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社会主義考169 憲法9条実体化と東アジア平和共同体常岡雅雄



憲法9条に実体をもたせて

東アジアに人びとの平和の帯を


憲法9条こそ21世紀日本の心と道


21世紀を「20世紀のつづき」にしてはならない


 東の空が紅く輝いて2013年が明ける。21世紀も12年が流れて既に13年をかさねた。第一次世界大戦からほぼ一世紀が流れた。第二次世界大戦から80年近くが流れたのだ。

 日本の敗戦とポツダム宣言受諾と無条件降伏から70年近くが流れた。戦後憲法の公布からも70年近くが流れた。朝鮮戦争の勃発と日米安保の始まりから60年余りが流れた。この朝鮮戦争と時を同じくした戦後日本の再軍備の本格化が始まってから60年近くが流れた。帝国アメリカのベトナム侵略の敗北とベトナム解放から40年近くが流れた。「理性とヒューマニズム」にたつ「新しい社会主義」をめざす、私たち「人民の力」が一九七一年真夏に登場してから40年余りが流れた。その間に、帝国アメリカを中枢とした「西」側世界に対抗したソ連と「現存社会主義」体制の崩壊がすすんで、世界の様相は根底的に変った。

 21世紀もいよいよ本格化する。21世紀は、もはや「20世紀の延長」ではない。

21世紀は「21世紀それ自体としての進展」を遂げ、「それ自体の姿」を取り、「それ自体の振る舞い」をしなければならないのだ。

 20世紀前半の日本という国は恐ろしい国だった。他国に攻め入った国だった。他国を植民地支配した国だった。他国の人びとに暴虐の限りを尽くした国だった。「鬼!」と云われて当然の日本だった。天皇絶対主義の下に日本人のすべてが「鬼!」になり下がった「恐ろしい国」だった。

 20世紀前半の日本はほんとうに恥ずかしい国だった。

 思い上がった日本だった。のぼせあがった国だった。近代化と資本主義化をアジア諸国に一歩先んじたというだけで「思い上がった国」だった。

 20世紀後半の日本は「哀れな日本」だった。太平洋の争奪戦争で天皇制日本軍に完勝した帝国アメリカに占領された国だった。国中に帝国アメリカの軍事基地を置かれ「帝国アメリカの不沈空母」にされてしまった日本だった。20世紀後半の日本は「心も身も帝国アメリカに隷従した日本」だった。

 帝国アメリカのための「不沈空母」化と帝国アメリカへの隷従を対等な国家同士の「同盟」と思いこむほどに目も頭も曇り心も奪われてしまった日本だった。それが、「戦後の日本」であり、21世紀初頭の「現在の日本」なのだ。まことに「哀れな日本」なのだ。


「真正な憲法9条」の復活こそ

「21世紀日本の道」であり「永遠の日本」なのだ


 だが、これからは、その「20世紀の日本」とは違った「21世紀の日本」がひらけていくのだ。いや、切り拓いていかなければならないのだ。帝国アメリカの軍事基地と侵略戦争の「荒れ地」になりはてた「隷米日本」に真正の「憲法9条」を創っていくのだ。その「鍵」は何か?—それは日本自身のうちにある。すなわち、それは憲法9条だ。「非武装と戦争放棄」を国の根本と誓う憲法9条だ。


 憲法9条とは、人類有史以来の「普通の人びと」の「その心」なのだ。凶暴で冷血で無慈悲で狡猾な一握りの「偉人」や「英雄」や「支配者」や「権力者」によって騙され「普通の生活」も「かけがえのない命」も踏みにじられ奪われてきた無数の「普通の人びと」の「思いであり願い」なのだ。

 「憲法9条」は「戦争はいやだ」「暴力はいやだ」「普通の生活を!」「平和を!」と願う「普通の人びと」の「心の奥」を、「非武装」と「非暴力」と「戦争放棄」という「究極の高みと深み」にまで、「限りなく高めとことん深めた平和主義」なのだ—即ち「徹底した平和主義!」なのだ。

 「憲法9条」の真正の心は「国家としての日本国家」と「人間としての日本人」が20世紀に犯してきた「国家としての犯罪」と「人間としての罪悪」の(一)「確認と直視」なのだ。(二)「反省」なのだ。(三)「自己批判」なのだ。(四)「お詫び」なのだ。(五)だからこそ、「新しい日本の国家と日本人」としての「誓い」なのだ。(六)これからの「日本の永遠の姿」なのだ。


「普通の人びと」の「普通の生き方」

そこに真正の「憲法9条」がある


 「憲法9条」の「力」は何か?—それは日本を牛耳っている政治家であろうか。お役人であろうか。経営者であろうか。ジャーナリズムであろうか。武装している「自衛隊」や警察であろうか。

