THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考128「政権交代」選挙と悠々社会主義 常岡雅雄


表層地滑りの中で地殻変動の道を行く


資本主義の腐朽と社会主義への意志



 いよいよ「政権交代」選挙が始まった


 ほぼ間違いなく、自公政権が崩壊し、民主党政権が登場する六割以上の国民がそれを望んでいる。「矛盾を矛盾と思わない」「違憲を違憲と思わない」「理不尽を理不尽と思わない」「隷従を隷従と思わない」「侵略を侵略と思わない」「軍隊を軍隊と思わない」などなど「ウルトラ・プラグマティックな国民」が圧倒的な日本国家なのだから、当面の民主党政権「待望」は、それでも、確かにいい方であろう。

 殺伐とした閉塞感に息詰まらんばかりの日本なのだから、風通しが少しばかり良くなるだけでも、ほっと一息つけるかも知れないのだから。「革命的に大きな目的をもった政権交代」(21日、鳩山代表記者会見)と胸を張って登場する鳩山民主党「革命政権」なのだから、ワーキング・プア労働者や失業労働者や解雇予備軍労働者に溢れかえる「資本主義地獄日本」にも、そして労働者・中小零細企業主・老人などの自殺者が毎年3万人をこえて10年以上も続いている。「悲劇大国日本」にも、少しは有難いことが起こるかも知れないのだから(08年は3万2249人)。

 往年の社会党の面影は探し出すのにも苦労するほどの社民党ではあるが、それでも、社民党は、この晴れの民主党政権の片隅に席を確保しようと健気に政治している。「背教者○○○!」などという堅苦しい教条精神はもはや「昔話となってしまった」時代であり、村山富市さんや土井たか子さんの「実績」もあるのだから、それはそれで、いいであろう。

 「頂点の権威ある指導部」から「土台の献身的な現場党員」にいたる「前衛主義」複合体である日本共産党は、民主党政権の登場がリアルな現実だと素直に見通し、自分自身の政治位置を正直に測量して、(一)「ルールある経済社会づくり」と(二)「自主自立の平和外交への転換」の「二つの旗印」のもとに「是々非々!」で民主党政権に政治対応していくと言っている。それも、それでいいであろう。純正な革命的共産主義の通じる時代ではなくなったのだし、共産党ではあっても「共産主義党ではない」と言い切れるほどに熟成した日本共産党なのだから。「是々非々」こそが、まさに、当然の「当たり前」なのである。


 私たち「人民の力」はどうする?


 このときに当たって、私たち「人民の力」が世間に提起し、周辺の人々に語り、自分自身の振舞いとすることは、もちろん、「世間並みに普通のこと」であって、それ以上でも以下でもない。すなわち、「自公政権をこれ以上延命させない」行為をとること「民主党政権の登場にプラスになる」行為、或いは「マイナスにならない」行為を、自分自身の存在のかかっている「生きる場」において「妥当と判断できる行為」として行なうことである。

 同時に、それだけではない。もっと、大切なことがある。

 私たち「人民の力」自体としては、もう一つ、次元の異なる行いをおこなわなければならないのである。私たち「人民の力」の「ヒューマニズム社会主義」と「異次元の社会主義」の思いの奥行きと視野の広がりと視点の距離が、私たちに迫る行いである。そのためには、先ずはここで、(イ)政権交代の意味と(ロ)戦後日本の国家と社会の構造について、自分たちなりにあらためて確かめておかなければならない。


 変革への主体は動かず!


 そもそも、今度の「自公政権から民主党政権への政権交代」とは一体何であろうか。

 労働運動がストライキやゼネストなどの大衆的実力闘争の高揚で切りひらいた政権交代ではない。政権交代をめざす政治行動としては、労働運動は声一つあげなかったし、指一本動かさなかった。更に、国民の圧倒的な多数の政治行動がきりひらいた政権交代でもない。政権交代を迫る政治行動としては国民もまた微動だにしなかった。すなわち、労働運動や国民運動が主体的に意思的に身体をもって政治行動をくりひろげた結果として生み出される政権交代ではない。単なる議会の場での政権交代、即ち、議会主義的な政権交代でしかなかった。しかも、労働運動も国民も、この「議会主義的な政権交代」を奏でる資本主義メディアの前の単なる観客であり聴衆でしかなかった。

 労働者階級と国民が主体的に実践的に惹き起こした「革新的」政権交代ではなく、「保守的」民主党の政権主義的野望と資本主義メディアの利益主義的営業騒動とがうみだした、労働者・国民不在の「保守的」政権交代でしかない。


 矛盾の坩堝日本

 構造的体制的な矛盾への挑戦こそ本筋


 では続いて、戦後の日本とは、そもそも何であろうか。戦後60余年をかさねてきた、今日の日本の構造や体制はどのようなものであろうか。一言でいうならば、戦後60余年の日本の構造的体制的な矛盾とは何であろうか。

 (一)「平和と民主主義」に矛盾している日本 第一には、侵略を反省できなかった日本ではないだろうか。政府・議会・司法・官僚機構という国家としても、企業・財界としても、メディアとしても、学会としても、教育としても、労働運動としても、政党としても、一人ひとりの国民としても、明治以降の日本のアジア・太平洋侵略を思想的にも理論的にも体質的にも反省してこなかったし、克服できてはこなかったのではないだろうか。その集約的象徴が、憲法における「天皇制条項の存続」ではないだろうか。絶対平和主義の憲法9条に反する「自衛隊の存在」ではないだろうか。

