THE  POWER  OF  PEOPLE

 

厳しさに温かさを秘めた労働者のための組織を 樋越 忍


自分の手でつくる労働組合


 私たちが待ち望んでいた人民の力第十一回大会が三カ月余に迫ってきた。

大会は、私たち自身が抱いている期待を大きく超えて、全ての労働者や活動家の期待にも応えなければならない。もちろん大会で決めることは、私たちが今後の未来をかけて進んでいく道筋を私たち自身の問題として考えることであるけれど、決してその次元にとどまるものではない。


 私たちという視点から社会に切り込む意思を持とう


 一昨年の年末に社会問題になった「年越し派遣村」は、昨年もいっそう深刻な「派遣村」になった。ますますその規模が拡大していることが明らかになっている。人員の削減に向かって進みだした企業の雇用調整は、非正規雇用労働者の削減から正規労働者の削減に向かっている。そして正規雇用労働者の絶対数を減らし、その穴埋めに非正規労働者を充当させるという何ともおぞましい労働政策に向かっている。その結果は、誰もが予想するように正規労働者が少数になり、非正規労働者が従業員の多数を占めることになる。いうまでもなく非正規雇用労働者の特徴は、使いたいときに必要なだけ使うことができる労働者であり、企業にとって理想的な労働者なのだ。その上に、尚更好都合なのは、非正規労働者のもう一つの特徴である未組織の労働者であることだ。そしてこれらの労働者は、大半が低賃金しか得られておらず生きて行けるには遠くそして死ぬまでには至らないという人たちなのだ。そのことによって経済はますますデフレ傾向の流れを加速してしまうことが確実になる。経済立て直しの重大な柱になる消費者の購買力が低下し、国内需要は低下したまま底に張り付いてしまうのだ。その責任は企業にあることは誰の目にも明らかだが、数年の間で十数兆円の利益を獲得したトヨタなどは、労働者への対策に一銭も出さない。グローバル経済の荒波に打ち勝つには、どんな些細なつまずきも許されず、内部留保資金の取り崩しはその第一歩になると考えているのだ。

 この様な行き詰まった閉塞社会に向かって「根本からの変革」を掲げ闘いを始めなければならないが、その資格を持っているのは犠牲を押し付けられている労働者たちに他ならない。だが肝心の労働者たちが結集している労働組合は少しも動いていない。「俺たちの身を守ることで精いっぱい」と言いつつ、周辺で苦しむ仲間を見殺し状態にしているのだ。今こそ「俺たちの」という視点から脱却し、「全ての労働者、国民のため」という、社会に価値のある闘争精神を取り戻すときなのだ。


 小さくても価値のある労働運動に向かおう


 組織と運動は状況と現実に規定されて作り出されなければならない。同時にその組織が掲げる目標に向かって行くための強烈な使命感がなければならない。

 私たちが持っている力は決して大きくないが、小さな力量しかないからといって自分たちのことだけしか考えてはいけないはずはない。むしろ小さいからこそ、現実に足をつけ未来に希望が持てる道を掲げるべきなのだ。

 そこで「価値のある運動」とは何かだが、労働組合という組織は労働者の団結体であると同時に、それは人間の組織体である。人としての個々人が組織に発展し、行動し闘うためには互いの協働意識と信頼が絶対に欠かせない。そのためには個々の人間としての尊厳が首尾一貫して守られなければならないし、常に守られていると実感できることが何よりも重要である。私たちが今までに経験しまた見てきたことの中に、企業の労働者攻撃に際して組合は「多数を守るために少数の犠牲はやむを得ない」、といって少数の、もしくは他派閥の人間の尊厳を切り捨ててしまったことが少なくない。こうしたことの繰り返しが常に行われ組合は完全に消滅していくのである。最小の仲間を多数は必ず守り続けること、守りきれないときは多数も少数の仲間と運命を共にする決意と覚悟がなければ互いに信頼しあう団結体など作れるはずがないことをはっきりと理解しておかなければならない。

 この考え方は単なる理念ではなく組織の運営の中にも貫かれていなければならない。例えば、役員と組合員の関係にもそれが言える。知る限りでは、役員には何か特別の権利が与えられており、組合員は役員におとなしく従う者というような偏見のようなものがある。それは私たちが目指す組織ではない。