 否!それは「普通の人びと」の「心であり生き方」なのだ。憲法9条の下で—真正「憲法9条」のままに、すなわち「非暴力と非武装と戦争放棄=反戦平和」に「日々を生きている普通の人びと」であり、その「心と生き方」なのだ。「普通の人びと」こそ「9条の力」なのだ。

 快晴の秋空のように限りなく澄みきっていた「真正9条」を腐らせて「9条」へと堕落させてきた戦後の一握りの反動的で保守的でご都合主義で二枚舌の政治家や官僚や企業家や知識人たちに騙されてはならない。それら一握りの権力者や実力者たちが、どんなに強力な権力と、どんなにキンキラキンの高位と虚色の名声をもって飾り立てていようとも惑わされてはならない。

 ましてや、「国防軍」の名のもとにこれからの日本の青年たちを戦争の死地につかせようとしたり、「集団的自衛権」の名のもとに日本の青年たちを帝国アメリカの戦争の傭兵として死地に向かわせようとしている、一握りの軽薄で無責任な煽動政治家たちに21世紀の日本を牛耳らせてはならない。真正「憲法9条」=「徹底平和主義」=「永遠の日本」を彼ら政治的イカサマ師たちに騙し盗られてはならない。「過去からの亡霊たち」に、「地獄からの使者たち」に渡すようなことがあってはならない。

 日本人の「ほとんど誰も」が「普通の人」なのだ。男も女も。高齢者も盛年も青年も幼年も。障害に苦しめられて生きている人も。病人も健康な人も。仕事のある人も仕事のない人も。家庭の「主婦」に専念している女性もビジネスに就いている女性も。正規の仕事に就いている人も非正規の人も。家のある人もホームレスの人も。工場や交通機関や役所や各種団体で働いている人も。中小零細経営に命を削っている人も。農に生きる人や漁に生きる人や山に暮らす人も。商い(あきない)に生きる人も。都市の下町に吹き寄せられて生きている人びとも。教師や研究者や学生も。「もの書き」や学者や芸術家も。様々な宗教に生きている人も。警察や裁判所や自衛隊や官庁といった所謂「権力機構」の末端に勤めている人も。誰もがみんな「普通の人」なのだ。

 更には、海外から来日して日本列島に生きている人びとが沢山いる。それら海外からの来日の人は今後どんどんふえる。それらの人々は国籍や人種や宗教などを問わず、ほとんど誰もがみんな「普通の人」なのだ。


「真正9条」の「日本列島での実現」をめざし

「東アジアの人びと」と共に「徹底平和主義の帯」を織る


 「真正9条」=「徹底平和主義」の「心と生き方」は(一)「世界中の普通の人」の「心であり生き方」なのだ。(二)アジア・太平洋に生きる「普通の人」の「心であり生き方」なのだ。(三)中国・コリア(韓国・朝鮮)・日本など東アジアに生きる「普通の人」の「心であり生き方」なのだ。

 その東アジアに生きる「普通の人びと」は、国籍の違い、人種の違い、宗教の違いなどにかかわらず普通に平凡に生きている。「平和主義に徹する」生き方をしている—すなわち「平和主義に徹して」生きている。その東アジアの「普通の人びと」は様々な「違い」にも拘らず平和に生きている。その東アジア全域の「普通の人びと」は国籍や人種や民族や宗教などの違いにもかかわらず「普通に平凡に生きる人びと」として「心を合わせ手を取りあって」生きている。そこに既に「東アジア全域にまたがる徹底平和主義」の「実際の流れ」がある。

「真正9条」の徹底平和主義は東アジア全域の「普通の人々」を「結んで織りなす帯」をなしているのだ。


「徹底平和主義づくりの人々の帯」を「全地球規模」へ


 「真正9条=徹底平和主義の帯」は日本列島から東アジアからアジア太平洋に伸びる。そして更にアメリカ大陸の北にも南にも、中南米にも中近東にも、ヨーロッパにも、アフリカにも、インドにも、オーストラリアにも伸びて全世界の隅々にまで全地球規模に広がる。「真正9条=徹底平和主義」の「グローバルな帯」となる。

 私たち「人民の力」は「右翼」に対抗し、古い「左翼」から「身も心も」離した社会主義政治同盟なのだ。すなわち「人びと」のなかの「尾翼」なのだ。その「尾翼」として「真正9条=徹底平和主義」の日本・東アジアから全地球規模の「人々の共同の帯づくり」のために努力する。(2012年12月15日)