THE  POWER  OF  PEOPLE

 

 労働者・民衆の未来を築こう    樋越 忍   

 
 悠々社会主義の心をもって進む

 いま、我々は重大な歴史的転換点に立っている。
 戦後、多少のジグザグはあったにせよ、それなりに安定した成長を続けてきた。しかし、その発展も僅50年しか経たないうちに終焉を向かえ、バブル崩壊を境に社会は大きな変化をもたらした。

 体力のある企業は次々と生産拠点を海外に移し、人件費の高い日本の労働者は見向きもされなくなり始めた、いわゆるドーナツ現象である。日本の労働者は、低賃金受け入れるのか、それとも失業かを迫られ、連合は、「賃金よりも雇用」を選択し、そして戦後労働運動の象徴でもあった春闘が総評とともに姿を消した。

 政府・財界にとって最大の対抗勢力であり、同時に労働者や国民大衆の利益の代表でもあった労働運動は、1960年代後期から加えられた帝国主義的・再編統一という攻撃に、国鉄改革を挟み、おおよそ20年を経て質的な大転換を余儀なくされたのだ。

 戦う労働運動という、政府・財界に対するチェックと反抗の砦が根こそぎ破壊され、その後に行われた政治は、まさに反動の嵐となった。

 大企業の下支えの役割を押し付けられた中小・零細企業は、年中不況という犠牲の真っ只中に晒され、始終倒産の恐れに脅かされることとなり、労働者は過労死を越えて働かなければ失業が待ち受けるという、まったく悲惨な環境の中で生きるしかなくなった。


 改良主義で解決するのか


 多くの人々は、「働いても未来が見えない」ことに強い不安を感じている。何故このような社会が生まれたのか、働いた以上、正当な評価が得られ、生きる補償がなされて当然ではないか、と誰もが思っている。だが現実は、正当な評価どころか労働の身きりともいえる切捨てが法を犯して行われるようになった。

 企業が当然のことように行っている賃金不払い (特に残業代の不払い)は明らかに犯罪であるにもかかわらず根絶されない。逆に、ホワイトカラーエグゼンプション制導入などを主張し、超過勤務労働に対する支払い義務から逃れようとし、名目的管理者制度を導入し、労働者の正当な対価を支払うこともせず切り捨ててしまっている。このような企業の無法に対して、労働者が告発しようとする場合解雇さえ覚悟しなけれぱならない。しかし、労働者が解雇まで覚悟して明らかにした企業の犯罪に対して、「改善すれば良い」というだけで、誰も責任を取ることなく済まされ、対処の方策は実に甘い。だから、同じ犯罪が繰り返されるのだ。

 同様に、「男女雇用機会均等法」が男女の性差別を禁止しているにも関わらず少しも改まっていないし、現実は差別よりも深刻な女性の人格や、人間としての尊厳さえも踏みにじるセクハラが陰湿に繰り返ざれている。このような企業の無法体質は、人の心までも限りなく堕落・腐敗させてしまうのだ。このような事態はバブル崩壊以後、新しく生み出ざれた社会が戦後の社会とはまったく異なった社会へと舵を切り、政治を腐敗させ、企業の無法体質を増長させ、制度をゆがめた結果であり、その影響は労使間の世界を超えて子供から老人の社会にまで拡散させている。

 ゆがみ腐敗した社会は、子供たちの大切な教育を、競争原理を柱とする差別の勧めに変え、国家主義を植え付け、他国人民への蔑視と差別という恐るべき思想を押し付けようとする。また老人に対しては、「公平な負担」などという日口実で、わずかな生活費さえ掠め取ろうとする。強を制して弱を救うべき政治は逆立ちし、園民の怨嵯の対象にまでなっている。

 すでに多くの人たちは、政府の欺瞞性や凶暴な反動体質を見抜き始めてきているが、多くの人たちは、「不安と苦しみの迷路」の中に留まっている。

先の参議院選挙や、山口二区の補欠選挙で示された民衆の怒りの始まりに対して為政者が行うことは、何時の時代も同じことだが多少の手直しでその場を凌ごうとするに過ぎない。決して根本からの改革・変更には手をつけない。悪名高い、あの「後期高齢者保険制度」でも同じで、国民年金の最低支給額程度しか収入のない人に対する減免措置が決定される見通しであるが、高齢者からの収奪という基本は絶対に変えようとしないのである。

