THE  POWER  OF  PEOPLE

 

  社会主義考114 新しい社会主義の道をさぐって    常岡雅雄


   
人民の力創刊40周年


 それを「第一歩」として「人民の力」は「徹底民衆主義の思想と行い」をもってどこまでも歩き続ける


 今から丁度40年前の1968年それは戦後史に特筆記録されるべき画期の年であった。世界中の若者たちが、それは限りなく「青臭かった」にしろ、理想と反権力と反体制と革命の理想主義と情熱に燃えて噴出し突撃して世界を震撼させた年だった。

 この1968年の6月1日それは、誰よりもまさに、この私たち「人民の力」こそが、あらためて思い起こして、その決定的な意味を確認しなければならない日である。その日こそ、今ここにある、この『人民の力』誌がこの世界に生まれ出た日だからである。そして、私たちが積みかさねてきた歴史を振り返れば、今日この日、すなわち、2008年6月1日のこの日までに、この『人民の力』誌は40年の歳月を重ねてきたのである。資本主義社会を新しい社会主義社会にむかって革命しなければならないことを自覚した労働者の政治同盟=日本労働者階級解放闘争同盟として、私たちが「人民の力」を結成したのは、正式には1971年7月15日であった。とは言え、事実上は、その三年前に創刊した、この雑誌『人民の力』の「新しい社会主義」の旗と思想と路線と人間性のもとに結集してきたのであるから、組織としての「社会主義同盟人民の力」もまた、登場いらい40年の歴史を積んできたことになる。


 変わってきた人民の力


 この宇宙に存在する物事として当然であるが、その一粒としての私たちもまた変化してきた。それらが発展であるのか退化であるのか、前進であるのか後退であるのか40年を振り返って、その変化の際立っている点を挙げて見よう。

(一)何よりも先ずは、私たちの姿勢は「近視眼的な姿勢」から「巨視的な姿勢」へと変わってきた。「構えが大きくなってきた」のである。

(二)そして、その姿の一つであるが、一面的な政治主義や局面主義と短絡的な戦術主義から、社会と世界を長期的に構造的に見るようになってきた。私たちの云う構造的革命路線である。

(三)私たち「人民の力」は労働者社会主義者の絆としてスタートした。だから、私たちの体質には労働者主義があった。しかし、その視野の狭い労働者主義から脱け出してきた。労働者階級を基本としながらも、労働者階級以外の諸階級・諸階層の社会的意味を積極的に位置付ける民衆主義へと変化してきた。

(四)その具体的な姿として、一面的な労働運動主義から諸階級・諸階層の実践を評価し位置づけて関係する民衆運動路線へと変化してきた。

(五)権力主義、政治的上昇志向主義、その具体的姿の一つとしての議会主義それは日本左翼の奥深い体質である。その表面的なきれい事の奥の奥に秘めた体質である。

 私たち「人民の力」はこうした権力主義、政治的上昇志向主義、議会主義とは全く別の次元からスタートした。むしろ、その上昇志向主義を否定するところからスタートした。そして、40年の歩みを通して、私たちは、その道を更に徹底民衆主義の道へと深化させてきた。

(六)左翼世界の政治的・精神的・心理的な雰囲気のなかで、結成期には私たち「人民の力」もまた、その左翼世界の前衛主義と、その意識構造である唯我独尊・自己絶対主義・セクト主義から無縁ではなかった。しかし、その恐るべき悪しき左翼主義の害毒からの決別と克服をめざすことこそが私たちの初心的原点であった。

 したがって当然にも、そこからの脱却をめざして、私たちはもがき続けながら体質的な変化を遂げてきた。すなわち、それが、私たちの云う推進力論と協働路線への変化である。それを、実際の組織路線として言えば総合的組織建設路線である。

