THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考162悠々社会主義の心(三)常岡雅雄


破産ギリシャも狼狽EUも原発も消費税もTPPも—それは腐った同根


腐った根を断つもの—それは社会主義


社会主義の新生を

日々に身近から第一歩から


社会主義「新生」の道をテクテクと


 私たち「人民の力」の今の「中央事務所」は横浜市の泉区和泉町にある。最近では、晴れた日は、同じ泉区の岡津町の自宅から徒歩で通う。私鉄「相模鉄道」でなら、中央事務所は、自宅から徒歩20分ほどの「緑園都市」駅から二つ目の「いずみ野」駅で降りて徒歩10分ほどだ。相模鉄道が30年余り前に開いた、団地「グリーンハイムいずみ野」のB地区第22号棟505号だ。最上階の5階だがエレベータがないので、登り降りの一段一段が歳と共に楽ではなくなってくるが、意志的な人間には、極めて「健康的」な「旧時代的な団地」なのだ。

 横浜駅を東口(海側)に出て、横浜中央郵便局と崎陽軒の間を抜けて、運河を渡った倉庫2階「屋根裏部屋」はじめ、人力誕生いらい40年間転々として五度目の「中央事務所」だ。いずれも、「悠々社会主義」の気構えに相応しく、大きくもなく、権威張ってもいない、雰囲気は悠々として気さくで質素な事務所であった。私たち人力は、北は北海道委員会から南は南九州委員会まで13の地方委員会によって構成されているが、「事務所なくして人力なし!」の「悠々精神」で11委員会が事務所をもっている。それらの事務所の全てが自前財政で成立している。横浜の中央事務所もその一つだ。私たちの中央事務所には、大袈裟に言うことではないが、ささやかながら、「一つの哲学」がある。即ち、「悠々社会主義」と「徹底民衆主義」の心構えで、中央事務所といえ「殿堂を構えず」に徹して、ささやかで質素だ。

 僕は、最近、晴れた日の朝は、この中央事務所まで歩いて通う。片道2時間余りかかる。昔の近在の百姓たちが行楽した、登り坂が「女坂」「男坂」に分かれるという当時ならではの趣きもある「柏尾・大山道」の面影が、横浜市郊外の急激に進む都市化の片隅に微かに残っている道を2時間余り歩くのだ。


見つめれば—新しいことが見えてくる


 この徒歩2時間とは、当然にも、昨年11月初めの怪我によって陥った体調不順からの快復努力としての「リハビリ」という役割を果たしているが、それと同時に、僕の「精神活動にも有益だ」と思えるようになってきた。

 この2時間の徒歩途上において、ほぼ毎回のように、保母さんに導かれた「保育園児たちの行列」に出会う。園児二人ずつが手をつないで、ヨチヨチではあるが、ちゃんと一列をなして歩いている。たまには、前の子とけんかしているらしい子や、列から外れている子もいる。その生き生きとした行列と園児一人ひとりの姿を見るだけで、僕の心は浮き立つ。僕が立ち止まって見ていると、必ず、行列の園児たちの中の幾人かは僕の方を見る。笑顔で振返り振返りしながら通り過ぎて行く。手を振りながら、幼い口で「お早うございます」と朝の挨拶を僕に送ってくれる子もいる。

 今朝もそうだった。

 その無邪気で生き生きとした幼児たちを眺めながら、僕は、この幼児たちは私たちが「探求する」「模索する」と言い続けてきた「社会主義そのもの」ではないかと思う。私たちの「悠々社会主義」の「前途」とは、この「幼児たち」そのものの「育ってゆく姿」ではないかと考える。そのような思いで、幼児たちを見つめると、いままでは気づかなかったようなことが、はっと頭に浮かぶことがある。「社会主義」とは遠い彼方にではなく、自分のいる、その身近にあるのではないか。

