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社会主義考151さよなら原発一億人総行動へ 常岡雅雄



一人の被災者も見落さない国家政治を


さよなら原発は日本進路の分水嶺


 今朝の朝日新聞は第一面に「首相退陣、8月以降に」と大書して「会期70日延長を決議」「自公、2次補正審議へ」と報じ、第二面に「居座る首相 深まる孤立政権幹部と溝あらわ」「自民 妙案なき延長反対」と伝えている。

 昨日(6月22日)早朝。私たち「人民の力」から小林袈裟雄団長下に横山富彦・後藤正次・轟衛・篠原賢治の総勢5名が「東日本大震災被災者への支援激励行動」隊として東北被災地に向かって発った。私たち「人民の力」の「日韓労働者連帯全国連鎖行動」の受け入れ(仙台集会)はじめ長年お世話になりつづけてきている東北全労協の牽引者・亀谷保夫氏(鉄道産業労働組合特別執行委員)が迎えて宮城県石巻市の雄勝町・河北町はじめの被災現地への激励行動を導いて下さる。韓国からも李虎東氏はじめ韓国民主労総の闘士たちがAWC(アジア共同行動)日本委員会の受け入れで国家と民族をこえ海を渡って来日している。昨夕の名古屋集会からスタートして被災現地激励行動に向かっている。また、李明博政権の弾圧によって獄中に囚われている韓国の階級的戦闘的な労働者たちからも李光烈同志(拘束労働者救援会事務局長)はじめ錚々たる労働者闘士たちが被災日本への激励の便りを獄中から送りつづけくれている。


底知れぬ被災者の苦しみ遅れ遅れの国家政治


 3月11日の東日本大震災から3カ月半の歳月が流れた。

 この間、日本の国家政治は、未曾有の大震災に直面して、何よりもまず「一人も漏らさず一人の例外もない救済と保障」に直ちに起ちあがるべきであった。そのために、菅民主党政権はもちろん、与野党を問わぬ国政政党と政治家たちの全てが、国政の責任者としての誠実な使命感と政治意志と英知とエネルギーとを注ぎ込んで「総がかり」の国家政治を遂行してくるべきであった。史上稀な大震災によって想像を絶する「悲劇と地獄」に突き落とされた現地の人々のただの一人として、それを願わぬ者はなかった。全国の国民もまたそれを当然のこととして期待した。

 しかし、この間の日本の政治は、その対処の「思想と原則」にしても、その「施策と熱意とエネルギー」にしても、この緊急事態政治に相応しくなかった。日本政治を見つめている外国から日本の「政治家は三流」と揶揄されても返す言葉のないほどに惨め極まりない日本政治であった。

 この間、その場しのぎの継ぎはぎだらけの施策で、いたずらに時は流れて、「復興基本法」が成立(6月20日)するまでに既に102日が流れていた。その遅れに遅れた「復興基本法」でさえ、その中身を問えば〈(1)内閣に首相を本部長とした「復興対策本部」を置く、(2)内閣に「復興庁」を設置する、(3)「復興債」を発行する、(4)政府は「復興特区制度」を活用する〉を骨格とするだけで、その中身は、「出来るだけ早期に」「必要な措置の検討を」「速やかに措置を講ずる」という実施時期「あいまい化」文句付きであって、具体性に欠けて間延びのしたものでしかない。


