THE  POWER  OF  PEOPLE

 

1971年7月15日・高尾山人民の力政治部長 岩田菊二


人民の力結成40周年

これからも確実に歩みつづける


 人民の力が結成されて40年を迎えた。1971年7月15日に政治同盟「人民の力」は結成された。最初は、日本労働者階級解放闘争同盟という名称であったが、今は「人民の力」を組織の正式名称としている。結成当時、社会主義協会「太田派」に属し、社会主義青年同盟(社青同)の中にいた。その中で青年活動家たちが、「社会党潮流の限界」と「社会主義協会の党的発展」を自覚していく中で、政治同盟「人民の力」は誕生した。「新たな飛躍を準備せよ!」(『人民の力』第34号、1969年夏合併号)の呼びかけに、決意を新たにした青年が東京の高尾山に集まったのが40年前1971年7月15日なのだ。「人民の力」にとって、長くもあり短くもあった40年である。


「ゼロから出発」して「実体として存在」しつづけている


 私は結成当時、社会主義も労働運動も無縁な遊びほうけていた若者であった。そんな私に職場の先輩が太田派の機関誌「スクラム」を「読め!」と持ってきていたのだが、それが途中からなぜか、本の大きさも、値段も違う「人民の力」という名称の本に変わったことを不思議に思った。先輩は何も語らず、私も特別聞きもせず、その事情が理解できたのはもっと先のことだった。

 私が国労青年部運動を通じて「人力」運動へ入っていく当時は、労働運動の昂揚期でもあり熱血漢そのものの青年労働者が周りにたくさんいた。「職場に労働運動を!」のもと、順法闘争やストライキ、職場闘争が活発化し、「明日にでも革命か!」という雰囲気の中での活動であった。やりがいもあったし、楽しさがあった。若さもあって、夜を徹して活動することも苦にはならなかった。

 だが一方で私たちは、主流派の社会党・民同派勢力から労働組合運動の場で「締め付け」と「排除と解体」の的にされて苦しみや悲しさも味わった。労使協調と議会主義路線を深めていた社会党・民同派が指導する労働運動は、当時の自民党政府や資本に足元をすくわれ、1975年のスト権ストを境にして弾圧・解体へと追い込まれていった。今では、社会党の名は消え総評は解散した。

 「人民の力」は、結成当初、社会党でも共産党でも新左翼でもない「独自の自立した党と潮流建設」の道にたって、まずは「主体的組織として存在」する基礎を若い活動家たちの手で作り上げてきた。労働運動は高揚期から退潮期に落ちて行ったが、「人民の力」は社会に存在を認められようと微弱ながらも歴史を積み重ねてきた。

 1980年代の国鉄解体攻撃は、国鉄労働者を奈落の底へ突き落していったが、国鉄人力もその奈落の底から踏ん張って新しい社会主義運動や新しい労働運動をつくろうと格闘してきた。「人民の力」40年を振り返れば、どれほどのことができたのだろうか。自問自答もするし、「新しい社会主義」や「新しい労働運動」とは何ものなのかと悪戦苦闘する日々である。さらに私たち「人民の力」は、独自の「党と潮流建設」という結成当初の道を考えれば、まだまだはるか遠いところに存在している。しかし、いまここに、微弱ではあっても厳然として自立した組織があり運動がある。厳然たる実体がある。その実体として「存在の意義」こそ、「人民の力」40年の歩みの価値である。


「転形期の世界」を象徴する中東情勢


 私たちは「人民の力」は昨年5月、第11回全国大会を開催した。大会では、「世界」も「日本」も私たち「人民の力」も大きな転形期の中にあると位置付けた。

 大会から1年が過ぎた。たったこの1年を振り返っても転形期の渦中にあることを実感する。例えば、「転形期の世界」を象徴するのは、昨年末から起きたジャスミン革命のチュニジア、それに続くエジプト、リビア、イエメン、ヨルダンなど北アフリカ・中東全域をおおう民衆蜂起である。頑強独裁国家で、誰も予測しえなかった事態が、民衆蜂起という形で立て続けに起きたのである。今後この反独裁蜂起が、民主的な政権としてつくりだしえるかどうかはまだ定かではないが、しかしこの北アフリカ・中東蜂起は、全世界の民主勢力にも影響を与えている。特に中国では、拡大する貧富の格差や上層部の不正、腐敗に抗議や改革を求めた集会やデモが連続している。さらに、インドでも政治家や官僚の汚職に抗議した断食やデモが起こっている。今世界は、欧米日時代に代わって、中国やインド、オーストラリアなど新たな新興資本主義国の力が広がり強まる中で、「民主主義的・人間主義的・全人類的な営為」の運動も拡大し、「転形期の世界」の様相をますます明らかにしている。


