THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考133 理性とヒューマニズムの社会主義 常岡雅雄


民主主義の意義と

悠々社会主義の心と進路


 読者の皆さま、この新春号にご寄稿くださった方々はじめ友好人士の皆さま、協働の活動をすすめる内外の活動家の皆さま、そして全国の同志の皆さん、二〇一〇年の新春のお慶びを申し上げます。


 人力満四〇歳の新春に湧き出る若さと力

 道半ばに仆れし同志たちへの懐かしさと責任


 私たち「人民の力」は、この二〇一〇年で、一九七一年の結成から満四〇歳を迎えることになります。この満四〇歳の新春に当たって、胸の深奥から「新しい力」の湧いてくるのを覚えます。あの四〇年前と変わらない「若さ」が全身に漲るのを感じます。

 「資本主義を社会主義に向かって革命する道」を歩み続けてきましたが、しかし、私はその道の満四〇歳に達する今日もなお、何ほどの事も成し遂げることができていません。今なお、熟成とは程遠い半熟人間でしかありません。こうした私自身の程度を悟れば悟るほどに、為すべきことや挑戦すべことの山積していることを痛感させられます。この痛切な思いが、私の胸の深奥から「新しい力」を湧かせます。四〇年前と変わらない「若さ」を漲らせます。この私たちが生きている資本主義社会を牛耳る実権者たちの搾取と収奪と暴虐と欺瞞と小賢しさにたいする怒りが、私から「新しい力」と「若さ」を引き出してくれます。

 また、想いおこせば、中曽根政権の国鉄分割民営化攻撃の渦中で国鉄闘争に連帯激励行動をとり続けてくれた全農林の活動家で海外遠征の登山家でもあった穂谷勝美君が急襲した病に仆れてしまいました。国鉄を解雇されて解雇撤回の闘争団闘争に懸命であった函館闘争団の亀本誠二君も東京派遣から帰函するや否や病床に伏し痩せ細って逝ってしまいました。

 同じ函館闘争団の秋元和広君は家族から遠く離れた新潟で物資販売に駆け回りながら深夜に誰にも見取られることなく独り寂しく突然死してしまいました。下北半島の陸奥横浜駅に勤務しながら国労盛岡を担って立って当然の大物闘士であった亀山省三君も病に仆れてしまいました。博多闘争団の人情家であって断固たる闘士であって「干潟再生」諫早闘争にも駆けつけつづけた池田浩輝君も久留米医大に見舞ったときは快復の期待をもたせてくれたのに帰らぬ人となってしまいました。本誌の編集室員で編集作業に欠かせぬ同志であった山口裕由君は勤務明けて編集作業に向かう途上で真冬の夜の千曲川に転落して凍死してしまいました。遺体は一ヶ月間も川底に沈んだままでした。「長野新幹線建設を許さない!」とスクラム組んで真冬の浅間山中でくりひろげた徹夜闘争が昨日のことのようです。列車運転士で類まれな読書家であり粘り強い組織者であった倉沢隆信君の声を聞くことも今はできません。市民病院に見舞ったときの倉沢君らしい知的で温和な笑顔と語り口が忘れられません。工場労働者で確固として清々しい活動家であった太田一郎君の溌剌とした風貌を見ることも最早できません。そして、71年夏の人力結成に向かって共に苦闘しあっていらい一ミリのずれもなかった親友の島田英希君は、一ヶ月ほど前の12月2日未明、私たち「人民の力」の中央常任委員長の重責を担ったまま肺癌に仆れてしまいました。

 こうした「人民の力」社会主義運動の途上で無念の思いで仆れていった同志たちを思うとき、私は同志たちに限りない懐かしさを覚えます。そして、その同志たちへの重い責任を今更ながら痛感させられます。その懐かしさと責任の重みが私から「新しい力」と「若さ」を湧きあがらせてくれます。


 理性とヒューマニズムの心をもって悠々社会主義


 満四〇歳を迎えるに当たって人力40年を振り返れば、様々な迷いや不勉強や未熟さや不徹底があったとはいえ、ささやかながらも、私たちが「理性とヒューマニズムの道」を歩き続けてくることのできたことを確認することができます。