100日越えても実現できない「総がかり」政治


 先ず問われるべきは菅直人民主党政権である。

 この未曾有の全国家的な大災害に直面して、菅首相以下の民主党内閣と与党民主党国会議員たちは、(一)直ちに与野党を問わず全政党の総結集した「総がかり政権」を樹立して、(二)現地被災者への「完全な救済と保障」の「安心の国家政治」に即刻向かうべきであった。「天災と人災」のもたらした「悲劇と地獄」に苦しむ被災者たちを「一人も漏れも例外も」なく「現下の悲劇と地獄から救済」し、更に「今後の人生の生きる道を保障する」緊急事態対応を国家政治として遂行すべきであった。その「緊急国家政治の実現」のためには、菅総理大臣は誠心誠意の誠実さをもって、土下座してでも、野党諸勢力に全国家的緊急事態対応の「総がかり政権への参加」と「総がかり政治への協力」を求めるべきであった。そして、何が何でもその実現を、一刻も早く成し遂げるべきであった。だが、この100日間の国政の惨めな姿が見せたとおり、そこには「総がかり政権と政治」の片鱗さえもなかった。菅総理大臣を国政最高責任者に立てて国政の全責任を背負った民主党勢力の悔やんでも悔やみきれない政治的な過ちであり人間的な不徳である。

 他方、自民党・公明党・みんなの党・共産党・社民党はじめの野党もまた、その政治が厳しく問われなければならないのは当然である。これらの野党勢力も、自分たちの党からの政権参加による「総がかり政権の樹立」と「総がかり政治の遂行」のためにこそ、誠実に全力をあげるべきであった。だが、どの党をとっても、そのための誠実な政治は見当たらなかった。国政にあたる政党と政治家として、例え野党であろうとも、未曾有の苦難のなかにある被災者たちに対しておかしている政治的な過ちと欠陥は厳しく自覚されなければならない。


被災者救済よりも菅政権打倒めざす自公の非情さ


 なかでも特に、自民党と公明党の過ちは決定的に重大である。辛苦の被災者たちに対して両党の犯した過ちは取り返しがつかない。この未曾有の苦難に直面して、暗中模索の懸命の国家政治を展開しつづける菅民主党政権に対して「内閣不信任案」を突き付けて内閣打倒をめざすとは「何たること!」であろうか。国家政治について一切れの真摯さもない。苦難の被災者たちにたいして一かけらの誠実さのないのはもちろん、一片の思いやりさえもない「非情の政治姿勢」である。

 今日の福島原発の崩壊は、まさに、勝者アメリカへの隷従勢力として戦後半世紀をこえて国政を牛耳ってきた、その自民党勢力の傲慢極まりない「原子力立国」政治の帰結にほかならない。戦後自民党政治の「原発立国」政治がなかったならば、東京電力福島原発はなかった。福島原発がなかったならば、その恐るべき崩壊もなかった。まさに福島原発の崩壊は、その戦後自民党政治の「帰結そのもの」なのだ。

 地震列島日本のうえに愚かにも54基の原子炉を林立させている原発列島日本それは戦後自民党政治が傲慢卑劣な隷米路線のもとに荒廃させた日本列島の無残な姿である。福島原発の崩壊はその戦後自民党政治がもたらした「悲劇的帰結の始まり」にほかならない。日本列島に隈なく林立する原発は崩壊福島原発の後続部隊そのものなのだ。

 自民党は自分たちの戦後政治が積み重ねてきた過ちと愚かさと傲慢さを深く謙虚に自覚することこそが、福島原発崩壊に直面して先ずは必要なのではないだろうか。その愚かさと傲慢と過ちの歴史の帰結に直面させられている新政権としての菅民主党政権の苦闘にたいして心からの理解を示してこそ、自民党は国家政党に値するのではないだろうか。

 震災勃発直後に、谷垣自民党総裁は、菅首相から大震災担当大臣としての入閣を乞われた。しかし、谷垣総裁はけんもほろろに拒絶した。「政権喪失という党的悲哀」に暮れ「政権奪還への思い」に心焦る日々であろうとも、政治家として最も大切なことは突如として襲来した「未曾有の全国家的災害」に「苦しむ人々に寄せる心」ではないだろうか。その大災害に処してゆく緊急事態政権への入閣を乞われたならば、その要請に応えて誠実に協力協働することではないだろうか。「悲劇と地獄の日々」に辛苦する被災者たちの苦難に応える第一歩の政治姿勢というものではないだろうか。

