THE  POWER  OF  PEOPLE

 

反動化する日本の教育と闘う大人の責任 樋越忍


転形期の反動と闘おう


 一昨年、私たちが行った第十一回全国大会で、現在の時代状況は「転形期」であると規定した。この転形とは、次に控える新しい段階へ転換するしかない状況であり、それ程行き詰まった時代が現在の特徴をなしているということに他ならない。現在の状況を詳細に検討する必要もないぐらい事態は深刻になっている。一月末に召集された通常国会は、別名「消費税国会」と揶揄されるように、国民を更なる生活苦に誘い込むものだが「税と社会保障の一体改革」という名に翻弄され多くの国民は「何もしないより先ず何かを実行する」ことを望み、消費税引き上げにも諦めの気持ちを持ちつつあるように見られる。しかし、消費税の引き上げという新たな政策による苦痛の先に、国民が望む幸せな未来が作り出されるのかはだれも保証していない。国家は多額の借金で首が回らなくなり、国家財政は破綻してしまっている。破綻した国家は国民を守るどころか、逆に国民から過酷な取り立てをおこない国民に対する様々な保護すべき義務を放棄してしまっている。救いようがない泥沼に落ち込んでしまった国民は、砂上の楼閣であると知りつつも何かに期待することしか選択肢は持たされない。

 そんな行き場の無い閉塞した状況に現れたのが、橋下徹氏が率いる「大阪維新の会」である。維新の会の特徴は、新しい未来を語るのではなく維新の会の政策に対抗する敵を作り出し、それとの闘いを仕掛けることによって国民・有権者を誘導しようとする所にある。その方法は、郵政解散で圧倒的勝利を収めた小泉元首相や、教師悪玉論を主張し君が代、日の丸崇拝を強要し処分を繰り返す石原都知事と同じである。

 この様な好戦的な手法を駆使して顧みない勢力も、元をただせば国家が衰弱し国民には諦観意識が広がっている状況だからこそ、登場できる余地が生まれているからに相違ない。彼らは彼らなりの思想の上に「転形期」の先の社会を描き出そうとしているのではないか。だが彼らの描く社会とは一体どんなものなのか。それは我々が描く理想社会とどう違うのか。現状を否定し、新しい社会を創造しようとする我々にとって無関心ではいられない課題である。


 「大阪維新の会」の恐るべき反動性


 大阪府知事と市長の同時選挙で勝利した橋下徹氏が率いる大阪維新の会がどの様な集団かが徐々に明らかになりつつある。

 選挙公約で大きく取り上げられたものに行政の一元化などがあるが、そうした表面上の変更、行政の形だけに目を奪われてその中身が何であるか、つまり彼らが何を考えているかという本質をつかむことを怠ってはならない。

 全国各地、各県で行われている政治を見ることによって、各県の政治的特徴が透けて見える。その時、どうしても取り上げなければならないものに橋下知事及び、彼が率いる「大阪維新の会」が行い、また行おうとしている教育問題がある。本年一月十六日、東京都教職員らが求めた上告審に対して最高裁が示した判決は大きく取り上げられ記憶に新しいが、この処分は学校長による「職務命令」違反により懲戒処分に対する判決である。同じような経過をたどってきているが大阪府の場合は東京都と少し内容が異なっている。その違いは、大阪府の場合二〇一一年六月に全国で初めて「君が代・国歌条例」(国旗の常時掲揚、君が代斉唱時の起立を命ずる条例)を制定しているのだ。だが、彼らが本当にこの条例が不可欠なほど重要なのかと考えているかどうかは分からない。何故なら、大阪維新の会という地方政党が具体的に登場したのは昨年の選挙以来で、大阪府以外の行政区で過半数を取っているのは大阪府以外に存在していない。ちなみに大阪府の勢力分布は、維新の会は五十六、公明党二十一、自民党十三、民主一〇、共産党四、無所属二、みんなの党一、府民クラブ一で、維新の会が過半数なのだ。これに対して大阪市は八六名の定数の内、維新の会は三十三名で過半数に届いていない。しかし、ここでももし過半数を占めれば同じことが繰り返されることは間違いの無いところだ。

 そうした目的もあってのことだろう、橋下氏は府知事を辞めて大阪市長に鞍替えしてきたのだ。維新の会が狙うのはこの府条例にとどまらない。何と昨年九月には「大阪府教育基本条例」(第九章、四八条と付則及び別表一〜六にわたる膨大な条文構成になっている)を提出したのだ。この内容を細かく紹介することはできないが、特徴と言える幾つかを挙げれば、①加速するグローバル社会に対応する子供を作り、激化する国際競争に対応できる子供を作ることを目的にする。②そのための獲得目標は知事が設定する。③教員は、組織の一員という自覚を持ち校長の職務命令に従い、且つ校長の職務命令に服すこと。④人事評価は五%、二〇%、六〇%、一〇%、五%の相対評価で行い、下位の五%評価を三回以上受けた者は処分する。⑤処分は、懲戒処分と分限処分とし、処分を受けた者は公開する。⑥職務命令違反者は戒告または減給とし、繰り返した者は停職とする。⑦府立高校の通学区域は府内全域とする。⑧入学定数を下回った場合は学校運営の状況や問題点の報告をさせ、三年連続した場合は他の学校と統廃合する。⑨校長は学校運営協議会を設置しなければならない、等が列記される。

