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違憲の戦争法案を廃案に 小林栄一


集団的自衛権行使容認は憲法違反

憲法9条を紙くずにしてはならない


 新しい帝国主義政治をおし進める安倍自公政権は、昨年7月1日集団的自衛権行使容認—「国の存続を全うし、国民をまもるための切れ目のない安全保障法制の整備について」を閣議決定した。一内閣がそれまでの政府見解や憲法の解釈をご都合主義的に勝手に変えて、事実上の「憲法改悪」を国民投票もせずに行なおうとするものであり、立憲主義と主権在民を根底から覆すものであった。

 あれから1年、安倍自公政権はその閣議決定を具体化するための法案—アメリカと一体となって世界大に戦争を行なう「安全保障関連法案」を5月15日に今通常国会に提出し、9月27日までの大幅な会期延長を強引に行い、その成立を図ろうとしている。

 いま、衆議院の平和安全法制特別委員会で審議されている安全保障関連法案は、①自衛隊法、武力攻撃事態法、周辺事態法、国連平和維持活動(PKO)協力法などの改正10法案を一括した「平和安全法整備法案」と、②国際紛争に対処する他国軍の後方支援を随時可能とする新法「国際平和支援法」の2本である。アメリカに追従し、アメリカ軍と一体となって自衛隊が世界大に戦争を遂行することができる「戦争法案」を、「平和安全法整備法案」「国際平和支援法案」などと言葉巧みにその本質を覆い隠し、日本のあり方を根本から変えようとしている安倍自公政権に「ノー」を突きつけ、違憲の戦争法案を廃案にしていかなければならない。


 憲法に違反し9条をないがしろにする戦争法案


 安倍首相は「美しい国日本」「積極的平和主義」「平和安全法」「国際平和支援法」などと、言葉だけをみれば善良な平和主義者を演出している。しかし、その中身や手法はご都合主義とウソとペテンに満ちている。

 東京電力の福島原発崩壊によって、いまだに放射能汚染水が垂れ流され、廃炉への道筋も全く立たない中で「汚染水は完全にブロックされている」と言い放って東京オリンピック誘致に一役かった安倍首相であってみれば、「黒を白」といって平然としていられるのであろう。

 集団的自衛権の行使容認を柱とする「安全保障法案」は、多くの憲法学者や文化人もいっているように、まさに憲法違反である。世界に誇る憲法9条は第1項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」ことを宣言し、2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」ことを謳っている。

 しかし、歴代自民党政権は、「憲法9条は自衛権を否定していない」(1946年吉田茂)、「その自衛権行使のために必要相当な範囲の実力部隊を設けることは許される」(1954年鳩山内閣)、「憲法9条と前文の隙間」(小泉首相)などとして、自衛隊の創設や海外派兵を遂行してきた。輝ける憲法9条を「政府の解釈」によって変更(解釈改憲)し、その政策を正当化してきたのである。しかし、それでもなお、安倍首相が今次安保法制の正当化の根拠にしている1972年の政府見解でも「集団的自衛権行使は憲法上ゆるされない」と結論づけているし、1981年の政府答弁書でも「自衛権は必要最小限度の範囲にとどまるべきだから、集団的自衛権を行使することはその範囲を超える」としてきたのである。

 安倍首相は「これまでの政府見解の基本的枠組みは踏襲している」としながら、真逆の結論を導き出しているのである。それゆえ、6月4日の衆議院憲法審査会でも「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかず、憲法違反」(長谷部恭男早稲田大教授)、「憲法9条は海外で軍事活動する法的資格を与えていない」(小林節慶応大名誉教授)、「歴代政権と内閣法制局が作り上げてきた従来の法制の枠組みと比べて踏み越えてしまっており、違憲」(笹田栄司早稲田大教授)と3人の参考人全員が「違憲」だとの認識を示した。

 そのご都合主義は、集団的自衛権行使容認の正当性を、1959年の砂川事件最高裁判決にその論拠を求めていることにも窺える。6月15日号の本誌巻頭言で後藤正次氏が詳しく述べているが、日本に駐留する米軍が、憲法9条2項の「戦力に当たらない」とした判決の論拠として「わが国が存立を全うするために必要な自衛の措置をとりうることは国家固有の権能の行使として当然」と述べた部分のつまみ食いでしかない。逆立ちしても集団的自衛権の行使容認の論拠にはなりえないし、「憲法9条の枠内」に収まるはずもない。