 「人民の力」の結成に先立って、60年代末に私達が「人民の力」34号で発した「新たな飛躍を準備せよ!」は、日本的な社会民主主義と労働組合主義である「社会党・民同派」潮流から自分たち自身を解き放って「主体的に自立した新しい社会主義の党と潮流への飛躍」を決意し呼びかけるものでした。その第一歩をまずは71年夏の人力結成をもって達成いたしました。この道は、帝国主義戦争への屈服や協力や戦争遂行に陥っていく思想や路線や体質である国民主義や議会主義や労働組合主義の対極に自分たちを立たせ政治的組織的に実体化させて行こうと決意する道でありました。即ち、理性とヒューマニズムにたつ社会主義の道でありました。この道を私達の当初の思い込み通りに建設してくることができたと言えるものでは到底ありませんが、しかし、決意して以来今日まで40年間、私たちはこの道を守って歩み続けてくることができました。

 更に、この40年間に、私たちは私たちの人力社会主義の思想と路線の問題として「構造的革命」論・「農主工副社会」論・「新しい社会主義」論・「現存社会主義の崩壊=民衆革命」論・「旧ソ連=国家資本主義」論・「推進力」論・「生きる場の実践」論・「徹底民衆主義」論・「悠々社会主義」論・「ヒューマニズム社会主義」論などを明らかにし確認しあいながら今日まで人力社会主義運動をおこないつづけて来ました。これらの綱領的諸論を貫く基調的思想とは何であったかと、今あらためて問い返せば、それが「理性とヒューマニズム」であったことを確認することができます。

 私たちの人力社会主義運動は政治革命主義一本槍と待機主義であってはならない。社会全体を構造的に変革してゆく道に立たなければならないと判断した。それが「構造的革命」論でありました。西欧近代文明と工業文明と都市文明のままでは人類と地球は破滅する。人類は地球自然のなかに回帰してゆく道をとらなければならない。それが「農主工副」論でありました。旧ソ連とは何だったのかと問うとき、原理主義的な社会主義論の当て嵌めによる裏切り史観をもって断罪するのではなく、マルクス主義の科学的方法論をもって、その社会の性格規定がなされなければならない。それが「旧ソ連=国家資本主義」論でありました。民主主義に反した社会は社会主義を語っていようとも民衆によって革命されて当然であり、それは社会進歩である。それが「現存社会主義の崩壊=民衆革命」論でありました。

 旧社会主義と悪しき社会主義に伝統的な前衛主義とは、その実態は独善的で唯我独尊の労働者民衆蔑視であり支配主義であり権力主義にほかならない。私たち「人民の力」も無邪気にその斑点を帯びてきていた、この「悪しき前衛主義」を洗い落とさなければならない。そして「労働者民衆の中で自分の場と自分の能力に応じて推進力の役割を果して行ければよい」のである。これが「徹底民衆主義」論であり「推進力」論でありました。

 こうした綱領的な方向を導き出しつつ、私たちは、その人力社会主義を「悠々社会主義」「ヒューマニズム社会主義」と概念規定して満四〇歳に至る道を今日まで歩き続けてきました。そして、二〇一〇年の今日、私たちは更に「新しい四〇年の段階」に踏みこんで行かなければならないことを自覚し覚悟しつつあります。


 民主主義は社会主義の前提であり友である


 欧米や日本のような(ただし、今日では資本主義様式は、中国・インド・ロシア・韓国はもちろん全世界規模に普遍化しつつありますが)資本主義の歴史のなかで形成発展してきた民主主義の構造と制度のうえに、その「継承と変革」として「社会主義は実現してゆくのだ」と思います。資本主義の搾取と抑圧と暴虐にたいして「民主主義を武器として闘う人々」によって、その「闘いの継承発展」として「社会主義は切り拓かれて行く」のだと思います。

 そうだからこそ、私たち「理性とヒューマニズムの社会主義者」にとって、民主主義とは社会主義の妨害者でも敵対者でもありません。民主主義は、私達がめざす「社会主義の前提」なのであります。民主主義とは「社会主義の同伴者」なのであります。「社会主義をめざす」私たち社会主義者は「同時に民主主義者でなければならない」のであります。民主主義のために努めない社会主義者が本物の社会主義者であるはずがありません。民主主義のために闘わない社会主義者が社会主義者に値するはずがありません。民主主義を徹底して行くところにしか、社会主義の道はひらかれてゆかないのだと思います。

 私たちの「ヒューマニズム社会主義」の「理性とヒューマニズム」の心をもって民主主義を見つめ意義付けることによって、私たちは、民主主義の発展と徹底に向かって、民主主義者と手を取り合わなければならないのだと思います。人類進歩の道を共に前進しなければならないのだと思います。

 今年二〇一〇年をもって満四〇歳になる私たち「人民の力」は、こうした民主主義と社会主義の意味をさらに徹底していく「悠々社会主義者」として「新しい四〇年」に踏み込んでゆきます。

                        (二〇一〇年正月)