 この条例案を一言でいうなら知事の教育に対する権限を絶対的に強化するという特徴を持つことを公言していることにある。また子供たちには国際的競争力を身に付けた企業戦士の育成を目指している。その競争は子供たちだけではなく教師にも強制されてくる。人事評価は相対的評価である所に激烈な性格を秘めているし、その評価配分も、五段階に分け最下位五%にランクされた者の行く先は解雇を含む処分が待っているのだから、その評価を避けようと競争が激しくならざるを得ない。つまり自分が下位評価の五%に入れられていなければ良し、他人はどうでもいいという意識にとらわれてしまうのだ。⑦は、子供たちに競争の激しさを加速させることになる。今までは九の学区に分かれているが、どこでも同じように学区内にも優秀な子(勉強が出来るというだけの意味だが)が集まる傾向があるけれど、それが九に分散していたものを条例はそれを廃止して府内全域一区にするのだから、その競争は九倍激しくなるのだ。そればかりか、集まらなくなった学校はそこに居る校長や教師の責任であるとばかりに学校運営や問題点を報告させ、三年間で状況に変化がなければ統廃合して学校の数を減らしてしまう、というのだ。

 現在公立小中高校一七〇一校、五五五〇〇人の教師は人事考課や学校廃止によって急激に減少することになるだろうことは誰でも予想がつく。そしてこの教育の場が激減することは、憲法に定める教育を受ける権利を子供たちから奪い取ることになってしまうのだ。こんな社会を作ってはならないが、その責任は子供の親にも負担させる仕組みが考えられている、それが⑨である。校長は学校運営協議会を設置しなければならないと強制されるのだから、それぞれの学区で小中高校の単位で作ることになるが、その協議会の目的は、いうまでもなく知事が決める教育目標を実現するためのものであり、先に列挙した条例の履行を監視・督促することを担うのだ。

 もう分かっていただけたと思うが、維新の会の手法は敵がいなければ作り出してでも作り上げ、それと闘うこと。他方では敵であったが鞍替えして味方になった者は優遇し、更に寝返る者を誘うというところに特徴がある。この様な手法は大阪圏だけで終わらないこともまた特徴である。「我々が進める都構想に障害になるものとは闘う」といい、反対者の選挙区には対立候補を立てて落選させるというのだ。


 子供たちの未来を操ってはならない


 「転形期」は新たなものを生み出す時代だが、私たちの様に全ての人が平和で豊かな自由を享受できる社会を生み出そうとする一方、大阪維新の会が狙うような差別と統制を目的にした超反動的な社会を新たに築こうとする者もいるし、すでにその先駆けが登場しているのだ。どちらが国民・民衆の心をとらえることが出来るのか、まさに闘いの正念場である。

 反動の側は公務員、教師を敵に仕立て上げ、子供たちの未来を人質にして新たな社会を狙っている。そこで最後に私たちが考えている子供たちの未来を述べて彼らとの闘いを進めたい。

 人は誰でも拘束されず自由に生きることが保証されなければならない。その保証される人というのは元もと、画一に統制されたりしてはならないのだ。また出来るものではないはずだ。維新の会は学力、偏差値を重視する。そして教育は与えられるものというけれど我々はそんな狭小で偏向した立場に決して立たない。人の価値は学力や学歴で評価してはならない。学力を高めることは苦手だが、誰からも信頼され愛される優しさに満ちた子供は決して少なくない。他人の苦難を見過ごしに出来ず、一緒になって問題に立ち向かおうとする心の強い子も多くいる。他人を蹴落としても勝ちぬくことをこの子供たちは必ず嫌うだろう。人としてどちらに本当の価値があるのだろうか。この温かさを堂々と社会に向かって主張し、柔らかな社会を作り守りぬく人としての強靭さを育てることが教育の基本であるべきだ。教育は与えられるのではなく、子供たちに与えられた権利であることを歪めてはならない。

 この様に、「転形期」という新たな社会を創造する時に、我々と異なった勢力が反動的な社会の創造を掲げ登場してきたのだ。我々はそのことを自覚し、一層意識的に、精力的に社会変革の闘いを進めなくてはならない。

                         (二〇一二年一月三一日)