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社会主義考163悠々社会主義の心(四)常岡雅雄



「新帝国主義日本」への野田民主党政権の布石

 戒厳体制・核武装・消費税増税


 社会主義者よ—奮起せよ!



「安全な原発」などはありえない


 原発に「安全性」などというものがあるのだろうか。決して、ありえない。

頭を冷やして考えてみれば、誰にとっても、こんなことは「当たり前のこと」ではないだろうか。地震と大津波によって陥った「福島原発事故の悲劇」を直視しただけでも、それは明らかではないだろうか。

 日本列島に住む者が福島原発事故から学びとらなければならないことは、福島原発事故は「福島」だけに限ったことではなく、「日本中の原発に共通する事態だ」ということである。日本中のどの原発をとっても、「福島」に「なりうる」のである。日本列島有史いらい繰り返し巨大地震に襲われてきたし、中小地震は日常茶飯事である地震列島=日本列島においては、今日にでも明日にでも、「第二、第三の福島」が勃発しても不思議ではない。日本列島中の原発は「福島の予備軍」といっても決して過言ではない。

 それでも「安全な原発」を主張したり、説いたりしている者たちは、(一)原発によって「利益を得るもの」か(二)「福島の悲劇」に「無感覚なもの」か(三)「福島の意味」を「理解できないもの」か(四)又は、「福島の意味」を「理解したくないもの」か(五)或いは、原発にまで登りつめた近代文明様式を「進歩!」と短絡的に信じきって疑問にも思わない「精神的・知的な頽廃に陥ってしまっているもの」か—その何れかである。

 「原発」に「安全性」が「ある」とするならば、それは、唯一つ。

 「原発そのもの」を「廃絶する」こと—すなわち、「脱原発社会」=「原発なき社会」を「実現する」ことである。そして、現在ある「原発」にたいしては、その「廃絶」に向かって政治的かつ科学・技術的な実践を行うことである。


「原発以上に危険」な「安全な原発」論

「安全な原発」論は「社会の戒厳化」に道をひらく


 ところが実際には、原発問題をめぐって、あたかも原発に「安全性がある」かのような「原発の安全性」論議が、原発に「賛成する」側からも、原発に「賛成しない」側からも沸騰している。そして、日本住民の(日本国民でない在日外国人なども当然含めなければならないので、事実に正確には「日本国民」ではなく「日本住民」とすべきなのだ)の圧倒的な部分も、原発問題を「安全性」の観点からしか問題にしていない。

 情況は誠に危険である。「原発以上に危険だ」といわなければならない。

野田民主党政権は、この沸騰する原発論議を「原発存続の意図」をもって「安全性問題」に矮小化して、意図的に、例えば目下の大飯原発再稼働の容認に見るように、「原発の再稼働と存続」へと国政を導いていっている。だが、「安全性」論議は、「原発の存続」を「前提」としての「原発問題」論議でしかない。

そもそも、原発に「安全性」などはない。原発が如何に近代科学技術の進歩の到達点であろうとも、原発とは、人にとって、社会にとって、「悪魔的な道具」にほかならない。「原発」の上に成立する人間生活などは、「福島の悲劇」が見せているように「危機と背中合わせの生活」にほかならない。

 そうであるならば、「原発の安全性」とは「原発の廃絶」でなければならないし、「脱原発」=「原発なき社会」へと日本の進路を取ることでなければならない。

 「原発存続のまま」の「原発の安全性」とは、既にそれが急速に進みつつあるが、「社会の戒厳化」に道を開くだけである。

 野田民主党政権の原発政策の方向とは、第一に、この「社会の戒厳化の道」にほかならない。


核武装国家へ—布石を打った野田民主党政権


 更に、もうひとつ、野田民主党政権が目指しているものは、日本国家の「原子力による武装」=「核武装国家」=「原爆国家日本」への道である。

 野田政権は、自民党・公明党との協議を経て「原子力規制委員会設置法」を去る20日に衆院成立させた。その「原子力規制委員会設置法」の「付則」にこっそりと織り込んで「原子力基本法の基本方針」を根本的に変質させた。即ち、原子力の研究や利用について「平和の目的に限り、安全の確保を旨として民主的な運営の下に」という「基本法」第二条に「我が国の安全保障に資する」という重大な文言、「原子力基本法」の根本的変質をもたらす文言を、こっそりと「追加した」のである。

