THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考160悠々社会主義の心(一)常岡雅雄



チョモランマへの道は麓から始まっている


資本主義日本の蟻地獄的危機と

悠々社会主義の必然性



(A)なによりも社会主義—どこまでも社会主義


 2012年の現在(21世紀初頭の現在)、私たち「人民の力」は「新しい40年」に踏み入っている。

 71年7月15日、東京・高尾山での結成から40年の遠路を、ゼロから門出した社会主義政治同盟として、無事踏破してくることができた。その初期段階を「旧40年」として、2012年の今、良くも悪くも、その「旧40年」の己(おのれ)の上に、次の段階へと向かいつつあるのだ。この「次の段階」を「旧40年」から「もうひとつの新しい飛躍」を目指す「新しい40年」段階と規定して、その「新しい40年」の道のりも「踏破し抜こう!」と、全ての同志たちが、心に定めあっているのである。


 この「新しい40年」を更に踏破しぬいた「40年後」とは—すなわち2050年である。

 その2050年にも、私たち「人民の力」は「社会主義政治同盟」として「確実に存在」している。社会主義政治同盟として、より豊かに、より深く、より心広く、より強靭に、より明るく、より親しまれ易く、人々のなかで活動している。


 社会主義の実現をめざすものとして、当然にも、私たちは、次の段階たる、この「新しい40年」を「頑張り抜き」さえすれば「よし!」とするのではない。

 「社会主義の実現」をめざして「ひとたび登りはじめた」限り、私たち「人民の力」は、ただ単に「次の段階」=「新しい40年」に立ち止まりはしない。何処までも、何年かかろうと、何十年・何百年・何千年かかろうと、「社会主義実現の全人類的課題」を途中で投げ出すことなく、社会主義に人生をかけた「自分の夢」を諦めることなく、「社会主義の実現」まで前進し続けるのである。

 だから、私たち「人民の力」は「悠々社会主義」なのである。

 私たちの考えとしては、「悠々社会主義」こそが、社会主義(共産主義)者・マルクス(その無二の同志・エンゲルスも当然)の思想的・理論的、実践的・生き方的な「構え」であった。そうでなければ、例えば、マルクスは、『フォィエルバッハ論』をメモらなかったであろうし、『共産党宣言』を書かなかったであろう。そうでなければ、マルクスは「剰余価値学説」の研究に向かわなかったであろうし、『経済学批判』や『資本論』を残さなかったであろう。そうでなければ、『フランスの内乱(パリ・コミューン)』を解明しなかったであろう。

 私たち「人民の力」は、「スターリン主義」によって特徴づけられる、マルクス「後の社会主義(共産主義)」の次元をこえて、今再び「マルクスに還るべきだ」と考えている。それを、私たちは「悠々社会主義」と云う。


(B)「悠々社会主義」—それは必然なのだ


 自民党から民主党への歴史的な政権交代—大いに期待もされ、歓迎もされた。私たち「人民の力」も、あまりにもひどすぎる自民党政治に代わってほしいものとして歓迎し期待した。

 だが、民主党政治によって、何かが、抜本的に、変わったであろうか。何か「本質的な交代」が起こったであろうか。「本質的な交代」をもたらそうとする政治が行われたであろうか。

 例えば、帝国アメリカの世界戦略基地化され続けている「基地沖縄」の人々の願いに応える「基地なき沖縄」に向かって、何か根本的変化がもたらされたであろうか。「普天間基地」問題一つとっても、打開の糸口さえつけることができなかったのではないだろうか。


例えば、東日本大震災に対する対策でさえ、即時に完全に実行できなかっただけでなく、一年経った今日でさえ、ほとんど「一年前のまま」ではないだろうか。悲劇的な被災者たちへの「即時・完全な救済と保障」に向かって、国政担当政権として、その緊急の大義に相応しい緊急政治は、何一つ遂行できなかったのではないだろうか。緊急政治を遂行しようとする政治意志さえ発揮しなかったのではないだろうか(民主党の足引っ張りに終始している自民党の「腐敗と堕落」ぶりは語るまでもなく)。


 例えば、全人類的に悲劇的な東京電力原発事故を引き起こしながらも、その責任者たちは、特権的地位に依然としてとどまったまま、何ら責任を問われてはいない。自民党の「隷米」政治体制のもとに戦後敷き詰められてきた「原発推進」の路線と体制は生きたままではないだろうか。断固たる「原発さよなら」政治どころか、(一)「管理された原発」社会づくりと(二)「原発輸出」国家づくりという「原発一億総動員」と「グローバル原発世界づくり」の「原発帝国主義」路線を、民主党政権下に日本は突っ走っているのではないだろうか。


 例えば、ひたすら「帝国アメリカ隷従」の自民党政治の帰結にほかならない「国家財政の破綻的危機」の重大責任を、民主党政権は(一)その暴政の破廉恥極まりない受益者たち=財界・自民党勢力・官僚体制に迫るのではなく(二)脅威的な「消費税増進」によって、広範な、生活苦と事業苦に苦しむ、民衆と零細企業に更に転化しようとしている。


 非正規労働者はじめのワーキング・プア労働者たちのこと。自分の将来への確信を持てない「引きこもり」等の無数の青年たちのこと。「就活」に奔走しても就職できない学生たちのことなど。

 まさに、「豊かな日本」「大国日本」「資本主義日本」の現状は反人間的な「悲劇の大海」にほかならない。


(C)「悠々社会主義」の道を一歩一歩確実に


 今日の日本の政治的経済的惨状のほんの一例を取りあげただけでも、今日の日本は明らかに「全国家的・全社会的な体制的危機」の「底なしの蟻地獄」の中でのたうっているのである。

 しかも、この蟻地獄的な「体制的危機」のもとにあって、それを打開する「意志と力量と政治性」を備えた「真の意味での交代勢力」=「体制的交代勢力」=「社会主義的交代勢力」が見当たらないところにこそ、今日の日本の「真の危機」がある。

 しかし、この資本主義日本の蟻地獄的な体制的危機からの「真の脱却」は、何あろう、まさに「資本主義の対案」として、真正面から根本的に資本主義に対決する「社会主義としての打開」にしか、道はありえない。


 この危機の資本主義日本に、「社会主義としての打開」をなしうる対抗勢力が「ありえない」ならば「ありえさせる」しか展望はない。それは事実(蟻地獄日本)がみちびき出す「当たり前の真理」だ。この単純な真理には近道も逃げ場もない。その「前途」がどんなに暗かろうと、どんなに遠かろうと、「ありえさせる」ことを目指した懸命な格闘が必要なのである。社会主義のための「懸命の格闘」を焦らず、手抜きせず、大きな構えで「悠々」とやり抜いていくしかないのだ。

 だからこそ、私たちの言う「悠々社会主義」は必然なのだ。

 「悠々社会主義」をかたる時、私たち「人民の力」は、その決意をしっかりと胸に秘めていなければならない。

(2012・03・24)