THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考1811000号の峠に立って人民の力代表 常岡雅雄


人力社会主義45年史—人間主義と理性と革命の心


「新しい社会主義」の

前人未踏の荒野に踏み入る


地球社会主義の道をひらく—21世紀帝国主義に抗して


革命を志す—たった一人でもいいではないか


 時代は革命家を求めている。

 時代は21世紀—「新しい帝国主義」の時代である。

 たった一人であっても、いいではないか。

 自分だけであっても、いいではないか。

 恐れずに、「革命を志そう!」ではないか。

 びくびくせずに革命の志(こころざし)をもとうではないか。

 革命の志(こころざし)をもつ者が

 たとえ一人であっても、現われるのを、時代は深く期待している。


 今の時代は、良いことは何もない時代ではないか。どんどん悪くなってゆく時代ではないか。息の詰まりそうな時代ではないか。こんな時代には、それこそ「革命がふさわしい!」ではないか。

 それは、自分だけの思いでも、いいではないか。

 自分の志(こころざし)だけでも、いいではないか。


 「革命」ということを、途方もないことと思いこんで、自分の心と目を、自分が今おかれている辛い現実からを遠ざけなくて、いいではないか。

 「自分にはできないことだ!」と、自分を小さくみて、現実を変えることから自分の身を隠さなくて、いいではないか。自分だけの殻の中に閉じこもってしまわなくて、いいではないか。

 自分の置かれている社会のこと、世界のことに、心を閉ざさないで、いいではないか。「自分の明日」をあきらめてしまって、小さく縮こまらなくて、いいではないか。


 自分の力が小さくても、いいではないか。

 大きくなくても、いいではないか。

 自分の思いに理解を示してくれる人がいなくても、いいではないか。

 自分の志(こころざし)に味方してくれる人がいなくても、いいではないか。

 自分を応援してくれる人がいなくても、いいではないか。

 自分の革命の志(こころざし)に敵意をもつ人や反対するひとが沢山いても、いいではないか。


 革命を志した自分を、この世の中がどう見ようと、そんなことは、どうでもいいではないか。自分の周りの人々が、何と思おうと、いいではないか。何と言おうと、いいではないか。

 自分自身の感じることを、大切にしようではないか。自分の胸の奥に日々に溜まっていく思いを噛みしめようではないか。自分自身の思いを、大切にしようではないか。自分自身の志をもとうではないか。

 そして、胸を張って、自分自身の道をゆこうではないか!


破壊と欄熟と窒息をきわめる資本主義

社会主義にしか人類の前途はない


 世界は資本主義一色になり果ててしまって行っている。

 人類は、今日まで何万年にもわたって発展の歴史をたどってきた。

 資本主義は、この人類の発展史のうえにおいて最高に発展した社会である。

その「最高に発展した社会」が、同時に、人類の歴史上で「最も破壊的で残酷な社会」なのだ。

(一)人類が存続してゆくための土台である自然も環境も、(二)人類が営々と築きあげてきた歴史も文化も、(三)人びとが居住する村落も都市も、(四)人が人間として生きるために取り結んでいる人間関係も共同関係も、情け容赦なく破壊し破滅させていっている。

 それが、この資本主義なのだ。

 この人類史上最高度に発展した社会である資本主義のもとにありながら、人々は決して幸せではない。それどころか、人々は「人類史上最も不幸せ」なのだ。

資本主義のもとで、ほとんどの人が先を見通せなくなっている。

 自分の明日に希望がもてなくなっている。息が詰まって窒息しそうになっている。この資本主義社会のほとんどの人びとは、この社会が自分自身の社会だとは感じられなくなっている。思えなくなっている。

 そうだ、確かに、この資本主義のもとで生きるほとんどの人が、別の生き方を望んでいる。この資本主義ではない「別の社会」を求めている。

 更に、この資本主義社会をよーく見れば、資本主義世界に生きる人びとの、そのすべては、「人間らしさ」を失ってしまっている。

 この資本主義社会の圧倒的多数である「貧しい人びと」も「虐げられた人びと」も、その「貧しさ」ゆえに、人間らしく生きられなくされてしまっている。「哀れに虐げられている」ために、人間らしく生きられなくされてしまっている。


 他方、この資本主義を「謳歌している人びと」に目を向けてみれば、「富める人」も「権力を握っている人」も、その「富と権力の高みに生きる人間」であるために、人類のなかで「人間らしさを最高度に失ってしまっている」ではないか。「限りなく人間らしくなくなってしまっている」ではないか。