(七)また、機関誌『人民の力』は、社会主義・共産主義運動世界に一般的な「宣伝・煽動」の機関誌という性格、すなわち、特定の政治指導部や専門的な書き屋中心主義の機関誌という性格から「みんなで作る」機関誌=「みんなが書く」機関誌へとその性格を変えてきた。私たち「人民の力」の同志たちは、指導部や専門家からの単なる受動的な「受け手」でしかない次元から能動的な作り手になったのである。能動的な主体者になったのである。


 変わらなかった人民の力


 もちろん、こうした変化の根幹にあって変わらなかったことがあるし、変えてはならなかったことがあった。

 その一つは、既に「権力として」あるいは「運動として存在する」ところの「現存の社会主義」とは違う「新しい社会主義」を追求してゆこうとする道いわゆるスターリン主義でも社民主義でも、更にミニ・スターリン主義にほかならない反スターリン主義でもない「新しい社会主義」なのである。

 同時に、如何に偉大であろうとも、或いは達成された革命の権威に裏づけられていようとも、他国の権威に依存しない姿勢を貫いてきた。或いは、他国の社会主義・共産主義の路線や戦術を直輸入したり模倣したりしてはならないという姿勢を貫いてきた。私たちの言葉で言えば、「科学的主体性」であり、「自立した社会主義」の道である。

 当然にも、その科学的主体性の姿勢と独自の自立した社会主義の道は成熟の域にも及第点の水準にさえも到達しえてはいないであろう。いまだ、気も遠くなるほどの辛さのともなう模索と探求の道でしかない。しかし、その「もがきの過程」それこそが、私たち「人民の力」の「新しい社会主義」そのものなのである。

 もう一つは、労働者主義・人間主義の心をもって「非暴力主義」を貫いてきた。

 私たちは綱領的見地として暴力革命を承認してきた。とは云え、その暴力とは武装による解放闘争路線でも武装や腕力による直接的な暴力行使のことでもなかった。ましてや、党派的・組織的・個人的な武装や暴力の行使のことなどでは決してなかった。私たちの云う暴力とは、労働者・民衆の組織された力による非武装・非暴力の実力のことであった。

 非武装・非暴力主義は普通に生きる人間として労働者として当然の人間性である。そうであるからこそ非暴力主義の精神と実践は私たちの新しい社会主義運動として、しっかりと守りぬかなければならない絶対的な心懸けであった。したがって、私たちの周辺に多発してきた内ゲバについては、(一)自分たち自身が行なうことなど問題外のことであったし、(二)さらに内ゲバには関与せず巻き込まれずの道をとってきた。その非暴力主義を貫いてくることのできたことを、40年の歴史をつんだ今、あらためて嬉しく思う。

 こうして、私たち「人民の力」は避けてはならない多様な変化とともに、決して忘れたり曖昧にしてはならない基本線を貫いてきたのである。


 人民の力はどこまでも歩き続ける


 そして、40年を経たこれからの段階を『人民の力』はどのように進めばいいのであろうか? 人民の力が資本の運動でないことは当然である。同時に、権力のためや支配のための運動でもない。地位のためや勢力のための運動でもない。立身や上昇のための運動でもない。

「労働者階級と人民の解放」に向っての一人ひとりの人間の思想と精神と人柄の運動なのである。苦しむ人がある限り、辛い思いで生きている人がいるかぎり、私たち「人民の力」は、その人々のところに向わなければならない。その人々と共にあらねばならない。

 そのことを本当に行なうことができるならば、この世界に労働者階級と人民があるかぎり、私たちもまた、どこまでもあり続けるのである。そうであるならば、「人民の力」とは私たち一人ひとりの「個人の生命に限られた存在」などでは決してない。今後も、「人民の力」とは、搾取され収奪され、支配され抑圧され、無視され蔑視される階級や階層として永続する「労働者階級と人民の存在」そのものなのである。

 これからの新しい40年も、更にその後の遠い彼方にも、徹底民衆主義者としてそこにあり続けることによって、政治同盟「人民の力」も、機関誌『人民の力』もまた、どこまでも永続するのである。

                      (08・05・22)