THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考172社会主義の新しい道常岡雅雄


資本主義の暴虐に抗して「新しい社会」づくりへ


人間主義の心をもって

資本主義への根底的批判を


社会主義もまた「新しい社会主義」への転形期にある



 二つの歴史的転形期と社会主義者の進むべき道


 人類の世界は、21世紀の今日、歴史的には「二つの転形期」の真っ直中にある。いずれも、人類史上に画期をなす画期的転形期である。

その一つは、一万年の「文明史」の上で階級社会から「階級のない無階級社会への転形期」である。

 そもそも、これまで「一万年の文明史」とは、その実体は「暴虐な階級支配と熾烈な階級闘争の世界史だった」のであるから、現代世界とは「階級社会から無階級社会への過渡期」なのである。

 もう一つは、近代500年史の上で、資本主義社会から「脱資本主義の新しい社会」への転形期である。

 人類世界の「近代500年史」とは「西欧の地球規模での世界侵略」と「資本主義の台頭と世界覇権」の歴史時代だったのであるから、現代世界とは、「西欧と資本主義の世界支配から脱西欧と脱資本主義の新しい地球時代への過渡期」なのである。

 この二つの転形期は当然にも一つに重なって、自覚した社会主義者に「脱資本主義の新しい社会への転形」を「無階級社会への転形」として「探求すべきこと」を提起している。すなわち、自覚した社会主義者は、「資本主義の廃絶」を同時に「階級の廃絶」として—脱資本主義を脱階級として—「探求しなければならない」のである。


 「暴虐の資本主義」の「洗練された手法」


 そもそも、資本主義は階級社会の「最後の段階」である。その資本主義とは、これまでの人類の歴史のうえで「もっとも野蛮」で「もっとも破壊的」な社会である。

 しかし、その「野蛮と破壊」の「暴虐」を、「もっとも洗練された手法と形態」でくりひろげているのが資本主義なのである。その「洗練された手法と形態」を資本主義にとらせているのは(一)「人類の知性の発展」と(二)「労働者階級など支配抑圧された被抑圧階級の社会的前進」と(三)「資本間の熾烈な競争」なのである。

 この「洗練された手法と形態」に欺かれたり惑わされたりせず、資本主義の本質である「野蛮と破壊の暴虐」を「しっかりと見抜き自覚的に闘っていくことのできなければならない」のが自覚した社会主義者なのである。


 社会主義者の自覚—人々の一人として人々と共に


 しかし、社会主義者は錯覚してはならない。誤解してはならない。思い上がってはならない。

 この「脱資本主義と脱階級の新しい社会の探求」という人類史的事業を「社会主義者だけで担いきれる」と錯覚しないようにしよう。「社会主義者だけの事業」と誤解しないようにしよう。「新しい社会」への道をひらくのは「人々の事業」であり、「人々の様々な能力があってこそできること」なのだ。

 社会主義者とは「特別に選ばれた者」だと自惚れてはならないのだ。社会主義者は「人々の前衛だ」「人々に命令したり強制したりしていいのだ」と思い上がってはならないのだ。

 現代は、社会主義者じたいが、自分自身を振り返り、自分の足らざるところを知り、自分の狭さを自覚して、人間として自分自身を磨かなければならない。「人々の一人として人々と共に生きるに値する」人間として、自分をこそ深め、自分をこそ高めなければならないのだ。


  「新しい社会」への道を

「生きる場」から「普通の人々」と共に


 脱資本主義も脱階級も、したがって「新しい社会」の実現は「普通に生きる人々自身の事業」である。

 私たちの周辺には、様々な仕事や様々な生き方をしている普通の人々が無数にいる。各々は、その人自身の仕事をしている普通の人、その人自身の生き方をしている普通の人なのである。そうした人々と共に私たちは生きている。私たちの「生きる場」とは「そうした人々の生きる場」でもあるのだ。もちろん、その「生きる場」とは、障がい者の人、歴史的に差別されてきた人、仕事のない人、家庭人、学生・生徒・児童、老人、国籍の違う人、人種の違う人、小商店主、零細企業家、知識人など各々には違いのある多様な人々の「生きる場」でもあるのだ。

 その「様々な人びと」が生きている「生きる場」こそ「新しい社会」そのものなのだ。その「生きる場」で「普通の人々」と共に生きることによってこそ「自覚した社会主義者」は、そこに「新しい社会」を見いだし、そこに「新しい社会」を築き上げていくのである。

 言うまでもなく、その「生きる場」は「階級社会と資本主義の思想と手法」の「貫き支配している場」である。「階級支配と資本主義支配の場」にほかならない。


 人間主義の心をもって

 資本支配と階級支配に根底的批判を


 そうであるからこそ、自覚した社会主義者には、その「生きる場」で「普通の人々と共」に「その一人として生きる」と、同時に「階級支配と資本主義支配に対するしっかりとした批判」を抱いていることが求められる。

(一)その批判は、「普通の人々」と共に「生きる場」での批判であるからこそ、「普通の人々」に「受け入れられる」ように「人間的である」ことが絶対条件なのである。

(二)しかも、「人間こそが人間にとってもっとも根源的」なのであり、人は「人間として根源的に尊重されるべき」なのである。そうであるからこそ、人間が人間を支配し、物としてしか扱わない階級社会と資本主義社会は、「人間の絶対的な尊厳」をかけて、それ自体が徹底的に批判されるべきなのである。

(三)さらに、階級社会の歴史における「最後の階級社会」としての資本主義は、一見もっともらしい「人間主義的な装い」はじめ極めて巧妙に洗練された手法をもって、資本主義の反人間的な本質や暴虐を被い隠して階級支配と資本本位の政治的経済的な意図を貫いてゆくのである。そうであればこそ、資本主義と同一の土俵に乗せられたり、資本主義の欺瞞的な手法に惑わされたりしないためには、その批判の「根源(原理)を人間主義におかなければならない」のである。


 「脱階級と脱資本主義」の「新しい社会」を目指して


 「生きる場」の人々と「人間主義の絆」を結び

 アジア太平洋から全地球規模に徹底平和の帯を織る


 私たちこれからの「21世紀の社会主義者」=「新しい社会主義者」は、「階級社会と資本主義社会の廃絶」をめざす。一万年に及ぶ人類文明史と近代五百年の近代史に画期をなす「脱階級と脱資本主義」の「新しい社会」の実現をめざすのである。

 そうであるからこそ、私たちの「新しい社会主義」は、「21世紀の資本主義世界」=「新しい帝国主義」の波に抗して、

(一)その思想的根源を「人間主義」におく。

(二)その実践的根源を「生きる場」に据える。

(三)その実践的な基本姿勢を「徹底民衆主義」とする。

(四)非暴力・非武装・反戦・反核の徹底平和主義に徹する。

(五)そして、東アジアとアジア太平洋から全地球規模にその「徹底平和主義の帯」を織る。

(2013・03・23)