちゃんがーー」
「いいかげんにしたら、おばあちゃん。かなが、かわいそうよ。それに、どうしてきゅうに右手で
字を書けなんて言ったりするの。今まで左手をつかっていても、なにも言わなかったのに」母さ
んはそう言うと、お茶をおばあちゃんの前におく。おばあちゃんは、それをひと口のんで、
「今までは小さかったから、かなの好きなようにさせておいたの。でも、小学校に入って、一人
だけ左手で書いていて、先生に変な子だと思われたり、友だちにいじめられたら、かながかわ
いそうでしょ」
「そんなの考えすぎよ。今は左ききの子は、左手で書くのがふつうよ。おばあちゃんは、古い」
母さんがこう言うと、かなも、古い、とおばあちゃんをにらんだ。
「そうかしらねえ。でもわたしは、左手で字を書いたり、おハシをつかっている人を見ると、なん
か変なかんじがするのよね。さあ、いい子だから、右手でえんぴつを持つのよ」
「やだ」
「おねがいだから、おばあちゃんの言うこときいて。右手で書いたら、好きなもの買ってあげる」
「やだ、ぜったいにやだ」かなは、右手をかたくグーにする。
「まあ、気のつよい子。いったいだれに似たんだろう」 そばで二人を見ている母さんは、クスッ
とわらった。 四月になり、かなは小学校へ入った。さいしょの国語のとき、
「みんな、ひらがなは読めるかな。読める子は、手をあげてください」と、小林すみ江先生が言
った。
「はぁい」だいたいの子が手をあげる。かなもはっきりと、左手をあげた。
「じゃあ、書ける人はどうかな。ノートに自分のなまえや、ほかのひらがなを書いてみてください」
小林先生は、教室の中を、まわりはじめた。
 子どもたちは、いっせいにえんぴつを持ち、字を書きだした。かなも左手でえんぴつを持ち、
書こうとした。けれど、まわりの友だちを見ると、みんな右手で書いている。左手にえんぴつを
持っているのは、自分だけのような気がした。そしたら、左手で字を書くと、先生に変なこと思
われたり、友だちにいじめられる、とおばあちゃんに言われたのを思い出した。すると、いつも
は元気の良いかなも、左手でえんぴつを持っていいのか、まよってしまった。とても心配になっ
たかなは、えんぴつをはなし二つの手をつくえの上においた。そこへ小林先生が来た。
「かなちゃんは、まだ字が書けないのね。いいんだよ、これからならうんだから。えーと、えんぴ
つはこう持って」小林先生は、かなの右手にえんぴつをにぎらせる。「わたし、字を書けるよ。で
も右手じゃないの。左手なんだ」
「えっ、ああそうだ。かなちゃんは左ききだったんだね。じゃあ、左手で書いてみて」
[でも、おばあちゃんが、左手で字を書くと先生に変なこと思われたり、友だちにいじめられる、
って言うの。先生、左手でえんぴつを持つのは、いけない子なの」かなは、小林先生のかおをじ
っと見る。
「そんなことないわ。左ききの子は、左手でえんぴつをつかっていいのよ。おばあちゃんみたい
な考えは、昔の人のものなんだ。今は、左ききの子はむりをしないで、左手で字を書いたり、お
ハシをつかえばいいんだよ」
「ほんと?、先生」
「ほんとうだよ。さあ、左手で書いてごらん小林先生は、ニコッとした。かなは、うんとへんじをし
て、いきよいよいく左手で字を書きだした。
 かなは、このことを家に帰ってから、父さんと母さんに話した。父さんは、「ふーん、このこのろ
は右手に直させないんだ」と言い、「良かったね、かな。このことこんど、おばあちゃんに話そ
う」と母さんは、わらった。 それからは、おばあちゃんも、かなが左手でえんぴつを持っても、
きつく言わなくなった。それからかなは、いろいろなことを、左手でやり続けていた。
 そんなある日よう日のことだ。その日、母さんはひとりで、お出かけをした。かなは、父さんに
つれられて、おそい朝ごはんを食べに、スーパーの食堂へ行った。
「かなの好きなもの、なんでもいいぞ」と父さん。
「えーとね、ラーメンが食べたい」
「ラーメンか、よし。すみません!」父さんは、店の人をよんで、
「あの、ラーメンを‥‥、いくつにしようかな。」と、かなをチラッと見る。
「わたしも、ひとつ食べられるよ。もう小学生なんだもん」
「じゃあ二つ」
 やがて、ラーメンが来た。かなは、左手でハシをつかいあついラーメンをふきながら食べる。
しばらくして、だれかに見られているような気がして、まわりを見た。
すると、となりのテーブルにすわっているおじさんが、かなをじっと見ていた。けど、かなが見か
えすと、目をそらした。そのおじさんは、カレーを食べていて、左手にスプーンを持っている。か
なは、どうしておじさんが自分を見ているのか、分かった気がした。でも、だまって食べつづけ
ていた。
 そのうち、さきに食べおわった父さんが、
