THE  POWER  OF  PEOPLE

 

人民の力結成38周年    岩田菊二


  社会主義をめざす

  そこにこそ価値がある


 真夏の日差しが照りつく1971年7月15日、東京八王子市街を見下ろす高尾山登り口のユースホステルで「人民の力」は結成された。名前をレーニンのぺテルプルグ労働者階級解放闘争同盟にちなんで「日本労働者階級解放闘争同盟」とし、全国機関誌名称を「人民の力」として確認した。あの結成から、38年がたった。この38年間に組織としても、うれしい発展もあったし悲しい後退もあった。多くの方たちとの友好もあったし批判もあった。新しい仲間の結集もあったし脱落もあった。運動に確信もあったし迷いもあった。一人一人の「私」としても、楽しいことやうれしいこと、苦しいことや悲しいこと、喜びや辛さをさまざまに経験した。織りなす長い道のりの中で、水面に小石が投げられて広がる波紋のように、結成を中心にして今日まで組織は組織としての土台を、わたしは「私」としての人格をその年月の中で形成し、今38周年を迎える。


 人間として生きる選択


 社会主義協会と社会主義青年同盟と総評労働運動の中で活動していた青年労働者が、情熱を注いで選択した道、「人民の力」の結成とは、第一に社会党・民同派潮流からの脱却を意味した。労働運動が高揚期から低迷期に入ろうとする1975年、わたしは人民の力として国労名古屋地方本部の青年部運動に携わるようになった。当時国労の主流派であった民同派は、名古屋でも一大勢力であり、たびたび私たち人民の力(青年部)とも運動上や財政上で衝突した。二十歳そこそこで労働運動の経験も浅かったわたしは、民同思想・路線に無知であったが、民同の方たちの人柄、性格、やり方などから「これが民同運動か」と少しずつ知っていくことができた。もちろん私自身も欠陥だらけの人間であったが、民同指導の横柄で官僚的で命令調の姿勢には、最後までなじむことができなかった。三木内閣のもとで闘われた75春闘は、政府の示した賃金ガイドライン内に抑え込まれ、首切り、工場閉鎖や一時帰休などの合理化にも立ち向かうことができなかったために、私たちは闘う決意も込めて「75春闘の敗北」と方針化した。国労民同の反合理化闘争も「要求対置方式」で、合理化と職場要求とのバーター闘争を批判し問題にした。政治的課題は、社会党一党支持を組合員に押し付け国会議員を通じて対処する選挙闘争へと矮小化されていくことに批判した。国労名古屋地本の執行委員会の中でたびたびその人民の力(青年部)方針をやり玉に挙げ、人間にあらずの扱いで罵声を浴び馬鹿にされた懐かしくも苦しかった思い出がある。時代は「賃金自粛」論、「節度ある労働運動」論、「労使正常化」論が闊歩しはじめ右翼的労働運動の流れが主流となる頃であり、対極として総評・民同運動の崩壊過程が顕著に現われはじめた時代であった。


 社会主義者として生きる選択


 人民の力が民同派潮流から決別し、社民主義や議会主義、労働組合主義から脱却を決意したのは、人間としてそのようには生きたくないという人間主義に徹する気持ちを持ったからに他ならない。もちろん民同指導部の中には、尊敬できた人、素晴らしい能力や考え方を持っていた人はたくさんいたが、総体として民同の労働運動は目や心や体は労働者に開くのではなく、国家や資本や官僚に向けていたということであった。人民の力は、たくさんの未熟さを抱え一筋の光も見えない中で、それでも人間として理想に生きる道を選択し「人民の力」を結成したのであった。

 第二に「人民の力」は社会主義者として生きる道を選択し、結成した。社会主義者と言うとマルクスやレーニン、毛沢東や金日成、幸徳秋水や片山潜、山川均や荒畑寒村などなどそうそうたる人を思い浮かべて、自分をその人たちと重ねることは到底できないが、社会主義をめざす者、資本主義を変え社会主義にしようと努力する者を「社会主義者」と呼ぶとすれば、私もたとえば「ノミのはみあと」程度に運動してきた一人になるかもしれない。人民の力の結成とは、組合主義者の集まりでもなくサークル的な集団でもなく、ましてや仲良しグループの性格でもなく、社会主義をはっきりと自覚し、社会主義をめざす政治集団として結成し誕生した。当時もそうであり今もそうであるように、私たちはそのためにどれほどのことができるのかと自問自答しながらも、マルクス・レーニン主義を導きの糸としながら、社会主義を最良の人間的社会体制として自覚し運動や理論、思想をつくるために努力してきた。

