THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考171 「新しい社会主義」の心と展望 常岡雅雄


「労働と生活と学びの場」に

「新しい社会」が芽生え成長する


 生きる場の社会主義


 アベノミクス—「こける」前の空騒ぎ


 準備も覚悟もなかった民主党政権が初雪のように淡く溶けて消えた。またぞろ、戦後日本から甘い汁を吸い続けて日本を破壊しつづけてきた自民党政権が復活した。「美しい日本」を「タバコの吸い殻」のように「惨めな日本」に転落させてきた自民党政権がまた復活した。

 悲しいことだ—哀れな日本だ。

戦後日本を久しく牛耳った、かつての自民党政治には「帝国アメリカへの隷従」と「天皇制と資本主義への拝跪」以外には何もなかった。

 その自民党政治がもたらした全日本的な荒廃と絶望と諦念の廃墟の上に「アベノミクス」が迷い出て飛びまわっている。その廃墟の薄暗闇のなかを「デフレ克服」などと嘯いて「インフレと貧乏人殺し」の「アベノミクス」が徘徊している。「安倍内閣の世界史的使命」(執筆・西尾幹二、月刊ウイル3月超特大号)などと「アベノミクス」を世界規模にまでもちあげる超特大級の「提灯持ち」まで現われる始末だ。

 まさに「こける」前の虚ろな賑わいだ!

 日銀を屈服させ、お札を超大量増し刷りすれば、デフレの克服ができると思いこむアベノミクスの羽毛のごときブルジョア頭脳—「デフレ」とは「お札の問題」ではなく「構造(資本主義)の問題」なのだ。

 「非武装と戦争放棄」の平和主義憲法9条にたいする破壊を更にすすめて「国防軍」で天皇制軍事大国の再現をめざしたい時代錯誤の安倍夢想!金ピカの「国防軍」兵士として異国の戦場にかりたてられる、これからの若者たちの哀れ!「日米同盟」「集団的自衛権」などとのまことしやかな「美名」をもって日本の若者たちを帝国アメリカの「傭兵」に仕立てあげようとする安倍「隷米」根性の羽毛のような軽さ!

 「転ばぬ先の杖」どころか、「こける前のこけ脅し」の安倍政治なのだ!


 構造の大きな転形が世界規模で進んでいる


 日本も例外ではない。「転形期日本」こそがすべての人びとの実感的現実なのだ。淡雪の如く溶けて消えた民主党政権も、迷い出てきた「アベノミクス」も、転形期日本の瞬間的な姿でしかないのだ。

 日本の社会主義潮流も細流化と渇水化の果ての歴史的転形路をたどっている。本来ならば、「世界の根本的変革」と「新しい世界の探求と建設」のために、今ほど、社会主義者が問われているときはない。それも「滅びた古い社会主義」の「再生」ではない。或いは「現に生きて」いて一応「社会主義」を名乗ってはいても、「一部強権勢力や世襲勢力の軍事独裁体制」や「国家資本主義と帝国主義政治へと変質」した「一党独裁の似非社会主義体制」などでは決してない。現実の辛さを日々に生きる人びとから限りなく距離をおいた似非社会主義ではない。その苦難の人々を支配したり命令したりする似非社会主義ではない。

 「普通の人びと」自身による「新しい社会主義」こそが求められている。「普通の人びと」による「社会主義の新しい新生」こそが求められている。


 新しい社会主義こそ—時代は求めている


 ヨーロッパもアメリカも日本も、それら全ての先発資本主義諸国においては、存在するものの全てが、どんどん発展して、現状のままの社会では、人類にとっても、社会と自然にとっても、もはや「有意義」ではありえなくなっている。意味をなさなくなってきている。存在する全てのものが「新しい社会」を求めている。

 社会のあり方も、政治の在り方も、「新しいもの」を求め始めている。経済のあり方も、産業のあり方も、新たな方向へと転形し始めている。科学技術のあり方も、情報社会のあり方も、交通運輸のあり方も、今まで通りではダメだと軋みはじめている。文化芸術のあり方も、教育のあり方も、学問のあり方も、スポーツ界のあり方も、厚い壁にぶつかってもがいている。現存する全てのものが今日までの社会のままでは、人類と社会と自然の全てにとって「有意義」ではありえなくなっている。存在する全てのものが「社会の新しいあり方」を求めている。


 私たちの言う「社会主義」とはどんなことか?


