THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考136普天間問題と鳩山政治と国家 常岡雅雄



普天間基地撤廃は「核なき世界」への一里塚

沖縄の心とともに闘い抜いてこそ友愛の政治


脱米自立への日本の国家と精神の変革


 時間切れ迫る普天間基地問題


 鳩山首相が「5月までに」と言明した「普天間基地」問題の時間切れがいよいよ迫ってきた。旧自民党政権がアメリカと交わした「日米合意」による移転先である「辺野古」の現地はもちろん、当該の名護市も沖縄県民も沖縄県議会も、そして沖縄県知事さえも、いまや、沖縄の隅から隅までの人びとが普天間基地の「沖縄県内での移設」に反対し「県外国外への移設」を鳩山政権に迫っている。

 沖縄は、元々は「独立した精神」と「独自の豊かな歴史」に彩られた「独立国家」=「琉球」であった。しかし、ヤマトに滅ぼされ併呑されて日本国家の一地方「沖縄県」へと矮小化されてきた。その沖縄は(一)「本土防衛の捨石」とされた地獄的「沖縄戦」、(二)沖縄「祖国復帰」闘争に続いて、(三)いま三度、全島民をあげて、日本国家とアメリカ国家とのあいだでの熱い政治焦点となっている。沖縄は、隷米自民党政権に交代した鳩山三党連立政権のもとで「日本とアメリカとの国家関係」の決定的な「環」として巨大な姿を浮きあがらせている。その沖縄の人びとの心は、普天間基地の「県外国外への移設」程度のことではないだろう。さらに「米軍基地は全て沖縄から出て行け!」にちがいない。さらに深めれば、沖縄の人びとの心は、「普天間基地」はもちろん、「沖縄にある全てのアメリカ軍(自衛隊も含めて)基地を撤廃せよ!」にちがいない。

 この沖縄の人びとの願いに鳩山政治は応えることができるのか。ほとんど絶望的ではないだろうか。今朝(3月18日)の読売新聞は、鳩山政権が移設候補地として「シュワブ陸上部」(名護市辺野古)と「米軍ホワイトビーチの埋め立て」(うるま市)の2案を今月末の日米外相会議でアメリカ側に提示する方針を昨日固めたと伝えている。もし、そうであるならば、沖縄県民あげての「県外国外移設」の願いは、いよいよ絶望的になったと見通さざるをえない。


 鳩山政治のもつ歴史的な前向きの意味


 だがしかし、結果がどうであれ、普天間問題における鳩山政治の前向きの意味を見落としてはならない。鳩山民主党政権は旧自民党政権が敷いた「辺野古海岸移設」=「新基地建設」の軌道を鵜呑みにはしなかった。鳩山政治の姿勢は沖縄県民の願いに応えたいと前向きであった。それだからこそ、「県外国外への移設」をかかげて「普天間」問題(それは究極的には「日本国家」問題なのだが)を帝国アメリカに対する国家次元での政治焦点に押しあげた。ここに鳩山政治の歴史的な前向きの意義がある。「沖縄はもちろん日本全土における米軍基地」問題は、この鳩山政治がおしあげた地平以下へと後戻りすることはできないであろう。戦後歴代の自民党政権がひたすらとり続けてきた「徹頭徹尾のアメリカ隷従政治」次元へと回帰することはできないであろう。

 私たち社会主義者には、「社会主義探求の遠大な道に立った」うえで、現実政治にたいしては「過程的な視点と判断」が求められる。この「過程的な見地」に立って、私たちは、鳩山政治を「旧自民党政治からの一段前進」と評価する。そのうえで、この「鳩山政治の次元」から「更に前にむかって進んでゆける道」をきりひらいて行かなければならないことを私たちは自覚する。


 9条革命への思いを今一度


 こうした社会主義者としての自覚のもとに、私は、昨年9月の鳩山政権の登場以降でも、「日本とアメリカとの国家」関係について本誌巻頭言「社会主義考」で次のように語りつづけてきた(見出しのみ)。