 だが、その谷垣自民党がおこなったことと言えば、菅政権打倒の「絆」を公明党と結び、民主党内「小沢・鳩山グループ」と気脈を通じて「菅政権に不信任案を突き付ける」ことであった。苦難の被災者たちを、まさに「裏切った」のである。未曾有の全国家的苦難にあたって犯した、この愚行一事をもってしても、自公両党は苦難の国政を担うに値しない。

 加えてなお言わなければならない。小沢民主党前幹事長・鳩山前首相の両指導者は愧じるべきである。菅民主内閣の政権与党内にありながら、この「菅内閣不信任」強行の「自公の愚行」に気脈を通じつつも、動揺して転んで頓挫した「小鳩の愚行」それは、まさに「自公の茶番の上塗り」であった。自公「菅政権不信任」強行を目前にした民主党の両院議員総会に小沢前幹事長は出席しなかった。自公と共に自ら構えた「主戦場」であるはずの「菅不信任案」採決国会からも逃亡して姿を見せなかった。堂々たる政治姿勢の欠片さえもない小沢前幹事長のこの醜態こそ「三流日本政治家の典型」である。


自公もテレビも新聞も「菅降ろし」の「原発村」踊り


 菅内閣不信任案を多数否決されたにもかかわらず、その事実を誠実に受け入れようとはせず、「反転攻勢」とばかりに「菅首相の退任」を迫って、全国家的緊急事態に対処すべき国政を一層の混迷と停滞に引きずり込んでいっている自公勢力「辞意表明を覆したペテン師菅首相」との、それこそ「ペテン的言いがかり」をもって「菅降ろし」の口実を与えた鳩山前首相と民主党内小沢勢力「菅の退陣」が政治の焦点であるかのごとく情報を連日垂れ流しつづけるテレビ・新聞などのマス・メディア(本文冒頭にあげた今朝の朝日新聞の大見出しにも見るように)それに引きずられる野党諸党そして当の菅政権と民主党内からさえも「菅首相の早期退陣」論に傾斜する軽薄さ。更に付け加えておこう6月18日に朝日新聞「社説」の「居座る菅首相の下の国政停滞を憂える」は朝日新聞が自公勢力などの理不尽な愚行とともに「菅降ろし」走者として走っていることを明らかにしている。

 こうした日本国政の惨状が、被災者たちの「一人の漏れも一人の例外も」ない「救済と保障」の国政をもはや完全に手遅れにしてしまっている。福島原発崩壊への対応を行き詰まらせてしまっている。被災地復興への施策を遅れに遅れさせてしまっている。


立ち止まっても俯いてもならない菅政権


 自公による「菅不信任」攻勢を突破したのであるならば、菅政権は俯いてはならない。立ち止まってはならない。「辞意表明した菅首相」は「辞任時期を言明せよ」などと鳩山指揮下に大合唱する政治術策にはまってはならない。

 (一)苦難の被災者たちへの「完全な救済と保障」の政治(二)「被災地の復旧復興」の政治(三)「崩壊福島原発の完全処理」の政治(四)そして「自然エネルギーへの転換」の政治これらの緊急事態政治を菅政権は強固な使命感をもってやり抜いてゆかなければならない。「不信任案」を突き付けて国家的緊急事態政治の前に立ち塞がって停滞させてきた自公勢力国民投票をもって「脱原発を国是」としたイタリア国民のみごとな理性的政治行為を「集団ヒステリー」と罵った石原伸晃自民党幹事長に象徴される反「脱原発」=「原発推進」の自公勢力菅政権はこうした逆流の波に押し流されてはならない。菅民主党政権は、その逆流を懸命に漕ぎ渡って日本の国政を「さよなら原発日本」へと例え僅かな一歩であろうとも導かなければならない。

 もちろん、菅民主党政権の思想と路線は「完全な脱原発」ではない。

 (一)それ自体はまさにグッド・タイミングで、「原発村」からの「巻き返し」の初発弾として中部電力がおこなった「浜岡原発の運転開始」表明に対決する即時の反撃して積極評価されて当然な菅首相の「浜岡原発停止」要請であったにもかかわらず、だが、それにしても「安全確立まで」の条件付きでしかなかった菅首相「浜岡原発停止」要請の限界性(二)海江田万里経済産業大臣が突如発した「原発安全宣言」(6月18日)(三)続くIAEA(国際原子力機関)閣僚会議(ウイーン、6月20日)での海江田「原発安全強化」表明などにそれを確認することができる。

