THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考168新帝国主義への転形期選挙の只中で 常岡雅雄


脱「天皇制」・脱「隷米」・脱資本主義

「憲法9条=徹底平和主義」・「東アジア平和共同体の道」に立って


原発さようなら!消費税なくせ!TPPごめんだ!


〈やさしさ〉〈緑と青〉〈非暴力〉の心をもって

自分自身と自己周辺の変革をめざす



右カーブを切りつつわが道をゆく—野田佳彦政治


 自民党安倍晋三総裁との党首討論(11月14日、衆院)で野田佳彦首相が斬り返し的に「解散宣言」を発した。翌朝(11・15)の東京新聞によれば「異例」の「捨て身」の「暴走」なのだ。かくして11月16日衆院解散—12月4日公示—12月16日投開票となった。野田佳彦「2012年冬の陣」だ。

 二番煎じ総裁である安倍晋三総裁の「改憲」「国防軍」「集団的自衛権」と「超インフレ財政」の極反動路線のもとでの「ひと昔前のわが世の春」を夢想する自民党—野田首相下にいよいよ混迷と離脱と分解の自滅状況を呈する民主党—粗製の大味乱味もなんのそのの「第三極」をめざしての橋下徹「日本維新の会」と石原慎太郎「太陽の党」の「狐と狸」野合、等など。日本政界は「14党乱立」(東京新聞11月22日朝)という「雨後の竹の子」的な悲喜劇の竹薮と化している。

 この「14党乱立」の「雨後の竹の子」的な竹薮政治状況は何だろうか?

 それは「新しい帝国主義日本への転形過程」の「ひとコマ」なのだ。

 この政治状況には「理由のある」ことだ。この竹薮的な「政治状況」は「一寸先も定か」には見通しのきかない深い闇の中であるが、思想と理論のとびらを大きく開くならば、自分の「立ち位置」も「進むべき道」もハッキリと浮かび上がってくる。ここのところ、本誌「巻頭言—社会主義考」において私は、その「立ち位置」と「進むべき道」について語ってきた。ここではまず、9月1日号、10月1日号、そして11月1日号を振りかえってみたい。


日本国民よ—理性人たれ

9条国家日本東アジア平和共同体の道へ


 10月1日号「巻頭言—社会主義考166」において、(1)万国の労働者に領土問題はない「暴虐と戦争への道」は「国家愛と領土愛」で敷き詰められていると、「国家と領土」についての労働者・民衆の基本的な立場と思想について語りながら、(2)天皇制下の近代国家としてアジアの国家・民族にたいして犯した「侵略と戦争と植民地支配」の非人間的な犯罪性の「自覚と反省」こそ日本国民に問われている日本国民よ、理性人間たれと呼びかけた。(3)そして結びに、「東アジア平和共同体づくりの道」を次のように語った。

(一)前掲の日本メディアの狂騒に見るように、今日の日本のブルジョア支配勢力や帝国主義者たちは「日中間の対決と戦争」に通じる「国家主義と領土主義」を軽率に煽っている。黙々と困苦のうちに日々を生きる「普通の人々」はこれらの卑劣で無責任な煽動を軽信して「対決と戦争の道」に誘い込まれたり陥ったりすることがあってはならない。

(二)「尖閣に日米安保を適用」などと言っている帝国アメリカに騙されてはならない。南北戦争以来の帝国アメリカの成立と発展(「太平洋侵略」)の「究極の果て」として「巨大な中国の壁」にぶつかった帝国アメリカは「尖閣に日米安保適用」と称して「対中国」帝国主義政治に日本を利用しようとしているのである。「日米安保」という「隷米日本のくびき」を打ち払って「真の9条国家」=「非武装・戦争放棄を厳守する絶対平和主義国家」として毅然と全世界の前に立ち「絶対平和主義政治を堂々と全世界的に展開する」ことこそ「現下の日中韓領土」問題が日本に提起している課題にほかならない。

(三)「現下の日中韓問題」に当たって、日本の労働者・民衆や社会主義者は(1)「領土問題」などという愚かな「国家主義」「国民主義」に陥って卑劣なブルジョア支配階級や帝国主義者に利用されることではなく、(2)「東アジアにおける諸国家・諸民族の平和=戦争放棄と協力協調」と「全世界の諸国家・諸民族の平和=戦争放棄と協力協調」のための「東アジア平和共同体(仮称)の構築」に向かう「毅然たる姿勢」を確立し「堂々たる営為」を行うことである。