 昨年10月1日号「鳩山政権の『友愛』政治」「鳩山政治に清々しさを覚える」「まずは一歩でも米国隷従日本から主体性日本へ」。

 昨年12月1日号「自立していない日本アメリカ隷従の精神と構造」「国を問い自分を問うて国の『かたちと心』の脱皮へ」。

 今年2月1日号「韓国併合100年日米安保改定50年」「まやかしの『日米同盟』論」「米国隷従の卑屈日本から自立自主の主体性日本へ」。

 今年3月1日号「普天間と日本とアメリカ『裏返し』日本の『表がえし』へ」「青年よ!9条革命の大志を抱こう!」「脱米の日本を実現できる『新しい党と潮流』の創生へ」。

 さて、そこで改めて考えてみよう。

「脱米日本」とはどういうことであろうか。それは「日本がアメリカから自立して主体的である」ということである。この「自立して主体的である」ということは、内容としては、当然にも「二つのこと」を意味している。すなわち、「自立」と「主体的」とは、意味として一つに重なりあうものではなく、それぞれに違った意味をもつ概念である。

 ここで今、テーマにしているのは、「米国という国家」と「日本という国家」の「国家のこと」である。すなわち日米の「国家論」の問題である。この国家論の問題として、ここにいう日本の「自立ということ」と「主体的ということ」は、「どういうことか」という問題なのである。


 哀れ!アメリカ隷従の国家日本


 まず、「自立」とは、「日本という国家」が「アメリカという国家」とは「別個にある」ということでなければならない。日本人であるならば誰もが、日本はアメリカという国家から「別個にある」ことを望んでいる。それを「当然であり自然なことだ」と思っている。

 ところが、現実には、その「アメリカという国家」とは「別個にある」はずの「日本という国家」のなかに「アメリカという国家」が「ある」のだ。「アメリカという国家」の「国家そのもの」の「実体」であるところの「暴力装置としてのアメリカ軍」が「沖縄をはじめ日本中」に「ある!」のである。これは一体どういうことであろうか。

 「日本という国家」が「アメリカという国家」の「国家実体である暴力装置に浸食されている」ということではないだろうか。「日本という国家」が「アメリカという国家」から「別個に独り立ちできてはいない」ことではないだろうか。

 しかも、現実の実態は「別個に独り立ちできていない」という程度の「ヤワな状態」などではない。全世界への覇権国家アメリカの国家実体=暴力装置とは「世界最強の暴力装置」であり、そして、全世界への覇権国家としての世界戦略をもって全地球規模に軍事的政治的な展開をおこなっているところの「全地球規模の戦略的暴力装置」なのである。

 その「世界最強の全地球規模の戦略的暴力装置」を日本は「自分の体内(国家内)」に抱えこまされている。このような「日本という国家」が、国家として「アメリカ国家から別個に自立しえている」などとは、アメリカへの無条件降伏によって「鬼畜米英」精神から「アメリカ隷従」精神へと見事な戦後転向を遂げた「隷米日本人」や「戦後の隷米国家日本」を所与の条件として生まれ育ってきた「隷米日本人」以外は、世界中の誰もが思わないであろう。「日本という国家」は全世界に軍事的政治的な覇権戦略をくりひろげている「アメリカという国家」の「付属国家としてしか存在しえないアメリカ隷従国家」に堕してしまっているのである。哀れ!日本国家ではないだろうか。

 しかも、その「帝国アメリカの暴力装置」の「核武装と核戦略」によってこそ周辺諸国家の「脅威」から「日本の安全が保障されているのだ」というのが、今日の日本を牛耳っている支配的な政治思想であり、大方の日本人の常識となってしまっているのである。まさに、今日の日本とは、体質的にも精神的にも思想的にも「帝国アメリカから自立して存在することのできていない」ところの「哀れ!隷米日本!」なのである。


 自立と主体性を捨ててきた歴代自民党政治


 更に思いをめぐらせて、「国家」として「主体的である」ということはどういうことであろうか。

 それは、「自立した国家」が「自分自身の精神と思想と政治路線と判断」をもって国内的にも国際的にも「自主的に政治行為をおこなうことができる」ということではないだろうか。そうであるならば、前述したように、そもそも「自立していない日本国家」に「自立した国家」としての「自主的な政治行為」のありうるはずがない。「国家としてのアメリカ」に「隷従する政治」しか「日本国家にはない」のである。