「転形期の日本」を象徴する「3・11」


 この1年「転形期の日本」を象徴する事態は、もはや説明の必要もないが、「3・11」に引き起こった大震災と津波、そして福島第一原子力発電所の爆発と放射能汚染である。「M9・0」というかつてない大地震とそれによってひき起こされた大津波は、一瞬にして多数の尊い生命を奪い数十万人の人々の生活を根こそぎ破壊した。その「天災の悲劇」に加えて発生した「人災の悲劇」=福島第一原発の爆発は、周辺30キロ(半径)圏内の人々をはじめ東日本周辺地域を、住むこともできない放射能汚染地帯に変えてしまった。

 今この震災と人災の二重被害は、さまざまな問題を私たちに問うている。

 日本がとりいれてきた西洋近代文明としての大量生産、大量消費の工業・都市文明。利潤追求に奔走してきた資本主義の文明がもたらした自然と環境の荒廃と危機、その暴走を支えてきたのが「核の平和利用」「原発安全神話」であった。その文明の結末が人や生物にいかなるものを与えるのかを、今回の震災と人災は明らかにした。日本がとりいれてきた近代文明を変えていく新たな政治、新たな街づくり、新たな雇用、新たなエネルギー、新たな交通、新たな助け合い、新たな生活様式などなどをどのようにしていくのか。人と生き物、自然と環境が調和し合って営むための日本をどのようにしていくのか、どうつくりかえていくのか、今まさに問われている。その問われていることに対して、当然にしてまず行わなければならないことは、現実に起きている未曽有の震災と人災に苦しむ人々、悲しみと途方に暮れる人々に対して、完全な「救済と保障」をおこなうことである。3・11「転形期の日本」を象徴するこの事態で、新しい日本の進路をつくるためには、いま例外なく「一人ひとりの命を守る」ことである。


人力40年これからも大地を踏みしめて歩みつづける


 もうひとつの、この1年の「転形期の人民の力」を最も象徴するのが、80年代から始まった国鉄解体攻撃、その頂点をなしてきた解雇撤回・JR復帰、不当労働行為廃絶をかかげた国鉄闘争が、昨年6月に和解をし、事実上終結したということである。「人民の力」40年は、常に国鉄労働運動があり、国鉄闘争を一瞬でもおろそかにもあいまいにもできない、全精力をかけた闘いとして位置付けてきた。その国鉄闘争が、事実上終結した。とりわけ、闘争団にとっては日常時が闘いであり、あらゆる面での格闘であった。闘争団を中心とした国鉄闘争から、新たな国鉄闘争、新たな労働運動をつくっていくために、私たち「人民の力」の生活や運動の在り方が問われている。

 たった1年の中でおきた「転形期を象徴する事態」は、私たちの想像をはるかに超えて動いている。この想像を超えてわきあがる「転形期の事態」の中で、どのように運動しどのように闘っていくべきか。さまざまな考えが交差し錯綜するがしかし、まず大切で私たち一人ひとりの心の深部に存在しなければならないことは、「これからも確実に歩みつづける」という意志と情熱である。

 私たちは、社会主義をめざす。そのスタンスは「理性とヒューマニズム社会主義」である。未だ「人民の力」は、新たな飛躍も新たな社会主義運動も労働運動もまだその道の渦中である。だが組織が存在し活動するその生命力こそ、新たな改革をつくりだす基礎である。

 「転形期の世界」は、民衆革命をつくりだした。30年40年と続いた一つの独裁国家、一つの独裁政権の中で民主主義と人間性と解放を求める人々や組織が存在していたからこそ、民衆蜂起はつくりだされたものである。

 「転形期の日本」を象徴する事態の中で、世界ではドイツやスイス、イタリアなどで原子力発電所の廃炉や閉鎖を決めた。日本でも、脱原発や反原発の運動が高まっている。核と人類は共存できないという想いをもった子供が母が父が、若者や恋人や老人が立ちあがり核なき世界、原発なき社会を作り上げていこうとしている。「転形期の人力」をもたらした国鉄闘争も、長年にわたる解雇者闘争団の労苦をいとわない不屈な闘いと組織が存在したからこそ、和解となったのだ。すべてが運動する人、闘う組織があってこそできたことである。

 何が起きるか想像できない「転形期の時代」は、しっかりと腹も腰も足も据えて運動をしていこう。「ヒューマニズム社会主義」をめざす人力は、この40年にして「夢12カ条」(2011年新春号巻頭言)を確定した。この指針は、「転形期」における私たちの生き方であり、方向である。人民の力40年。私たちは、夢を夢として終わらせないためにこれからも営々と歩みつづける。新たな40年に向かってしっかりと歩みつづけるのだ。