THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考170 アルジェリア人質事件が迫る日本の構造変革 常岡雅雄



侵略と支配と収奪によって成立する近代日本150年からの

思想的構造的な変革が問われている


真正9条の徹底平和主義に立つ

慎ましやかな国と生活へ



 全ての犠牲者にお悔やみとお見舞いを申し上げます


 今度の「アルジェリア人質事件」において死亡した全ての人びとに心からのお悔やみを申し上げます。その人が、どの国家に属していたか、どの民族に属していたか、どの部族に属していたか、どの宗教に属していたか、どの人種に属していたか—それらを問わず、そして、男女を問わず、老若を問わず、この事件において死亡した人びとに心からのお悔やみを申し上げます。更に、負傷した人びとに心からのお見舞いを申し上げます。

 第一には、どのような人であろうと、その人の命は「絶対的!」であります。どのような人であろうと、その人の身になれば自分の命は「唯一つしかない、かけがえのないもの」であります。自分の命は、どんな理由があろうと、誰からも奪われてはならない、傷つけられてはならないはずです。誰であろうと人の命を奪ってはならないし傷つけてはならないはずです。

こうした「人の命の絶対性!」という意味で、今度の「アルジェリア人質事件」において「犠牲となった人びと」に心からのお悔やみとお見舞いを申し上げます。

 第二に いかなる国家であろうが「国家の武力行使を認めず糾弾する」という徹底民衆主義の思想と気持ちをこめて、今度の「アルジェリア人質事件」で犠牲になった人びとに心からのお悔やみとお見舞いを申し上げます。

 第三に、いかなる宗教であろうと、宗教の「自己絶対主義」「独善性」「排他主義」といった反理性的で反人間的な性向は厳しく批判されなければなりません。こうした当然の人間的理性の見地から、今回の「アルジェリア人質事件」で犠牲になった人びとにお悔やみとお見舞いを申しあげます。

 第四に、帝国アメリカを筆頭とする欧米日などの先発資本主義諸国の、後発「諸国や地域」にたいする「侵略や支配や収奪」を許してはならないという反帝国主義の見地から、今度の「アルジェリア人質事件」で犠牲になった人びとに心からのお悔やみとお見舞いを申し上げます。

第五に、支配され抑圧されてきた人びとの解放闘争や、先発資本主義列強の帝国主義的な支配と収奪にたいする闘いは、短絡的で反人間的な武力闘争としてではなく、非暴力で平和主義的な闘いとして構想され実践されるべきだという「平和主義的解放闘争」の思想に立って、今回の事件で犠牲になった人びとにお悔やみとお見舞いを申し上げます。


 「収奪」の重みで「底なしの泥沼」に沈みゆく資本主義日本


 今度の「アルジェリア人質事件」によって、「底なしの泥沼」に沈み入っているような思いに、私は駆られる。

 日本の企業はなぜアフリカにまで乗り出して、現地アフリカの地下資源を採掘しなければならないのであろうか。アフリカとは日本ではない。現地アフリカには日本国家ではない国家がある。日本政治ではない政治がある。日本人ではない人が住んでいる。日本ではない社会があり文化があり歴史がある。そのようなところまで日本の企業は何故出掛けなければならないのだろうか。

 日本は他国や他地域に支配者として収奪者として進出するのではなく、「本当の意味の憲法9条」=「真正9条」の生きた「徹底平和主義」の日本として、全世界の前に立つべきではないのだろうか。すなわち、「非武装で戦争放棄の平和主義」に徹底する日本として全世界の前面に堂々と毅然として輝かしく立つべきなのではないだろうか。

 本当の意味の「9条」とは「二度と武装も戦争もしない」という厳粛な誓いであったはずである。「真正9条」とは、その「徹底平和主義」の「国家」及び「人間」として「全世界の平和のために生きて徹底して尽力する」という表明だったはずである。元々の「9条」=「真正9条」とはそこには、「外国への侵略」も「外国の富や資源の収奪」などもあるはずがない。そういう清々しい毅然とした決意があったはずである。

