THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考177 「自分を欺かない自分」になる 人民の力代表 常岡雅雄


激動する「新しい帝国主義」世界に

「地球規模の人民連帯の帯(おび)」を織る


現実に惑わされず原理を見失わず

自分を欺かず—いつも若々しく


粗野で野蛮な「国(くに)」主義を洗い流し

「地球人」としての無限の広がりと深さをもって進む


 前号(夏季合併号)の巻頭言(社会主義考176)で、私は、「新しい社会主義」をめざす、私たち「人民の力」の「姿勢と進むべき方向」を狭くて浅く野蛮な「国家・民族・人種・宗教」主義を超えて、広く深く、そして遠く、無限の「地球人の道」を進むと語りました。

 そして▼古色蒼然たる「大国主義と天皇主義」に惑わされない▼「米国隷従」主義の「日米同盟』論に誤魔化されないと、私たち「人民の力」の政治的で思想的な心掛けをあらためて明らかにしました。

 そのうえで、次の三点を強調しました。

 (一)粗野で野蛮な「国意識と民族主義と宗教主義」を洗い流して、「脱国家」・「脱民族」・脱人種」・「脱宗教」・「脱○○主義」を遂げて「無限の広がりと深さをもった普遍的な人間—即ち「地球人」—として生きる道を「21世紀の私たち」は切り拓いてゆく。

 (二)①「白人世界の侵略と支配」の近代世界の基本構造の変革」と②「徹底民衆主義と真正平和主義の新世界の創出をめざす地球人への自分の作り変えと「民衆連帯の帯(おび)」を織ることに努める。

 (三)全世界の「弱きもの」の側に立つとともに、更に地球規模の「弱者連帯の帯(お び)」を織っていく。

 21世紀世界に「新しい社会主義」をめざす私たち「人民の力」の「姿勢と進路と決意」をこのように語ったうえで、それを安倍政権の登場と関連付けて、夏季合併号の巻頭言を次のように結びました。

 安倍自民党を政権に浮上させた日本の支配勢力はアメリカへの隷従国家でありつつ、天皇主義国家へと回帰しつつあります。生活危機を深める「日本国民」がその「先祖帰り」の浮力となっています。

 この反動的回帰に対抗するには「地球人として自覚」し「地球規模の連帯の」を織ってゆくことができねばなりません。


憲法(国の最高法規)で

「武装も戦争もしない」と誓ったはずの日本


 そこで、今号では、社会主義政治同盟「人民の力」の一員としての私たちの「自分そのもの」の「あり方」に目を向けてみたいと思います。

 私たちは、政府や官僚や支配勢力やマスメディアに「騙されること」に「不感症になってしまっている」のではないでしょうか

 今の日本には「自衛隊」があります。

 その「自衛隊」は「武装した暴力」であり「戦力」であり「軍隊」であります。「そうではない」と否定できる人は何処にもいません。

 ところで、その「私たちの国」=「日本国」の「最高法規である日本国憲法」はその第九条では「何と定めている」でしょうか。「日本国のあり方」として「自分自身に何と誓っている」でしょうか。全世界の国々と人々に向かって「何と宣言している」でしょうか。

 日本国憲法の「第二章 戦争の放棄」第九条では、次のように「戦争の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認」を宣言し誓っています。


 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


政府や支配勢力やメディアに

騙されない自分になる


 このように、「国家の最高規範である憲法」では「非武装と戦争放棄」の「絶対平和主義」を「国是として定め宣言している」のです。

 それにもかかわらず、その「否定と放棄」を誓い宣言したはずの「戦争のための武装部隊」が「自衛隊と称して存在している」日本—このような「憲法違反の自衛隊」=「国是=絶対平和主義」を踏みにじった「武装部隊(軍隊)」が平然と存在する日本—「自ら定め宣言したはずの国是」を踏みにじって恥ずかしいとも感じず平然としている日本—その日本国のなかに私たち「人民の力」は「新しい社会主義をめざす」政治同盟として生きています。

 「憲法違反の自衛隊(軍隊)」が「厳然として存在している」にもかかわらず、憲法9条が「その条文の一字一句も変えられずに「ある」から日本は「平和国家」だと思いこまされた(騙された)日本国民—そのなかで私たち「人民の力」も生きているのです。

 それは私たち「人民の力」も「騙されている」のと「同じこと」ではないでしょうか。その「騙されている」ことを「恥と思わない」でいいのでしょうか。自衛隊は「平和主義であるべき日本」の「国是を踏みにじって存在する違憲部隊だ!」と「原理的に明確に主張する」ことのできる「自分になるべき」ではないのでしょうか。

 「武装部隊(軍隊)以外の何ものでもない自衛隊」が「厳然として存在しているという現実」に「心も頭も埋もれて」しまっていながら、「軍隊なき平和主義日本の実現」=「戦争放棄の平和主義日本の実現」という「真正9条=絶対平和主義の思想と主張」を小賢しくあざ笑ったり嘲笑したりする「日本国民」を私たちはあちこちで見かけます。

 そのような「低俗な人間」になり果てるようなことが、私たち「新しい社会主義者」=「人民の力」にあってはならないのではないでしょうか。

 あるいは、憲法9条にもかかわらず「自衛隊=軍隊が存在する」という現実の重みに心を塞がれ頭を垂れて「違憲自衛隊の存在」を「やむをえない」=「仕方がない」とか、更には「当然のことだ」などと—「自分を自分自身で欺くような自分」になり果てるようなことがあってはならないのではないでしょうか。

 俗世の現実にズブズブになってしまうのではなく、志高く清々しく生きてゆきたいものです。


「平和主義世界への砦」として

「真正9条日本」の実現をめざす


 一言で「社会主義」と云っても、実際には「古い社会主義」=「既成の社会主義」の時代は20世紀で終わりました。今世紀(21世紀)以降は「新しい社会主義」の時代です。それは荒野に道をひらくような「手さぐりと逡巡と必死の社会主義」の時代です。

 私たち「人民の力」は、40年前の1971年結成以来の「独自の自立の精神」と「理想主義の思想と熱情」を結晶させて、その「新しい社会主義」の道を「荒野に探求」して行っています。

 この「新しい社会主義者」としての私たち「人民の力」には「大きな理想」があります。人類の有史以来まだ見たことのない「武装も戦争もない平和主義世界」を切り拓いてゆくという「人類史的な理想」です。

 私たち「人民の力」は「現世の生活をかかえて懸命に生きる普通の人々」とともに心を合わせ力を出しあって、その「人類史的な理想」を探求してゆきます。

 私たちが「その実現を主張し探求」する「真正9条日本=徹底平和主義日本」は、その「武装も戦争もない平和主義世界」への「砦」としての「人類史的な使命」を帯びているのではないでしょうか。


「自分を自分で欺かない自分」になる


 国家や支配勢力に「騙されない自分」になる!「自分を自分で欺かない自分」になる!—そこにこそ「全ての根」があり、全ては「そこから始まる」のではないでしょうか。問われているのは「私たち自身」なのであります。問われ試されていくのは「私たち自身」なのであります。

(2013年8月22日)