THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考176脱「国家」の道 人民の力代表 常岡雅雄


狭くて浅くて野蛮な「国家・民族・人種・宗教」主義を超えて


広く深く、そして遠く

無限の「地球人の道」を進む


▼古色蒼然たる「大国主義と天皇主義」に惑わされない

▼「米国隷従」主義の「日米同盟」論に誤魔化されない


(一)粗野で野蛮な「国意識と民族主義と宗教主義」を洗い流して


 今日の私たちに求められていることは「特定の国家や民族や人種や宗教などに属している人間」として生きることでしょうか?—私たちは特定の国家や民族や人種や宗教に属している人間として生きるべきでしょうか?—例えば日本国家に属する日本国民として生きるべきでしょうか?

 確かに、私たちは「自分の生まれたところ」を愛しています—それは当然であり自然で当たり前なことであります。

 私たちは「自分の育ったところ」を愛しています。大切にしています。その「生まれたところや育ったところ」の「歴史や風土や文化や人情や人間関係」を愛しています。いとおしく思っています。大切にしています。

 ところで、その「生まれたところや育ったところ」の「所属する国家」が「日本国家であった」とします。その場合に、私たちは日本人として生きなければならないのでしょうか?—この設問は民族・人種・宗教などに関しても同じです。自分が特定の民族や人種や宗教などのもとに生まれ育ったとしたら、自分はその特定の「民族人」・「人種人」・「宗教人」でなければならないのでしょうか?

 私はそうではないと思います。

 今日の私たちは21世紀初頭に生きています。私たち以降の人々は21世紀以降の人類世界に生きてゆきます。その21世紀初頭に生きるもの、21世紀以降に生きるものとして、私たちは「自分の人間としての思想と立ち位置」とを、あらためて、いや更に今まで以上に、はっきりさせなければならないところに、「現在きている」のではないでしょうか。

 「特定の国家や民族や人種や宗教など」を「超えた生き方」ができなければならないのではないでしょうか。狭くて浅い「特定の国家や民族や人種や宗教など」に「狭く浅くとらわれた人間」としてではなく、「地球規模の広がりと全人類的な深み」をもった全地球的で全人類的に普遍性のある人間として生きなければならないのではないでしょうか—即ち「地球人」として生きなければならないのではないでしょうか。

 私たちが、自分の「人間としての思想も立ち位置」も「日本国家に属する日本人として生きる」のでは、現在の21世紀以降の人類世界の進みゆく道から外れてしまうのではないでしょうか。取り残されてしまうのではないでしょうか。全地球規模に打ち寄せる「人類進歩の波」から取り残されてしまうのではないでしょうか。

 「脱国家」・「脱民族」・「脱人種」・「脱宗教」・脱「○○主義」を遂げて、「無限の広がりと深さをもった普遍的な人間」—即ち「地球人」—として生きる道を「21世紀の私たち」は切りひらいてゆくことができなければならないのではないでしょうか。


(二)「白人世界の侵略と支配」の近代世界の基本構造の変革と

 「徹底民衆主義と真正平和主義の新世界の創出」をめざす

 地球人への自分のつくり変えと「民衆連帯の帯」を織る


 21世紀の日本人に必要なことは「地球人として生きる」ことです。

 明治維新以降の近代天皇制のもとでの「大国日本」人としての「感性や考え方や生き方」をきっぱりと洗い流し隅々まで精算することです。そして、自分自身のあり方を21世紀の人類世界に人間らしく生きるに値する新しい生き方を見いだすことです。即ち、国家や民族や人種や宗教などに拘らない「普遍的な人間」として自分自身をつくりあげることです。適切な言葉がまだ生み出されていないので、一応便宜的な言い方をしますが、つまり「地球人」として自分自身を確立することです。

 それにもかかわらず、「地球人として生きることができない」のであれば—従って、これまで通り「日本人としてしか生きることができない」のであれば—その「日本人であるところの私たち」の「21世紀の前途」は「暗闇の泥沼しか見通せない」のではないでしょうか。「日本人としての私たち」は、21世紀の人類世界の前途に「力強い前進的なつとめ」を果たすことはできないに違いありません。

 では、「日本人としての私たち」はどうすればいいのでしょうか?—「地球人として生きることができる」ためには如何にあればいいのでしょうか?