 確かに人である限り、向き不向き、力量に違いがあることは当然である。だが力のある者だけが特別な権限が与えられて良いというものではないはずだ。人には獣と違って働かせる知恵と理性があるではないか、そして他への思いやりという優れた資質をだれもが持っている。それを基本にしていけば、役員の真の資質は「人に尽くす」ということではないのか。組織の質はこんなところから始めなければ得られないのだ。

 「派遣村」という悲惨な現実を目にしたとき、私たちはいったい何を考えるのだろうか、個人の思いは限界があり誰もが行動を起こすとき躊躇する。しかし、個人でできなくとも組織ならできることがあるはずだ。ある団地では外国人労働者が半数を占めて生活しているが、この不況下で多くの首が切られた。有志たちが集まって生活支援に乗り出したが、どうしても十分なところまでしてあげられない、そこで手分けして組合など団体に支援を求めたけれど殆どが背を向けてしまったという。労働者と同時にお互いに人間同士ではないか、「思いやり」、「人に尽くす」最低の良心すら行使できない組織に本当の価値があるのだろうか。私たちは決して他人事のように思うのではなく教訓にしなければならない。

 また、組織とはどんなものであり、どこに在るべきかという課題がある。普通組織は姿・形が見えないのだが、我々が組織を目にすることができるのは、その組織が動き出したときである。動き始めた組織が大きくなればなるほど社会への影響は大きく、計り知れない威力を発揮する。では組織が動くということはどんなときなのか。それは、極端に言えば労働者が少人数でも語らいあって意見を言い始めることから始まる。あるいは問題が発生し役員がその現地に駆け付けたことから始まるのだ。そしてこの動きが周囲の労働者の目にとまり組織が動いていることを認識することができ、組合は常に労働者のために動いているのだと実感し、組織を一層深く信頼することができるのだ。だが実際の組織はそうなっていない。問題が発生しても役員は出てこないのだ。周りの仲間も役員が無関心であるだけに、自分を犠牲にしてまで告発する勇気が持てず問題になることがない。つまり労働者の周りには組織が存在しないのである。存在しない組織をどうして信頼できるのだろうか、長期にわたって低迷する組織率低下の原因の一端をここに感ずるのである。

 私たちが目指す組織・組合は、常に労働者の身近に存在していることでなくてはならない。


 切磋琢磨する組織が成長する


 繰り返すけれど、私たちが考えている労働運動というのは多くの労働者が理解しているような「企業内労使関係」に制限されたものではない。そして労働者だけに関係していればいいという狭い領域に視野を限定しているわけでもない。人が人として生きていくために出てくる様々な問題の全てを課題とすることだ。その課題を直視し、解決のためにあらゆる運動・闘いを強め社会の発展を期すということである。

 しかし、あらゆることを問題にし、闘うと言っても限界がある。それほど私たちに知識や経験など、全てを扱うだけの能力があるわけではない。即ち、誰もが未完成であり、誰もが成長過程である。おそらく生涯をかけても未完成のままであろう。この集団が組織であり労働組合なのだ。そう認識することが運動と組織に関わる者にとって大切な心構えである。そして、知らないことは知る努力をし、問題の本質を突きとめ解決の道筋を模索するという姿勢を欠かしてはならない。だが実際の組合役員は知った振りをし、適切な指導も方針も示すことがない。だから、そんな組合は百年一日のごとく、何の変化も成長もないのだ。そして企業内に閉じこもり、地域に出て行こうとしない。外の世界を知らないから、当然社会が大きく動いていることも知らず鈍感である。その様な指導者に共通することは、情報の一人占め、問題それ自体を隠し組合員にも明らかにしない。その問題の本質が理解できなければ解決の道を示すこともできないことは当然である。そこに秘密主義と官僚主義が蔓延することとなる。

 私たちは、その様な例を嫌というほど見てきた。そして情報公開の大切さを身にしみて理解している。私たちの行う運動は、まず情報開示から始め、検討は組合員と一緒に行い、解決の道も皆で考え決める、プロセスこそ組織の生命線だと考える。このプロセスに参加した組合員は、指導部の良さも弱点も理解するし、闘いの必要性も分かって闘いには積極的に加わろうとするに違いない。

 企業を越えて労働者の組織と闘いを作り出そうとする私たちにとって「切磋琢磨」していこうという心構えは不可欠な条件となっている。

 この様な姿勢を同志たちと共有して新しい労働運動を作って行こうと思っている。これこそが非正規をはじめ、多くの労働者が求めている組織と運動だと確信している。