 今朝は、もう一つの心弾むことに出会った。

 着ている上っ張りは皺が寄って汚れてはいるが、働くことが如何にも楽しいという雰囲気の一人の女性がコンクリート・ミキサー車を操作して新築家屋の土台に生コンクリートを流し込んでいた。その女性よりもずーと若い、まだあどけなさの残っている青年が、流し込まれた生コンを俯(うつむ)いてせっせとシャベルで均(なら)していた(親子かな?)。

 僕は立ち止まって、その二人の働く姿を「働くって、美しいなー」と思いながら、しばらく見つめていた。するとその女運転士が「ごめんなさい」「道を邪魔して」と云って、怪我で仕方なく杖をついている僕が通り易いように車を動かしてくれた。僕は、その言葉の丁寧さと清々しさにはっとしながら、つい「お二人の姿は美しいですね」と、その女運転士に声をかけた。

 その僕の声に応えて、その女運転士は「これが私たちの将来なんですよ」と云いながら、コンクリートミキサーの出口を青年の方に回した。すると、それまで俯いてコンクリートを均していた青年が生コンの飛沫で汚れた顔を上げてニコッとしながら少し恥ずかしそうに「有難うございます」「気をつけて行って下さい」と言ってくれた。

 働いているその女性と青年が、単なる通りすがりの僕にさえ感じさせてくれた「温かさ」と「清々しさ」—ほんとうに、そこに人の世のあり方、ほんとうの「将来」があるのだと僕は思った。

 他方、その僕たちの頭上を、隣接する厚木基地から飛び立った米軍のジェット機やヘリコプターが、眼下に日本人の日常生活などないかのように、近来になく激しい轟音をたてながら傍若無人に飛び交っていた。


何よりも、どこまでも社会主義


 ところで、僕は、4号前(2012年4月1日号)の巻頭言(社会主義考160)から、この「悠々社会主義の心」を語りはじめた。その一回目を「チョモランマへの道は麓から始まっている—資本主義日本の蟻地獄的危機と悠々社会主義の必然性」とタイトルして「なによりも社会主義—どこまでも社会主義」「悠々社会主義—それは必然なのだ」と説きながら、その最後の「悠々社会主義の道を一歩一歩確実に」を次のように結んだ。

 〈今日の日本は明らかに「全国家的・全社会的な体制的危機」の「底なしの蟻地獄」のなかでのたうっているのである。しかも、この蟻地獄的な「体制的危機」のもとにあって、それを打開する「意志と力量と政治性」を備えた「真の意味での交代勢力」=「体制的交代勢力」=「社会主義的交代勢力」が見当たらないところにこそ、今日の日本の「真の危機」がある。〉〈この資本主義日本の蟻地獄的な体制的危機からの「真の脱却」は、何あろう、まさに「資本主義の対案」としての真正面から根本的に資本主義に対決する「社会主義としての打開」にしか、道はありえない。〉

 〈この危機の資本主義日本に「社会主義としての打開」をなしうる対抗勢力が「ありえない」ならば「ありえさせる」しか展望はない。これは事実(蟻地獄日本)がみちびき出す「当たり前の真理」だ。この単純な真理には近道も逃げ場もない。その前途がどんなに暗かろうと、どんなに遠かろうと、「ありえさせる」ことを目指した懸命な格闘が必要なのである。社会主義のための「懸命の格闘」を焦らず、手抜きせず、大きな構えで「悠々」と遣り抜いていくしかないのだ。だからこそ、私たちの言う「悠々社会主義」は必然なのだ。「悠々社会主義」をかたる時、私たち「人民の力」は、その決意をしっかりと胸に秘めていなければならない。〉


誰でももっている社会主義「新生」への勇気


 その「決意」とは、決して「難しい」ことではないように思える。「難しい」と思いこんでしまっている「旧い自分自身の古さ」を打ち壊す「勇気が自分にある」ことに気付くことの方が「難しい」のではないだろうか。

(2012年5月26日)