THE  POWER  OF  PEOPLE

 

新しい時代を地方から切りひらく佐伯昭二


わが町の実践からみえた変革の萌芽


 早いもので2012年も残り1ヶ月を切った。この1年半、わが町・中津川市(岐阜県の南東部に位置する人口約8万3000人の町)にとって、そして、私にとっても重要な出来事が吹き荒れた。幸いなことに、私自身もそのなかにおいて、自分なりに精一杯活動することができ、多くの信頼できる人たちを知ることができた。今回、この誌面を借りて、それらの事実をふりかえり、今後の活動に活かしていきたい。読者の皆さんも参考にしてもらえればありがたい。


 新図書館建設問題などで—市長リコール運動が口火


 この問題については、本誌で数度にわたり報告させていただいたが、2011年の春頃から問題が大きくなりはじめた。当時二期目であった大山市長(2012年1月市長選挙で落選)が、主に二つの失政を招いたのである。一つは「新図書館建設問題」である。中津川には蔵書12万冊を保有する図書館が存在する。平成合併で旧7町村が、中津川市に吸収合併されたが、旧町村にも図書館がある。市民からも新図書館建設の強い要求があったわけではないが、2009年4月、突然市長は新図書館建設を言い出した。その動機が許せないのだ。市商工会の一部幹部が出資してつくった新町開発(株)が、スーパー跡地を買い入れ、複合ビルなどの事業を計画したが、どれもうまくいかず、困っていたところ、大山市長が「あうん」の呼吸で「新図書館建設用地として買いましょう」と援助の手をさしのべたのである。二つ目は、「新衛生センター・ミックス事業」である。現衛生センターは築40年を経過し、老朽化を余儀なくされ建て替えがせまられていた。また中津川市は、し尿汚泥や下水道汚泥の処理施設がなく、多治見市内にある民間業者に委託処理しており、その費用は年間1億円にも及び、その解決策として、新衛生センターと汚泥の乾燥処理施設(ミックス事業)の建設が急務であった。よって、その建設の必要性は大方の市民は認めるところだが、その建設予定地の選定がまずかった。予定地の苗木津戸地区には、2004年に完成し稼動している苗木地区公共下水道浄化センターがある。その建設当時に「迷惑施設」である事から、周辺用地については、「住民の憩いの場」をつくると当時の地元自治会と市幹部との約束があったと、住民は訴えるのだが、大山市長は「そのような約束はなかった」と強引に計画をすすめたのである。怒った地元住民は3つの自治会が共同して、2回にわたる反対署名の取り組み、市内のデモ、予定地付近には団結小屋とノボリ100本立て徹底抗戦に出たのである。こうした市長の強引なやり方と市議会が、市長擁護派が14人、反市長派が10人という構成でもあり、もはや「市長リコール運動」しか市民の選択肢はなかったのである。


 市民一筆革命なる


 2011年8月26日からはじまったリコール署名は1ヵ月後の9月25日で終った。当時の中津川市の有権者数は6万7535人で、市長をリコールするには、その3分の1以上である2万6000人以上の署名が必要であったが、9月30日、市選管が3万596筆を確認し、実に有権者の48%も集めたのである。まさに「市民一筆革命」が起きたのである。


 紆余曲折をへて市長選挙へ


 これを受けて市選管は、2011年12月5日告示、12月25日住民投票というリコール投票を設定し、誰もが大山市長解職、市長選挙へと思ったところ、大山市長もしたたかであり、11月26日突然「12月22日に辞職する」と発表し、リコール投票を回避したのである。

 2012年1月15日から22日までの市長選挙には、前大山市長をはじめ5人が乱立した選挙であった。この一連の市長リコール運動をすすめてきたのは「中津川一新の会」と「超党派議員の会」(現職議員10人と元議員3人で構成)である。当然、リコールをすすめてきた責任から統一候補者を選出し、市民の負託に応えなければならなかったが、市長候補選定過程で分裂を余儀なくされ、統一候補者はつくれず、「中津川一新の会」は独自候補者をだして闘ったが、立候補表明が告示の一週間前とあって、7090票を獲得し第3位に終った。当選は青山節児氏で1万8755票であった。大山氏は1万3383票を獲得し次点であった。青山氏は、公約に「新図書館建設反対」「苗木ミックス事業白紙撤回」を掲げていたので、当選後は、その二つを実行した。結果的にリコール運動の目的としたところは、すべて成就したことになった。