 もちろん、人類世界はひとたび陥った「原発推進」の底なし沼から脱出しなければならない。「脱原発」は今日のみならず、更に遠く今後幾千年、幾万年の人類の前途がかかった全人類的課題である。そのための自覚的な「脱原発=さよなら原発」の思想と運動は人類世界の「新しい潮流」である。既に、ドイツが、スイスが、イタリアが、この新潮流の道を国家として歩き始めている。「福島原発の崩壊」がその「未曾有の惨事と悲劇」性をもって人類世界に転形を呼び起こしつつある「新しい潮流」である。「福島原発の崩壊」という未曾有の惨事を引き起こして、その惨事の災いと犠牲を全地球規模に伝播させつつある「この日本」こそ、その「新しい潮流」の「騎手でなければならない」はずだ。

 その意味で、この菅民主党政権の「原発維持」路線を認めることはできない。その思想と路線の根本的転換を菅政権に迫り続けて行かなければならない。

 そのことを大前提として、突如襲来した大震災によって突き落とされた「悲劇と地獄の日々」に100日を越えた今もなお辛苦する被災者たちへの「救済と保障」のための国家「総がかりの政治」が菅政権下に建設されてゆくことが「直面する国政」として求められるのである。


「さよなら原発」は日本進路の分水嶺

脱原発して明治維新以来の日本大改造へ


 同時にそこには、新しい日本を切り拓く道が準備されてゆかなければならない。「脱原発の日本」=「さよなら原発した日本」「慎ましやかな日本」=「明治維新以来の大転換」=「日本大改造」の道である。

 この「脱原発」=「さよなら原発」こそ、これからの日本の進路の分水嶺である。その「さよなら原発」の実現のためには、国民の一人ひとりが、今眼前に見ている「三流の国家政治」から政治をとり返して、国民一人ひとりが自ら参加し行動する「国民総がかりの主体的な民衆政治」を切り拓いて行かなければならない。これ即ち「さよなら原発一億人の総行動」運動=「一億人の日本大改造」運動である。

 既に「脱原発100万人」運動として「6・11」アクションが全国的に展開した。それは更に「9・19東京明治公園5万人集会」をはじめとした全国運動へと前進してゆく。

 そして更に、ルポライターの鎌田慧、作家の沢地久枝・大江健三郎・瀬戸内寂聴・辻井喬・落合恵子、経済評論家の内橋克人、ミュージシャン・坂本龍一の八氏の呼びかけで、原水禁(原水爆禁止日本国民会議)・原子力資料情報室・環境エネルギー政策研究室の三団体を実行委員会として「1000万人の国会請願署名」を求める「1000万人さよなら原発」運動が6月15日の記者会見をもってスタートした。

 「東電福島原発の崩壊」という未曾有の「惨事と悲劇」が大反転して生み出しつつある「全人類史的な新しい潮流」である。この「1000万人さよなら原発」運動の思想と願いと性格は全人類的な広がりをもって根本的である。「被爆国日本」の「新たな試練」として「全国民的な意義」をもつ「脱原発運動」である。そうであるからこそ、この既に始まった「1000万人運動」は更に「全日本列島規模の全国民的な一億人運動」へと発展してゆく。

 それは「新しい日本への道」=「日本大改造の道」=「慎ましやかな日本への道」へと通じて行く行かせなければならない。


「原発維持=佐幕」か「脱原発=倒幕」か


 「150年前の明治維新」を螺旋的に一段次元高く飛躍させて再来させるのである。「佐幕=原発維持」か「倒幕=脱原発」かそれが日本進路の分水嶺となる。現下の菅民主党政権は「公武合体派」と云うところであろうか。(11・06・23)