 すなわち、戦後日本とは、「国家の頂点」から「日本国の人間的実体であり土台をなす国民一人ひとり」に至るまで、①「平和」対「侵略」という非和解的矛盾、②「非武装・戦争放棄」対「武装」という非和解的矛盾、③「民主主義」対「反民主主義・天皇制」という非和解的矛盾、④さらには人間精神のあり方にまで掘りさげれば「理性」対「反理性」という非和解的矛盾、⑤「良心」対「反良心」といった非和解的矛盾が構造化し体制化した国家なのではないのだろうか。いかに鳩山代表が「革命政権」と言おうとも民主党政権がこの矛盾にたいする挑戦政治=変革政治を敢行するとは思えない。

 しかし、私たち「人民の力」は、この変革を課題としなければならない。

 (二)自立性と主体性に矛盾している日本 第二には、戦後日本とは敗戦・米軍占領から60余年後の今日まで、そして欺瞞的「日米同盟」体制継続の今後へも、帝国主義大国アメリカに軍事的政治的に隷属した国家ではないだろうか。国家として、民族として、人間として、主体性も自立性も確立しえていない。まさに、帝国アメリカへの見るも無残な従属国ではないのだろうか。これもまた、あるべき「国家として民族として人間としての自立性と主体性」にたいする戦後日本の非和解的矛盾ではないだろうか。民主党政権とは、この枠内の政権ではないだろうか。

 しかし、私たち「人民の力」はこの打破を課題としなければならない。

 (三)アジア太平洋に矛盾している日本 第三には、侵略を根底的には反省していない日本、帝国主義アメリカの世界覇権戦略の不沈空母化されてしまったアメリカ隷属国日本とは、アジア・太平洋(さらにはグローバルに)において、どのような位置にいるのであろうか。「信頼されない日本」としてしか存在しえていないのではないだろうか。即ち、戦後日本は今日まで、そしてこれからも、アジア・太平洋(そしてグローバルに)との非和解的な矛盾国家としてしか存在しえていないのではないだろうか。民主党政権が重武装した「不沈空母」日本を非武装平和の「平和の船」日本へと転換させる変革政治を行うと期待するのは思い込みすぎであろう。

 しかし、この第一から第三までの構造的で体制的な矛盾との格闘こそが、私たち「人民の力」の歴史的な課題であり、社会主義日本を探求する政治的進路の基本筋ではないだろうか。

 (四)矛盾の坩堝日本 そして第四には、日本国の経済・社会・政治とは、それこそまさに、非和解的矛盾の坩堝であり、構造であり、体制ではないだろうか。

 ①男性優位と女性差別の歴史的構造的な男女間矛盾、②資本と労働との矛盾、③日本の「国家体制および日本人主義」と「国家内少数民族」との矛盾、④独占資本と中小零細企業との矛盾、⑤虚業的投機的金融資本とモノ作り企業との矛盾、⑥官僚支配と市民との矛盾、⑦中央政治と地方政治の矛盾、⑧都市と農漁村との矛盾、⑨国家政治と庶民生活の矛盾、⑩「支配と抑圧と差別と格差」と「人間の尊厳と自由と平等」との矛盾、⑪富裕層と貧者の矛盾、⑫正規職労働者と非正規労働者の矛盾、⑬組織労働者と非組織労働者との矛盾、⑭教育における「競争主義的・上昇志向的な価値観と制度」と「人間性」との矛盾、⑮「商業主義メディアの社会支配」と「真に人間的な出版・言論の自由」との矛盾、⑯科学的理性的精神とエセ科学・反理性的精神との矛盾、⑰強者と弱者の矛盾、⑱健常者と障害者との矛盾、などなど挙げればきりがない。まさに、日本は国家の隅々まで矛盾の坩堝である。日本とは、のっぺらぼうの平野でもなければ、淡々とした雄大な高原でもない。国家の頂上から裾野まで幾々層にまで積み重なり幾々条にまでも絡み合った矛盾の構造であり体制にほかならない。

 この矛盾の坩堝、矛盾の高層建築への挑戦政治=変革政治を断行する価値観や気概や実行力を民主党政権に望むのは「無いものねだり」というものであろう。


 「社会主義への意志」をもって

 「矛盾の変革」を先ずは一ミリでも前進させる


 既成の適切な用語が見当たらないので、「一つの矛盾」の夫々の対立事項の「支配的な事項」を、便宜的に「矛盾する側」と言い、他方の「被支配的な事項」を「矛盾される側」と言うならば、この矛盾の坩堝のなかの様々な矛盾の場において、「矛盾される」側が「矛盾する」側を克服してゆこうとする、その「前向きの営為変革の営為」を私たち「人民の力」は評価し、自分自身で行い、かつ可能な限りの協働をおこなってゆかなければならないのである。

 そうであるならば、この保守的「政権交代」選挙のときに当たって、遥か遠くとも「社会主義日本社会主義アジア社会主義世界」をめざす私たち「人民の力」が為すべきことが何であろうか。

 疑いもなくハッキリしているであろう。「議会主義的な政治劇」・「表層的な政治喧騒」・「ひたすら視聴率主義・販売主義的な資本主義メディア騒ぎ」の渦に心を奪われ足をすくわれるのではなく、「ヒューマニズム社会主義の道」「異次元社会主義の道」が一ミリでも前進するように、自分の「生きる場」で頑張ることではないだろうか。今の私たち「人民の力」の力量と位置からは、社会主義への道のりが限りなく遠いものであればあるほど、この自覚的な「今の一ミリ」が大切なのではないだろうか「今の一ミリ」こそ「人力社会主義の宝」なのだ!

(09・07・22)