 私たち「人民の力」は社会主義政治同盟として1971年7月15日に誕生して40年の歳月をつんできた。その歴史をふまえて、失敗も過ちも恥多いことも、悲しいことも歯ぎしりすることも、それらの全てをありのままに認め引き受けて、その貴重な歴史を大切にして、私たち「人民の力」は今あらためて「自分自身の心と頭と言葉」で「自分自身の社会主義」を語らなければならない。

 社会主義は滅びたのではない。遠くなったのでもない。社会主義は「昨日のこと」ではない。まさに「今日のこと」であり、さらに「未来のこと」である。

 私たちの言う社会主義とは、「特定のイデオロギー」でも「特定の立場」でもない。私たち「人民の力」の「人力社会主義」とは、「新しい社会」のことである。「明治以降の近代日本とは違う社会」のことである。明治から今日までとは違う「新しい社会」のことである。例えば……。

(一)「資本のない社会」であり、「天皇のいない社会」であり、「軍隊のいない社会」である。「当然にも覇権国家(例えば帝国アメリカ)の軍隊も基地もない社会」である。即ち「搾取の構造も武力の機構もない徹底人間性社会」なのである。

(二)「原発など、人間と自然と社会にとって致命的に危険な産業や企業のない社会」である。「工業中心ではない社会」である。「都市中心ではない社会」である。即ち「自然を破壊と収奪の対象としない社会」である。

(三)「人類と自然とが共生する社会」である。即ち「人類が自然のなかに溶け込んだ社会」である。人類と自然との「徹底共生の社会」なのである。

(四)「農業と漁業と林業を生かす社会」である。「農業と漁業と林業が滅びるのではなく栄える社会」である—即ち、「緑と青の香り高い社会」である。

(五)「障がい者をはじめとする社会的弱者」の「生き方と思想と願いなど」が社会の「構造においても法制においても政治機構」においても「最優先される社会」である。「弱者こそ社会の主人公になった社会」である。所謂「弱者」こそが、社会を澄み切らせ、豊かにし、生き生きと生命力をみなぎらせる。

(六)「生まれた瞬間から全ての人が一人の例外もなく安心して生きていける社会」である。即ち「生活保護」も「年金」も歴史博物館行きとなった「徹底安心の社会」である。

(七)「所属(或いは出身)の民族や人種や国家や宗教や地域などによる差別や迫害のない社会」である—即ち「徹底平等の社会」である。

 すなわち、私たちの言う社会主義とは、一人ひとりの人にとって「遠い彼方のこと」ではなく、まさに「自分自身のこと」なのである。

 即ち、「人力社会主義」とは「自分自身の生き方そのもの」なのである。


 「社会の尾翼」としての人力社会主義


 社会主義は滅びたのではない。遠くなったのでもない。社会主義は「昨日のこと」ではない。まさに「今日のこと」であり、さらに「未来のこと」なのである。社会主義は、現実に生きる人びとの「生きることそれ自体」とならないかぎり、人びとに対する「外側からの権力」になる。ひいては、人々に対する「抑圧や支配の機構」となる。そして、人々から遠く遊離して腐敗する。

 そもそも、社会主義とは、人々から遊離して外から「押しつけられるもの」でも、高みから「教えられるもの」でもない。社会主義とは、人(ひと)がその「生きる場」において、自分の「労働のしかた」「生活のしかた」「学びのしかた」として、「自分自身」で、及び「周辺の人々と共に」に「見つけだし選びだすもの」であり「つくり出すもの」である。

「 人民の力」はその人びとと共に生きる。「社会の尾翼」に徹して生きる。

(2013年2月23日)