 市長選挙は内部矛盾が露呈し残念な結果に終ったが、このリコール運動を通じて市民意識は確実に向上した。それは中津川に「中津川一新の会」という新しい市民団体が登場したことである。中津川には社民党、共産党など既存の枠を越えた市民組織など存在していなかったが、今回のリコールを通じて、「大山市長の横暴は許せない」という一点で、さまざまは人が「一新の会」に結集してきた。自民党員、創価学会員、元共産党、元教師、元公務員、労働者、零細企業者など既存の枠を越えて結集してきたのである。会員数は10人にも満たないが、それぞれが強烈な個性溢れる人で、議論していてもなかなか面白いし少数派を感じないのだ。さらに党派を越えて「超党派議員の会」を結成したことも画期的な出来事である。この二つの団体がリコールを推進したのだから大したものだ。私もその一員になれて光栄に思う。これが発端になり「震災ガレキ問題」へと波及していくのである。


 「中津川の環境を守る会」が生まれる


 私はリコール運動を通して、いろんな人にめぐり会うが、その一人として野田契子さんがいる。彼女は10年ほど前に関東から、故郷である東白川村の近くに住みたいという想いで中津川市福岡町に家族で転居してきた人である。数年前に町内の産廃処理業者がすすめる中間処理施設建設に反対行動を起こし、計画を撤回させた人物であり、名前は聞いていたが、リコール運動で一緒に活動するとは思わなかった。2011年の8月頃、リコール運動の準備をしていた頃、リコール事務所で野田さんと話を交わすようになり、ある日、野田さんから「佐伯さん、震災ガレキが中津川に来る話を知っていますか? こんなことは許せません。一緒に反対運動をやりましょう」と声をかけられ、即知人にも呼びかけて「中津川の環境を守る会」を結成したのである。それ以降、4回にわたる新聞折り込みチラシ入れ、連日の環境部長交渉、請願署名の取り組み、「池田こみち講演会」の開催、市長との懇談会など精力的にすすめた。そのかいもあって放射能汚染された震災ガレキは岐阜県や中津川市に搬入されることはなかった。当初、この問題の理解は難しく「なんで受け入れないのか」「同情心がない」などの批判を受けたが、「東電福島第一原発事故による放射能汚染を受けたガレキ」だという認識を宣伝し、反原発の視点を強調した事が、功を奏したと思う。その視点から最初に中津川に「震災ガレキ問題」を提起した野田さんの先見性と姿勢には驚嘆した。その「中津川の環境を守る会」が、中津川ではじめての市民集会「原発はいらん中津川集会」の開催へとつながっていくのである。


 9月にはじめての「反原発集会」に—90人が参加


 「震災ガレキ問題」を取り組むなかから「中津川の環境を守る会」が生まれたが、「震災ガレキ問題」が峠を越した今年の7月頃、私たちの「会」の中から、「中津川でも反原発集会をやりたいね」との声があがり、9月8日、はじめての「反原発集会」を90人の市民に集っていただき開催したのである。10人にも及ばない小さな組織であるが、それぞれ任務分担し、プラカードの作成、デモ申請、会場の確保、チラシの作成、集会のすすめ方など、幼稚ながら自前ですすめてきた。集会当日に90人もの市民に集っていただき飛び上がって喜んだものである。そして、その後「反原発集会」は、10月、11月、12月と毎月1回開催してきている。2回目からは参加者が40名ほどに減ったが、へこたれず継続してきている。

 私自身が体験してきたわが町の3つの事例を紹介したが、この3つは何度も言うことだが、今までの中津川市にはなかった市民組織の出現であり、新しい市民運動の登場である。理想と現実のギャップに時としてジレンマも感じることもあるが、しかし、わずかこの2年間で、このような市民運動が連続して出現することは画期的なことだ。世の中、少しは変わりつつあることを実感する。そして、そのなかに私自身も、存在し活動を続けてこれたことは、何事にも代えがたい幸せなことである。今年も持病と活動がおりまぜた波乱の年であったが、こうして1年を振り返ることができるのはありがたいことである。生あることに感謝し、また来年も元気で活動できることを願い、今年最後の言葉としたい。

(11月23日)