 帝国アメリカの世界覇権戦略の「不沈空母」としてアジア大陸にむかって太平洋に浮かされている日本帝国アメリカの朝鮮侵略戦争からベトナム侵略戦争そしてイラク・アフガン侵略戦争の出撃と兵站の基地とされてきた日本。戦後日本の自民党政権をはじめとした隷米勢力が日本をそのような「不沈空母」「出撃基地」「兵站基地」として帝国アメリカに奉げてきた日本憲法第9条に結晶した「非武装・戦争放棄」の絶対平和主義の国是にもかかわらず、アメリカ占領軍によって「再軍備と軍事大国への道」をたどらされてきた日本戦後世界に復活するに当たって「全面的普遍的な講和の道」をとれず「片面講和と隷米安保の道」をとらされてきた日本。それらは全て、戦後日本が「帝国アメリカへの隷従国家」に「堕している哀れな姿」ではないだろうか。

 そして今、歴史的な政権交代をとげた鳩山三党連立政権が歴代自民党政権の「隷米秘密外交=国民騙し外交」から転じて国民の前に明らかにしはじめた、歴代自民党政権と天皇制外務省高級官僚たちが国民の目からひたすら隠しこんできた「核密約」はじめ対米外交「秘密メモ」などに、この戦後「隷米政治」の一端を見ることができる。


 目指すべき「自立日本」の道


 では、「アメリカ隷従の日本」からの脱却をとげ「自立日本」とはどういうことであろうか。

 第一には「アメリカという国家」の「暴力装置であるアメリカ軍」の「全ての基地を日本からなくすことができなければならない。第二には覇権国家アメリカの世界戦略のなかに組みこまれた「日米軍事同盟」を解消することができなければならない。まずは最低でも、この二点を成し遂げないかぎり「自立日本」には値しない。しかも、それは最低の基礎的条件でしかない。それだけでは十分ではないし全面的ではない。

 さらに加えて、「アメリカへの隷従日本」という哀れな国家状態から脱け出して「本当の意味で自立」した「主体的な日本」を実現していくには、次のような諸課題を成し遂げることができなければならない。

 (一)一つには、戦後アメリカの占領政治によって戦後日本における日本人の思想とされ体質とされてきた「アメリカへの隷従思想」を克服することである。戦後日本の主導思想の根本変革である。

 この克服すべき「アメリカへの隷従思想」とは、主なものを挙げただけでも、①戦後アメリカの「帝国アメリカとしての世界覇権」の価値観、②第三世界を蔑視する欧米主義的先進国主義的な価値観、③民主主義的・平和主義的・民族主義的な民衆運動や解放運動を否定する反動的な価値観、④社会主義・共産主義運動を敵視する反革命的な価値観、⑤私的所有と競争と利潤追求を絶対視し「搾取と収奪」を当然視する資本主義的な価値観などがある。

 (二)二つには、天皇制の思想と体制の克服である。

 もちろん、明治以降の専制的天皇制を私たち日本人自身が克服できなかったことが先ずは一番問われなければならない。そのことを踏まえたうえで言えば、太平洋戦争で天皇制日本を撃破して日本を占領支配した帝国アメリカは、戦後日本支配のために天皇制を利用した。すなわち、「占領支配」と「戦後日本の隷米国家への再建」のために、占領軍アメリカは「天皇制の克服」を妨げた。天皇制の克服と真の民主主義化を成し遂げるべきであった戦後日本に天皇制(思想として構造として官僚制として)を延命させた。この「思想として構造として官僚制としての戦後天皇制」とは、帝国アメリカが戦後日本を「アメリカへの隷従国家化させる」ために用いた、圧倒的な軍事力とともに、もうひとつの武器だったのである。

 (三)三つには、戦後日本が「隷米国家日本」として国内政治と国際政治においてくりひろげてきた「アメリカ隷従政治」を「自立した日本」の見地から総括して克服していく道を明確にしてゆくことである。

 (四)そして四つには、戦後の「日本という国家」の「自立性」の精髄であり主柱でなければならなかったはずの「非武装・戦争放棄」の「憲法第9条」を「実体として生き返らせていく」ことである。戦後日本は帝国アメリカの世界覇権戦略のために平和主義9条を有名無実化させられて「再軍備軍事大国化」から遂には「派兵国家」にまでなり果ててしまった。この「軍事的な隷米国家日本」を、ふたたび、「9条国家」=「絶対平和主義国家」として蘇生させていくことである。