また、元内閣法制局長官を務めた宮崎氏も「自国防衛と称して攻撃を受けていないのに武力行使をするのは違憲とされる先制攻撃そのものだ」(6月22日、衆院平和安全法制特別委員会)と述べている。

 また、憲法98条は「憲法に違反する」法律は無効であることを謳っているし、99条では国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は憲法遵守義務を負うことを明示している。安全保障法制(戦争法)の中身もその手法も憲法違反であり、立憲主義、平和主義、基本的人権を真っ向から否定しているのである。直ちに廃案にすべきである。


 憲法違反を平然とおこなう自民党議員と自公政権


 安倍自公政権は秘密保護法制定(施行)によって国民の知る権利や報道の自由を奪う権利・人権侵害を行なっている。そして、違憲の集団的自衛権行使容認の安全保障法制の今国会での成立をめざしている。その最中に起きた自民党議員の「報道抑圧」問題は、看過できないだけでなく、2012年12月に発足した第2次安倍内閣が取ってきた「マスコミ対策」(報道や番組への介入や「自主規制」を促す巧みなやり方)の帰結でもある。

 6月25日の、安倍首相に近い若手(?)議員の勉強会(「文化芸術懇話会」)の初会合で、議会でセクハラヤジをとばした大西衆議院議員が「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなることが一番。文化人、民間人が経団連に働きかけてほしい」と述べたという。まさに、憲法が保障した表現の自由を抑圧し、異論を認めず力で封じ込めようとするファッショ的なふるまいだ。また、講師に招かれた百田尚樹氏は、沖縄の2紙をほとんど読んでいないにも関わらず「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」と述べたという。「冗談だった」とあとで言い訳をしているが、これまた、沖縄の苦難の歴史や沖縄の人々の心を全く顧みない独断と偏見に満ちた差別的で非人間的な発言である。

 沖縄の2紙はそれぞれの編集局長(沖縄タイムス・武富和彦氏、琉球新報・潮平芳和氏)の連名で抗議声明を発した。6月27日の信濃毎日新聞によれば、「(百田発言は)政権の意に沿わない報道は許さないという〝言論弾圧〟の発想そのものであり、民主主義の根幹である表現の自由、報道の自由を否定する暴論」だとその本質を明らかにしながら、沖縄の2紙は「戦争につながるような報道は二度としないという考えが報道のベースにある」と、アジア・太平洋戦争における戦争鼓舞報道の深い反省と「地獄の沖縄戦」を経験した沖縄の人々の側にたった報道の基本姿勢をはっきりと述べている。また、他の言論界からも批判や抗議が発せられている。

 国会の60日ルールを睨みつつ、7月13日に中央公聴会を開き(7日には那覇市とさいたま市で公聴会を開いた)、15日の委員会採決、16日の衆議院での可決をもくろむ政府・自民党は、6月27日には勉強会の代表の木原青年局長や大西議員ら4人を処分し、当所「責任は発言者がとるもの」であり「処分はいかがなものか」と内部処分にも否定的であった安倍首相も1週間以上たった7月3日に至って、ようやく衆院特別委員会で陳謝した。

 しかし、安倍首相個人もテレビ報道内容を批判したり、衆議院選挙報道への「中立・公平」要請を行うなど、権力を振り回した直接介入は当然にも行なっていないが、それでなくても政権に寄り添う日本のマスコミの「自主規制」を求めているのである。心からの反省(陳謝)ではなく事態の沈静化をねらったものでしかないと思うのは当然であろう。


 戦争法案の廃案に向けて—「生きる場」でがんばる


 違憲の戦争法案は、全国各地の地方自治体から「廃案・慎重審議」を求める意見書が可決され、憲法学者や文化人、弁護士などが「撤回を求める声明」を発し、全国各地で抗議、反対、撤回の集会や行動を取り組んでいる。長野でも6月7日には「戦争法案反対」の県中央集会が2800人を結集して開催されたし、私たちの友人もそれぞれの地で努力しているが、長野では法案採決に向けて重大な時期をむかえる13日には長野駅頭で街宣活動とチラシ配布を行う。力は小さいが憲法を踏みにじる安倍政権を許さず、違憲の戦争法案を廃案にするために、さらに努力していく。

(7月9日)