 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」政治なのだ。現に、今回の後期高齢者間題の手直しといわれるものも、法律そのものの廃止。変更ではなく、政令で行われるのであるから、悪の根源ともいうべき原案それ自体はしっかりと残されていることでも狙いは明らかである。

 根源である原案を廃止する闘いを取り組むこともせず、表面的な「部分的な修正でも良し」、とする姿勢では決して解決にはなりえないのだ。目先の甘言にだまされてはならない。基礎をこそ崩し、二度と復活させることを許さない原則に立った闘いこそ重要なのである。

 その様な動き(闘い)はすでに始まっている。

 未来に疑問を感ずる若者たちが、「年金なんて俺たちのときにはどうなるのか知れたものではない」という。そして多くの若著たちが、政府の説明に対して信頼を持たず未納者が大量に出ている。

 そもそも年金制度の発足からこの制度は欺瞞が付きまとっていた。かつて、大日本帝国と自ら称し、侵略を唯一・絶対の国政として軍国主義の道を進んできたが、そこには重大な弱点を抱えていた。資源貧困であり戦費・財政不足である。そんな政府が採った政策が、「国民からの莫大な戦費調達」すなわち将来に約束する年金構想であった。未来に何を約束しようと、戦費調達である限り、戦争が続く限り集めた費用は湯水のように消費されるのだ。だからその資金が年金として還るはずもないのである。「未来のことは誰も分からない、今必要なとき使える金があるのだから使ってしまえ」といった為政者の姿勢は年金制度の本質を言い当てている。この体質を受け継いでいる者たちが「国民から預かった大切な財産」だ、などと考えるはずもないのだ。その姿勢が若者たちに見抜かれた。欺瞞に満ちた制度だと若者たちは気づいたのだ。その結果、大量の未納者を生み出し遂に年金制度そのものの存続を揺るがし始めたのである。

 国家が存続できるかどうかは、国民が国家を信頼し、過酷であっても納税義務を果たしてくれるかどうか、ただそれだけにかかっている。十分な税収が国民の不信によって確保できなければ、一瞬たりとも維持できないのは当然である。年金制度の動揺と崩壊への危うさは、まさしく国家存続の危機へと結びつく重大事だといっていいのではないか。

 事態は、表面的な修正と、根本的な体制改革の深さを持った動きの両面を含んで同時進行している。


壊々と・・・、そして社会主義を!


 次々と繰り返された労働者をはじめとした大衆への搾取と収奪の仕組みは、例外なくすべての人たちに困難と苦痛を感じさせている。そしてその苦しみは自然に解決されることはなく、混沌として光は見えてこない。

 こんな社会を生み出したのが誰かということはあるけれど、それは政府と歴代の為政者というだけでは済まざれない。仕組みの根本から変えてしまおうとする攻撃に真っ向から間い、潰してこなかった私たち労働運動の側にも責任があるといわなければならない。着々と準備を重ねて創り出された欺瞞と腐敗の社会構造・システムが今後も残存し、その結果が今多くの人たちの苦痛と不安の原因だとするなら、その構造を根本から変えることを躊躇してはならない。

 そのためには、我々が望む社会はどんなものか、そのために何を変えるべきか、変えるために何を準備すればよいのか、これこそが闘いの核心であり、避けて通れない課題になってきている。

 社会を形作っている基礎を脅かされ、甘言を持って危機を凌ごうと腐心する政府を見るとき、いよいよ基礎部分の改革・廃止を目指して闘う、その時ではないのかと感じる。かつてのような、改良・修正でやむを得ないといっていた状況とは違うのだ。社会を作りかえる強い意志を持って努力して行くのが今を生きる私たちの仕事だと思う。

 できるところから行動するしかないけれど、そのように考え、語りかけ、協働の働きかけを行えば、若者を始め理性を失わない多くの人たちは理解し、私たちと同じ方向に向かって進むことができると信じている。歴史的進路、歴史の法則にかなった闘いは、時間は必要であるが必ず大きな力になって新しい社会への道を開くに違いない。その心構えを私たちは「悠々と・・」と書き表したのである。

 私たちは、しっかりとした決意と揺るがぬ心構えの下、未来に向かって進もうとしている

 社会は私たちを待っている。労働者は新たな道を進み、明日に繋がる社会を望んでいる。そこにしか労働者・民衆が救われる道はないからである。
 その期待に応えたい。

                     (6月3日)