 すなわち、国の外への侵略と収奪を必要とするような国家思想も国家の社会構造もなかったはずだ。明治以降の「近代日本」(=「資本主義日本」=「工業主義日本」=「成長主義日本」)の「膨張主義の構造」をとらない「平和で慎ましやかな日本」になる。したがって「日本人になる」「生き方になる」という決意こそが「真正9条」であったはずだ。


 近代日本150年の「底なしの泥沼」か—それとも

 グローバル大津波に沈没しない「構造的変革」か


 日本は今、日本自身の力ではどうにもしようのない巨大な二つの大津波に洗われている—私は2013年の現在、そのようにあらためて痛切に実感させられる。

 一つは、二年前の3月11日に襲来した「東日本大津波」である。

 それ自体は超人間的な「地球自体の自然的運動」によるものであった。しかし、その東日本大津波がもたらした東京電力「福島原発の崩壊」とは、超人間的な自然事態どころか、まさに「人為的事態そのもの!」にほかならなかった。「原発日本」とは(したがって「東京電力」とは)、明治以降の近代日本が辿り続けてきた「近代化=工業化」=「資本主義化」の最頂点にほかならない。その「原発日本」が遂に「陥った地獄と悲劇」こそ、「東京電力福島原発の崩壊」であった。

 二つ目の大津波とは全世界の後発の諸国と諸地域の人びとの、欧米日など先発資本主義列強の侵略と支配と収奪に対する「怨嗟」と「怒り」の全地球的なうねりであり津波にほかならない。今回の「アルジェリア人質事件」とは、そのアフリカにおける波頭にほかならない。

一昨年チュニジア革命にはじまる「アラブの春」とは、その地球規模の広がりをもつ「民衆決起」の大津波の第一波にほかならない。そのチュニジア以来、後発「諸国や地域」の「民衆決起の大津波」は全地球規模に広がりうねって行っている。先発の資本主義大国であるからこそ「収奪大国」である欧米日列強は、全地球規模の「民衆決起」の波に洗われ、大津波にのみこまれていっている。

 「アルジェリア人質事件」の波に直撃された安倍政権は、(一)「有識者懇談会」設置や(二)国家安全保障会議(NSC)創設や(三)自衛隊法の改定はじめとして、「真正9条」を踏みにじった「憲法違反の自衛隊」の「グローバルな武力行使体制の構築」へと国政の舵をあわてふためいて切りはじめている。

 だが、そのような天皇制的で資本主義的な「隸米」主義的な姑息な対策によって地球規模のグローバル民衆の「怨嗟と怒りと闘いの大津波」から日本が無事でありうるはずがない。

 「アルジェリア人質事件」を目の当たりにして、私は、「資本主義日本」=「帝国主義日本」=「天皇制日本」=「隷米日本=帝国アメリカ隷従日本」が、「底なしの泥沼」に足を取られてずぶずぶと沈みこんでいっている「底なしの恐怖」を感じる。

 だからこそ、21世紀の私たち日本人は、「真正9条の日本」として日本を立たせることができなければならない。(一)政治的には「徹底平和主義で慎ましやかな日本」として、(二)社会経済的には「構造的な自給自立で協調協働の日本」として全世界の前に毅然と立つことができなければならない。


 思想的構造的な変革をとげて

「 慎ましやか」で「清々しい国家と人間」へ


 明治以降150年の「近代日本」の政治的思想的社会経済的体制から構造的根本的に飛躍した「慎ましやかな日本」として日本の国家と日本人の生活を築き上げて行く道をとることを私たちは決意しなければならない。

 よその国や地域の資源がなくても生きていける日本。よそに会社や工場や営業所をつくらなくてもよい日本。日本に必要なものは日本でつくる—即ち「自立自給」の「慎ましやかな日本」—私たちはその道をきりひらいていく覚悟をしなければならない。

(2013年1月25日)