社会的な「弱者」こそ

「9条日本=平和主義日本」と「東アジア平和共同体」を創る


 続く11月1日号「巻頭言—社会主義考167」でも「東アジア平和共同体への道」について強調した。即ち、「東アジア平和共同体への道」の「鍵は日本にこそある」のであって、その日本に必要な三つの必要条件について提起した。

(一)第一には「明治以降の日本」こそが「反日」の「原因」なのだと明治以降の近代日本の国家及び日本人としてアジア諸国・諸民族に対して犯した「侵略と暴虐と植民地支配」という厳然たる事実に即した歴史認識、即ち「厳しい自己批判」が必要である。

(二)第二には、日本国家のあり方として「非武装・戦争放棄」「日米安保破棄」の「憲法9条=平和主義日本」創りが必要である。

(三)そして第三には、その「憲法9条の実現による平和主義日本創り」と「東アジア平和共同体創り」の「主体は誰か?」と問うとき—それは「悲哀の海の弱者」の「心と行い」こそが「平和と友愛の東アジア」を創ると次のように説いた。

 「日本国という国家」を「9条国家=平和主義国家」へと「創り変える」鍵はどこにあるのだろうか。誰がその鍵を持っているのであろうか。もちろん、「国家の実体」こそがその鍵である。では、その「国家の実体」とは何だろうか。誰であろうか。言うまでもなく、それは「国家を構成する人々」にほかならない。

 ひたすら「勝者アメリカへの卑屈な敗北主義根性」=「勝者アメリカへの隷従根性」をもって戦後日本を「隷米日本」として復活させ構築し指導してきた、戦前からの生き残り、あるいは戦後新生の天皇制政治家・官僚群やブルジョア支配階級が、「隷米日本からの脱却」や「東アジア平和共同体づくり」のできるはずがない。

 「日本国家を構成するもの」のなかでも天皇制的な政治家や官僚及びブルジョア支配階級ではなく、その戦後日本国家の中でも抑圧され支配された労働者・農民・中小企業家・中小商人・知識人・学生はじめの「普通の人びと」こそが「東アジア平和共同体創り」の有資格者であり牽引者である。しかも、今日の日本社会は、縦にも横にも幾重にも階層化し波状化した矛盾による「人びとの深刻な悲哀の海」にほかならないのである。

 その階層化し波状化した矛盾による「悲哀の海」の「最深海底からの弱者」の社会的にはもっとも根本的な「思想と実践」こそがもっとも友愛的で平和的なのである。そうした「弱者の思想と実践」だけが「東アジア平和共同体への道」をきりひらいてゆくのである。


「国家主義」は云うまでもなく「国民主義」さえも克服して

「民衆主義」に徹する「普通の人びと」の「心と力」こそが

9条国家=徹底平和主義日本を創造する


 更に今年9月1日号「巻頭言—社会主義考165」を思いおこしたい。私は、東アジアでの日本・中国・韓国の国家対立が急激に噴出して「戦争勃発の危機」さえも感じさせるに至った「竹島と尖閣諸島」問題をめぐって、すでに次の四点を強調していた。

(一)第一には、日本は「非武装」「非暴力」「戦争放棄の「9条国家」へと向かうべきこと。(二)第二にはその9条国家創造の「心と力」は「普通の人々」こそ持っていること。(三)第三には、その「普通の人々」は「国家主義」は言うに及ばず「国民主義」をも打ち砕き、国家・国・民族・宗教・人種などを超えた「人類普遍的な民衆主義』に徹すべきこと。(四)そして、第四には国民主義を削ぎ落とし絶対平和主義の9条国家へと向かうべきことを説いた。

 民主党政権と野田政治が生み出した「雨後の竹の子的な竹藪政治」の「一寸先も見えない竹藪」の中にあっても、大きく深い視野をもって、それが「新帝国主義日本への転形期」であることを見定め、悠々たる構えで、新帝国主義に対抗し変革できる「徹底民衆主義の潮流」をうみだし波立たせてゆこう。(2012年11月23日)