 そのためには、幾つかの「人間としての難関」を超えることができなければならないのではないでしょうか。


天皇制人間として犯した罪を反省—そして大国意識を克服する


(一)まず第一には、明治以降の近代日本が天皇主義のもとに朝鮮・中国はじめアジア太平洋の国家と民族と人々にたいして侵してきた「侵略と戦争と暴虐と植民地支配」の罪を「理性的に確認」して「真摯にお詫びし償う」ことであります。

 「日本人」としての「国民意識や民族主義」の泥沼にはまりこんで、理性的で真摯な反省とお詫びと償いが「人間としてできない」かぎり、私たちは21世紀人間にふさわしい「地球人になる」ことはできないでありましょう。


アメリカ隷従—その心と構造を精算する


(二)第二には、「アメリカへの隷従」の「精神と政治的軍事的な構造」を「精算する」ことができなければなりません。

 戦後の日本は今日まで一貫して「アメリカ主義の日本」でありました。精神としても政治的にも軍事的にも「アメリカに無条件に隷従した日本」でありました。人類世界全体に普遍的に通用する精神ではありませんでした。「特定の覇権国家アメリカ」に一辺倒に偏った精神構造でした。そのアメリカ一辺倒の精神構造をもって政治的にも軍事的にも築き上げられてきた戦後日本でありました。それを「当たり前」と感じ「唯一つの正しいこと」と考えてきた戦後日本人でした。

 この偏狭な「アメリカ隷従の精神」を「精算」して「人類世界全体に普遍的な精神をそなえた人間」へと「自分自身を作り変えていく」ことに「日本人としての私たち」一人ひとりは迫られているのであります。


即ち、「地球人」への「人間的な自己改革」が求められているのであります。



全世界の「弱きもの」側に立つ

地球規模の「弱者連帯の」を織る


(三)第三には、私たちは、歴史的にも現在的にも人類世界で圧倒的な多数をなしてきた「弱き者」の側に立つことができなければなりません。

 16世紀以降の近代500年の人類世界は、地球規模の侵略者であり破壊者である「一握りの西欧白人世界が支配する世界」でありました。それ以外の非白人世界は白人世界に侵略され「支配される世界」でありました。

 この一握りの「支配者としての白人世界」と、圧倒的多数の「支配される非白人世界」との対抗関係(非和解的な矛盾)が近代世界500年の基本構造でありました。

 21世紀の私たちが「地球人として生きることができる」ためには、この基本構造(非和解的な矛盾)の世界において、「支配される世界」である「非白人世界」の側に立たなければならないことを意味します。

 自分の「内なる思想と立ち位置」において「国も国家も民族も宗教も人種なども止揚した」地球人は、白人世界の侵略と破壊と収奪によって破壊され滅亡させられていった文明や民族や人種や部族の側に立つのです。白人世界の侵略と暴虐によって殺され傷つけられていった人々や奴隷としての境遇や奴隷的苦役を強いられた人々の側に立つのです—即ち、白人世界支配の近代500年の世界構造において「地球規模の弱者の側」に立つのです。

 明治維新以降の近代日本は、非白人世界に位置していながらも天皇主義に立つ新興資本主義国家として白人世界の侵略支配の一角に参入して、白人世界の一員として、非白人世界に対して侵略と暴虐の限りを尽くしました。

 私たち日本人は、その「侵した罪」についての「お詫びと反省と償い」を誠実におこなうことができなければなりません。そして、「侵略と破壊と暴虐の白人世界の一員としての日本」によって犠牲となった「アジア太平洋さらには全世界の人々の側」に「人間としての思想も感性も立ち位置もおくことができなければならない」のではないでしょうか。安倍自民党を政権に浮上させた日本の支配勢力はアメリカへの隷従国家でありつつ、天皇主義国家へと回帰しつつあります。生活危機を深める「日本国民」がその「先祖帰り」の浮力となっています。この反動的回帰に対抗するには「地球人として自覚」し「地球規模の連帯の帯」を織っていくことができねばなりません。      (7月25日)