 この基本法変更に対して、武者小路公秀・土山秀夫・大石芳野・池田香代子・小池通二・池内了・辻井喬の「世界平和アピール七人委員会」は厳しい批判のアピールを衆院成立の前日(6月19日)発して、その末尾を次のように結んだ(全文は22頁掲載)。

 〈世界平和アピール七人委員会は、原子力基本法と原子力規制委員会設置法に、何らの説明なく「我が国の安全保障に資する」という表現を含めようとする計画は、国内外から批判を受け、国益を損ない、禍根を残すものと考え、可決にむけて審議中の参議院において直ちに中止することを求める。〉

 こうした世界的に著名な知的人士の批判的提言にもかかわらず、野田民主党政権は自民・公明との暗闇での野合のもとに、「原子力基本法」の「核武装法への変質」を強行しているのである。

 野田民主党政権は、自民党政権からの「政権交代」政権にも拘らず、福島原発事故を踏み台にし、「原発の安全性」と「我が国の安全保障」を口実にして、自民党政治から「新たな帝国主義政治」への過渡的政権として、その「新たな帝国主義政治」への「決定的な布石」を打っているのである。即ち、(一)「日本社会の戒厳社会化」と(二)9条日本を真っ向から破壊する「核武装化」である。

「原発の安全性」とは、その道は、ただ一つしかない。

 原発の全面的で完全な廃絶、即ち、「脱原発社会」=「原発なき社会」の実現である。その実現のための闘いは、あくまでも、ただ一本の巨木でなければならない。原発をめぐる意見や活動は様々に多様に起こっている。だが、その意見と活動はばらばらに分散してはならない。分散的に多様に起こってくる運動は、一つの「最も核心的な巨木」に向かって絞り込まれてゆくべきだ。即ち、「脱原発」という雄大で生き生きとした「巨木」に絞りきって闘うべきだ。

 そうでない限り、野田民主党政権が道をつけつつある、21世紀日本の「新しい帝国主義」路線に吸引されていくに違いない。


新しい帝国主義世界—それは既に始まっている


 世界の歴史は、既に「新しい帝国主義世界」が始まっている。

その「新しい帝国主義世界」とは、まだ全容を見せてきてはいないが、(一)日本の「明治維新」と時期を等しくする150年前の「南北戦争」以来の「西進」運動が今、21世紀世界第一級の大国として台頭する中国の壁に阻まれている帝国アメリカと(二)中国との「世紀の対抗関係」に、その基本的な姿を見ることができるであろうし、(三)日本はその米中対抗関係の中で、「落日の帝国アメリカ」に隷従する精神と路線のままに、この「新しい帝国主義世界」に乗り出してゆこうとしているのである。

 その「全面展開への過渡的政権」が野田民主党政権ではないだろうか。

野田政権が「どじょう」ポーズをもって強行している(一)「日本社会の戒厳社会化」も(二)「日本国家の核武装化」も(三)そして「消費税増税」も、その「新しい帝国主義日本」への「三位一体の礎石」ではないのだろうか。この「新しい帝国主義日本」の21世紀日本にあって、その矛盾と危機を本当に打開できる道は「社会主義」でしかない。


社会主義者よ—奮起せよ!


 この「新しい帝国主義日本」の幕開けに対決して、「社会主義日本」を準備することのできてこなかった「社会主義者=自分自身」を「愧じる」ところから始めなければならない。どんづまりの、危機の世界は社会主義者に奮起を求めている。(2012年6月22日)