 概括的にみても、こうした四つの国家的課題をなし遂げることができたときに、「日本という国家」は「本当の意味で自立した国家」というに値するであろう。

 もちろん、「遠大な目標」の「一挙達成!」という理想的事態などはありえないのが政治の現実である。それこそが実際の政治過程なのだから、この「本当の意味で自立した国家日本」いう高峰をめざしてこれら四つの課題に挑戦しつづけていく辛苦の上り坂の一歩一歩こそが大切なはずである。そうであるならば、直面している「普天間」問題での鳩山三党連立政治とは、戦後歴代自民党政権の徹底「隷米」政治の次元からの方向転換を果たそうとして難路を極めている政治なのだから、こうした「本当の意味での自立した国家」への「上り坂」の「辛苦の一歩」として「前向きに意義づける」のが建設的な態度のはずである。


 反動や逆行であってはならない自立


 帝国アメリカへの隷従から脱却して「自立を遂げる」からと言って、その「自立国家」が「国家主義」国家や「民族主義」国家であっていいはずがない。「排外主義」国家や「日本主義」国家や「地域主義」国家や「領土拡張主義」国家であっていいはずがない。「侵略主義」国家や「戦争主義」国家や「帝国主義」国家であっていいはずがない。「国際協調を欠いて偏狭な傲慢独善」国家であっていいはずがない。

 この「自立した国家日本」がむかうべき道は、国家主義でも民族主義でも排外主義でも日本主義でも地域主義でも領土拡張主義でも侵略主義でも戦争主義でも帝国主義でも非国際主義的な傲慢独善主義でもなく「堂々として清々しく広々とした道」でなければならない。それこそが「自立国家日本」の「自立」の前提条件でなければならない。達成しなければならない「自立」とは、アジア太平洋に非人間的・反民族的に限りない過ちを犯しつづけてきた明治以降の「専制的天皇制国家のような国家」に再びむかうような「反動や逆行」であってはならない。そうではなく、将来にむかって「大きな進歩」「開かれた前進」としての「自立」であってこそが「真の自立」なのである。


 国家としての自立と主体性9条国家として立つ


 そうであるならば、その核心は戦後憲法の第9条である。

 解釈改憲の積み重ねによって「骨抜きにされた9条」「空洞化された9条」「血まみれにされた9条」ではなく「本当の意味での9条が生きている国家」=「絶対平和主義の国家」として立つのである。その国内政治と国際政治を自分自身の思想と路線と政策と意志をもって自主的にきりひらいてゆくのである。その「9条国家」=「非武装と戦争放棄の絶対平和主義国家」としての「自己実体化を成し遂げ」ながら、その「非武装と戦争放棄の絶対平和主義国家の見地」から「国際政治と国内政治を展開していく」のである。それこそが「真の意味」での「主体性ある国家」政治なのである。

 そうなったときに、日本とアメリカの国家関係は、これまでのような「支配と隷従」の国家関係ではない「真に対等な日米関係」となることができるであろう。さらに、日本がアメリカを導く九条の精神に立ってアメリカを方向付けしていく自立日本が帝国アメリカに対する「平和主義的な牽引力」となっていくこうした近代日米関係にはありえなかったことさえもできるであろう。

 「アジアにおける日本」の国際政治も、今までとは全く違った姿をとっていくことになるであろう。他国との国家主義的・国民主義的な競争や対抗の関係、さらには敵対関係といった無益で否定的な国家関係ではない、対等と友好と協働の国家関係へとなっていくであろう。中国や「北朝鮮」を「脅威」と決め付けなくていい建設的で友好的な政治へとむかっていくことができるであろう。


 人類の新次元「国家の死滅」へと導く「9条国家」


 そして、さらに遥かに視野を延ばすならば、それは「国家」という狭い次元を超えた日本の始まりであり、国家なき人類世界への前進の門を開きつつあることだとも言えるのではないだろうか。絶対平和主義国家として日本が自立して主体的に内外政治を展開していくということは「国家そのものを消滅させていく国家」として日本が振舞っていることを意味するのではないだろうか。「国家であって国家でなくなっていく国家」の時代を実際の内外政治を展開しながら「9条国家日本」=「絶対平和主義日本」が切り拓いていっているのではないだろうか。それは、「新次元の人類世界」を切り拓く「全人類的に前進的で建設的な役割」を果しつつある自立日本なのではないだろうか。それは、一人ひとりの「日本人」としては、「日本という国家」の「国家人」という狭い旧時代的人間の次元を超えて「全地球的な精神と視野と実践力」をもった「普遍的な地球人」へと「変革と飛躍」を遂げていっていることなのではないだろうか。

 目下の普天間問題は、こうした新時代へと日本人が前進しなければならないことをこそ、時代の根本問題として提起しているのではないだろうか。

(10・03・19)