「さて、これからどこへ行こう。なるべくお金のかからないところが、いいのだけれど。父さんは、
お前が食べているあいだに、ちょっとトイレにいつてくるけど、いいかな」
「うん、いいよ」
「じゃあ行きたいところを、考えておいてくれ」父さんは、トイレに行った。
 父さんがいなくなると、となりのテーブルで、カレーを左手で食べているおじさんが、
「きみは、小学校へ行っているの」と、かなに話しかけてきた。
「うん」かなは、ちょっとビックリしたけど、おじさんがわるい人ではなさそうなので、すなおにこた
えた。
「えんぴつは、どっちの手で持っているの」「左手だよ」「おうちの人、右手でしなさいって言わな
いのかい。おじさんは、小学校へ入るとき、右手で字を書くようにしつけられたよ」
「それはおじさんが、昔の人だからだよ。おばあちゃんは右手でしなさいっていったけど、学校
の小林先生は、むりしなくてもいいってさ。だから、わたしは左手でなんでもやっているよ」
「でもさ、おじさんは子どものとき、野球のグローブを友だちにかりられなくて、こまったんだぜ」
「いいんだ。今の子はサッカーをするんだ。野球なんかしている子はいないよ」
「そっか、そりゃいいや」おじさんは、変にわらって、ひと口水をのみ、
「しかしねえ、右手もつかったほうがいいよ。まあ、これはきみじしんが、きめることだけどね」
 かなは、おじさんをすこしにらんで、
「いいもん。小林先生だって、左手でいいって、言ったもん」
「学校はそれですむけど、世の中はちがうよ」
「どうちがうの」
「世の中のみんなは、左手のことをわすれているんだ」「わすれているって、どういうこと?」
「えっと、それはね‥‥」おじさんは、考えこんだ。かなは、おじさんのかおを見つめる。そこ
へ、
「うちの子に、なにかご用ですか」父さんが、もどってきた。
「あっ、いえ。べつに」おじさんは、あわてたように、どこかへ行ってしまった。
「なにを話していたんだい。ラーメンもういいか」父さんは、すこしのこっているどんぶりを見なが
ら言った。「いいよ。あのね、あのおじさんが、私に右手をつかえって言ったの。おじさんも左き
きなんだよ」
「ふーん、そうか」
「左手でえんぴつを持っても、いいよね」
「いいとも。それと、これからとしょかんへ行こう。今日は日ようだから、たのしいことをやってい
るかもしれない」
「うん、行こう」かなは、元気よくこたえて歩きはじめる。そして、さっきのおじさんが言った、わす
れていることとはなんだろう、とふと思った。
 としょかんに入ると、げんかんにはり紙があった。そ
れは、今日これからやるアニメ映画のものだった。父さんはこれを見て、なつかいしなぁ、と言
い、かなにこの映画をいっしょに見ようときいた。かなは、いままで母さんととしょかんへ来たこ
とはあったけど、映画を見たことはなかった。だから、どんなふうなんだろうときょうみがあっ
て、
「見よう」と言った。
 映画をやるへやに入ると、おくのほうにスクリーンがあり、たくさんのいすがならんでいるのが
見えた。まだほかの人はすくなく、二人は、まん中のいい席をとった。ところで、そのいすが変
わっていた。いすから前のほうにパイプが出ていて、その先に、板がついている。それはノート
をのせるのにちょうどいい広さで、立てたり平らにすることができる。これが右がわだけについ
ている。かなは、こんな小さなつくえを見るのが、はじめてだったので、なん回も立てたり平らに
していた。するとふと、かなは左手で字を書くじぶんは、この右がわだけのつくえで字が書ける
のだろうかと思い、父さんのかおを見ると、
「この映画はね、父さんが子どものころ、テレビでやっていたんだ。そのときは白黒だったけ
ど。きっとかなもおもしろいと思うよ」と、ニコニコがおだ。
「あのさぁ、父さん。この小さなつくえ、右がわだけにしかついてないよ。左手で字を書く人は、
どうするんだろう」
「左がわのもあるんじゃないか」と言い、父さんは見まわして、
「ないか」
「左ききの人はどうするの」
「そんなこと、父さんは右ききなんだから、わからないよ」
「わたしは、このつくえをつかえないよ」
 そのとき、かかりのおねえさんが、前にきてせつめいをはじめた。とうさんは、小さなこえで
「しずかにしなさい。今は映画を見るんだ」と、前をむく。
 かなは、父さんが、とてもとおくにいるみたいに思った。そしてさっきの左ききのおじさんが、
みんな左手のことをわすれている、と言ったいみが、わかった気がした。
 やがてかなは、ふと右手をつくえの上にのせてみた

                         
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