 20世紀は、ロシア革命に始まり東欧、中国、ベトナム、ラオス、キューバ、北朝鮮など反帝民族解放闘争の「社会革命」運動が世界各地でまきおこり、人民の力結成当時も高揚する時代でもあった。だがその社会主義も1990年代に入ると世界を一変させ、ソビエト連邦や東欧の社会主義国家は次々に崩壊し、社会主義そのものの土台が暗闇の中に埋没していく事態となった。しかし私たちはこの事態を、20世紀ソ連、東欧社会主義の「政治的には独裁型国家」「経済社会的には国家資本主義の段階」であったと認識し、社会主義はますます深みと広さを持って21世紀に向かって新しく創りだされなければならないと総括した。忘れもしないが、ソ連崩壊の直前の91年5月、私たちは長野に集まって緊急に全国大会(第7回大会)を開催した。いまこそ情熱を高く、構えを強くし自分の生き方、自分自身として「新しい社会主義」を実体化していかなければならないと決意を固めあった。その大会では、もやもやした自分の気持ちがストンとし、なぜかわくわくするような新鮮な気持ちを持って名古屋に帰ってきたことが今でも心に残っている。

 今資本主義は、アメリカの金融危機に端を発して、世界的な大恐慌を引き起こし「全人類的な危機」の時代をつくりだしている。世界資本の狂暴かつ非理性的な利潤追求と競争差別は、一人ひとりの生命と進歩と解放の道を閉ざし、死と隣り合わせの破壊と重圧と転落の道をもたらしている。解雇や工場閉鎖、非正規労働者は増大し、自殺者が増え貧富の差は拡大し、この近代文明日本の中でも餓死する者さえ生まれている。この非人間的、反社会的、反理性的な事態をもたらすその根源は資本主義にある。どれほどの資金や資材や人材をつぎ込んで経済を立て直そうとしても底なし沼のように、資本主義経済や資本主義社会は腐敗し人々の生活を圧迫する。資本主義の修復、修飾、修正を重ねようともこの危機を繕うことは不可能であり、新しい改革を積み重ねて実現する社会社会主義の登場こそ唯一の最良の人間社会をつくる道だということが、ますます明らかになっている。社会主義は古いものでも、いらないものでもなく、消え去ったものでもなく、今こそその必要性が最も求められている。


 社会主義をめざすそこにこそ価値がある


 人民の力の「社会主義をめざす」ということはどういうことだろうか。それは、一言で言い表すならば「資本主義社会の思想と構造にたいする変革の積み上げの上に社会主義を展望しようという構造的革命路線」(第9回全国大会方針)に立つことである。全国で闘われる労働運動、憲法、反戦平和、反核反原発、反解雇、沖縄、日韓、農業、ダム、戦後補償、在日外国人、教科書、労働者協同組合問題などなど社会的課題として闘われているが、その一つ一つの闘いや行動こそ社会主義への模索と探求の実践的な裏付けである。社会主義がいつどのようにおこってくるかわからないが、またその社会主義がどのような体制であるべきかなど体系的にはつかむことができていないが、社会主義をつくろうと日々努力し、実践することがなかったら、永遠に社会主義はこないことだけははっきりしている。弱さや辛さや困難さを抱えようとも、夢や希望やロマンを持って努力するその姿勢にこそ社会主義の展望が生まれるのであり、その姿勢にこそ最も尊い価値があるのではないだろうか。社民主義や自己唯一主義、他者排除主義でもなく、ましてやゲバや暴力、セクトの独善的な組織ではない自立した政治党派として、絶えず自らを検証し資本主義を変革して社会主義をめざし努力しているこの姿勢こそ、一朝一夕にはつくりだすことができない、ましてや物や金や財とは比較できない素晴らしい価値があるのではないだろうか。

 人民の力は、汗して労働する労働者の組織として、38年間の年月を重ねてきた。人間でいえば壮年期、社会で活動する肉体も精神も盛んな年ごろである。人間的な衰えが生まれてくる仲間もいるだろうが、私たちが存在し努力することに社会的な価値があることに自信を持ち、老いを払拭し活動したい。私たちは、21世紀社会主義実践の方向や精神をヒューマニズム社会主義と定めた。来年第11回全国大会をむかえるが、ヒューマニズム社会主義をより実体化、豊富化していくために、11回大会に向かっていまから一歩一歩その精神と運動を積み上げていきたい。資本主義の危機の時代と言っても、待っておれば資本主義が消滅するわけではない。一つ一つの運動を作り出す実践の先に、光は見えてくるものである。いま光が見通せない困難な時代だからこそ、私たちは私たちの存在の価値に誇りを持って、悠々と社会主義の道を歩んで行く。