THE  POWER  OF  PEOPLE

 

自然を守り発展させる 副編集長  篠崎浩和


生きる場から

「{生命/いのち}のみどり」をつくりあげる

自然を再生し自分自身をつくり変える


 多くの犠牲者を出した御嶽山噴火


 私の住む長野県は南北に長い。北から南までおよそ220キロメートル。県境には「日本の屋根」といわれている2000メートルから3000メートル級の山々が連なる。

 その長野県の南端、木曽郡木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがってそびえ立っているのが、標高3067メートルの御嶽山(おんたけさん)である。東日本火山帯の西端に位置し、大きな裾野が広がる独立峰で、木曽川水系の源流の山でもある。古くから信仰の対象にもなり、気軽に火口周辺まで登れる山として、地元の人たちだけではなく全国でも多くの人に親しまれてきた。


 その御嶽山が9月27日、黒煙を上げて噴火した。週末の行楽日和と昼の時間帯が重なったことから、山頂付近には多くの登山者がいた。

 爆発音に続き、火山灰が大量に降りそそぎ、辺りは暗闇に包まれた。そして噴石が登山者を襲い、戦後ではもっとも多くの犠牲者を出した雲仙・普賢岳の噴火災害(1991年)を上回る人たちが亡くなられた。いまも山頂付近の捜索は続いている。

 無数の噴石は逃げ込んだ小屋の屋根も突き破って降り続けた。逃げる間もなく火山灰に埋もれた人。噴石に直撃され動くことさえできなかった人。さらに家族や仲間と離ればなれになり、助けに行くこともできず、ぼう然と泣き崩れる人。テレビに映し出される映像を見ながら、そうした光景を想像するだけでも言葉を失う。

 亡くなられた方々に心からの哀悼を申し上げます。大切な人を突然失った、ご家族や肉親や友人の皆さまに心からのお悔やみを申し上げます。被災された皆さまに心からのお見舞いと励ましの言葉をお送り致します。

 気象庁によると、噴火に先立ち御嶽山では小規模な火山性群発地震が続いていたという。気象庁はこのことを地元自治体には伝えていたというが、噴火の警戒レベルを1(平常)から2(火口周辺の立ち入り規制)にどうして引き上げなかったのか。「登山規制」の社会的影響を考慮してためらった、と思われるが、個々の火山には固有のリスクがあるといわれる。御嶽山では多くの登山者が火口周辺に近づける。しかし火山性群発地震が続いているという情報さえ、ほとんどの登山者には伝わっていなかった。

 また亡くなった人の多くが噴石が当たったことによる「損傷死」だったといわれている。火山が噴火した際、飛んでくる噴石から身を守る「シェルター」を御嶽山は備えていなかった。


 生態系を破壊する人類


 人間は自然とどう向き合えばいいのだろうか。

 自然は生物や人間に常にほほ笑みかけているわけではない。自然は生物や人間に恵みだけをもたらしているわけでもない。

 当然のことであるが、自然存在は人間存在より遥か前からある。宇宙史があり、生命史があり、人類史があるとすれば、人類史などはごくごく最近のことである。自然が人間を生みだし、人間は自然の一部にほかならない。したがって人間は自然から逃れることはできない。

 自然の脅威の前に多くの生物が絶滅の危機に瀕し、文明もまた滅んでいった。

日本の火山史だけをみても、箱根火山の大噴火は5万年から10万年も前にさかのぼる。富士山の大噴火も数万年前にくり返され、それによって「関東ローム層」が形成され、そこでは活動していた多くの生物が死に絶えたと思われる。

 人間と自然とのあいだの矛盾は、人間と人間との関係矛盾としての社会矛盾や階級矛盾とは質の異なる根源的な矛盾ともいえる。

 自然の運動もまた、単なる生成と消滅のくり返しではない。自然界のエネルギーは物質に転化し、その物質はまたエネルギーを放ちながらさらに新しい物質をつくりだしていった。生命史も人類史もそうしたなかで進化し発展してきた。

 そのなかで生まれた人類は、自然に働きかけ、自然を変え、そのことをつうじて人類自身を変えてきた。あらゆる生物のなかで、目的意識をもって自然に働きかけ、自然を改造してきたのは人類だけである。それが労働であり、人間がつくり出す社会的生産にほかならない。人間は労働することをもって、社会的生産をおこなうことをもって進化してきたのである。

 しかし産業革命以来の爆発的な生産力の発展は、自然を破壊し人類と自然との対立を深めていく結果になった。オゾン層の破壊、地球温暖化、酸性雨、土壌破壊、熱帯雨林破壊、海洋汚染など、人類はすでに自然界の生態系そのものを破壊してきている。さらに究極の自然破壊としての核兵器や原発をつくりだし、人類はいよいよ自然と人類との矛盾を自らのおこないをもって危機的に深めていっている。

 自然の一部である人類こそが自然に溶け込み、目的意識をもって働きかけられる人類こそが「自然を豊かに創造する」、そのように自然に働きかけていく以外に、人類は自らを発展させることも変えることもできない。


 みどりと水と土壌を豊かに再生する


 私は、その「自然を豊かに創造する」働きかけを私の生きている場からつくっていく。生きている場から「生命(いのち)のみどり」をつくりだしていく。そのことの自覚と実践なしに、自分自身を変えていくこともできない。

 自然を破壊し尽くしてきた人類のひとりとしての私自身が変わらないかぎり、豊かな自然をつくりだしていくことはできない。

 山岳が重なりあう急峻でみどり豊かな私のふる里。信濃川水系、天竜川水系、木曽川水系、姫川水系など、豊富な水系をかかえて自然に恵まれた私のふる里。しかし「都市化」の波と「開発」の波にのみ込まれながら、そのふる里もまた破壊の真只中にある。

 1998年には冬季オリンピックがおこなわれた。山肌は削られ、コンクリートの施設があちこちに造られた。現在、長野市に造られようとしている県営の「浅川ダム」も、オリンピック施設と市街地を結ぶ「付け替え道路」のために復活したダムにほかならない。

オリンピックに合わせて長野新幹線が開通した。当時、私たちは新幹線による環境破壊に抗議し、軽井沢での「立ち木トラスト」運動と軽井沢現地での建設阻止闘争を闘った。しかし新幹線建設を止めることはできなかった。その新幹線は来年3月には、さらに金沢まで延伸される。


 市街地を歩けば、最近まであった小川も姿を消し、アスファルトの道路だけが張りめぐらされている。沿道には街路樹もなく、夏の猛暑を木陰でしのぐことさえできない。どこまでも続くコンクリートジャングル。多くの生き物は居場所を失い、ひとはその中をあてもなくさまよい続けている。無機質な環境と空間は、人とひととの関係も空疎なものに変えていく。

 資本主義と近代文明の暴走によって、工業化と都市化の波は無限に広がりつづけ、自然を無残に蚕食してとどまらない。この無限の波及を止めることができなければ、人類成立の基盤そのものを喪失し、人類はもちろん生物種はいつか死滅していく。

 自分の生きている場から「生命のみどり」つくりだしていくことは、たとえそれが微々たる力とおこないであったとしても、人びとが生きていく基盤を豊かにし、滅びつつある生命と水と土壌を再生していくことにほかならない。

 そのための一つひとつのおこないこそが、自然の一部としての自分自身をまた豊かにし、自然を構成する人とひととの結びつきを深めていく。

そのおこないを、私は自分の生きている場から始めていく。

(2014年10月12日)