 すなわち、資本主義のもとに生きる人びとは、すべてが、誰もが、その「資本主義の魔性」のために「人間らしさを失ってしまっている」のだ。

資本主義が人類と地球にもたらしている、この「人類史上最高度の無惨さの克服」をめざして「別の社会を人類が求める」のは当然のことである。

 その「別の社会」とは何か?—それは「社会主義!」なのだ。

 その「社会主義」とは、何あろう、この資本主義が生み落として育(はぐく)む「必然の社会」なのである。


旧い社会主義は終わった

新しい社会主義の時代が始まった


 もちろん、「社会主義」と云っても、それは「今までどおりの社会主義」ではない。

 今までどおりの社会主義の時代はもう終わった。

 今までどおりの社会主義は、社会主義を語ってはいても、社会主義にふさわしい社会を築くことはできなかった。社会主義にふさわしい世界をきりひらくことはできなかった。


 或いはまた、社会主義をめざしていると言いながらも、今までの社会主義運動は、それ自身、社会主義を語るに値する思想や体質をそなえていなかった。社会主義をきりひらきうる思想も体質も、みずから築きあげてゆくことはできなかった。

 これまでの社会主義(旧社会主義)は

(一)「権力に到達した社会主義」も、真正の社会主義ではなかった。〈資本主義にやっと到達できた「社会主義」〉でしかなかった。

(二)「権力をめざしている社会主義」も、資本主義を克服して社会主義をきりひらくにふさわしい運動でも組織でもなかった。

 こうした今までの社会主義(旧社会主義)とは違う「新しい社会主義」を、自覚し、切り拓いてゆくことを、21世紀の人類世界は求めている。


「理性的で人間的で革命的な社会主義」こそ

「新しい世界」をきりひらく


地球社会主義こそ帝国主義と資本主義を葬る


 その新しい社会主義とは—如何にあるべきであろうか?

 その多くのことが、当然にも、未開の無限の荒野の中にある。

 そのなかで、私たち人民の力は、次の二点を「新しい社会主義」として「心掛けなければならない要件だ」と考えている。

(一)一つには「理性的で人間的である」こと。

 これがこれからの社会主義運動に欠かしてはならない要件である。すなわち、私たち人民の力が自覚し心掛けている「新しい社会主義」とは、「理性的で人間的な社会主義」なのだ。

(二)二つには「全地球的な広がりと深み」をもっていること。

 これが私たち人民の力が心掛けて追求する「新しい社会主義」のもう一つの要件なのだ。

 すなわち、私たち「人力社会主義のこれから」とは、「地球社会主義」なのである。


なぜ「地球社会主義」なのか


 これからの21世紀世界は、20世紀とひとしく「帝国主義の世界」である。

 この帝国主義に真の意味で対抗できる思想と政治とは—それは何であろうか。

 それは国家でも国民でも民族でも人種でも宗教でもない。

 国家とも国民とも民族とも人種とも宗教とも、次元を遥かに超えた「全地球規模の人柄と思想と政治」なのだ。「全地球規模の広がりと深み」をもった「人柄と思想と政治」でなければ、「帝国主義にたいして真の意味では対抗できない」というのが「20世紀の教訓」なのである。

 しかも、これからの21世紀は、この〈20世紀帝国主義をはるかにこえた広がりと深みをもった「新しい帝国主義」世界〉となっていっていくことは、21世紀に踏みこんだ人類世界の「新しい様相」が示すとおり、既に、明らかになってゆきつつあることである。

 これまでの社会主義(旧社会主義)—すなわち「20世紀の社会主義」は、「国家や国民や民族や人種や宗教など」を「人柄とし思想とし政治とした細切れの社会主義」でしかなかった。

 社会主義を称していても、国家的な社会主義、国民的な社会主義、民族的な社会主義、人種的な社会主義、宗教的な社会主義でしかなかった。人柄としても思想としても政治としても、原理的には「帝国主義と根元は違いのない社会主義」でしかなかった。本質として言えば「帝国主義的な社会主義」でしかなかった。「資本主義とひとしい社会主義」でしかなかった。「資本主義をおこなう社会主義」でしかなかった。「帝国主義をおこなう社会主義」でしかなかった。

 この「20世紀の社会主義」の反省から出てくる社会主義であるからこそ、「新しい社会主義」とは「地球社会主義」なのだ。


「一〇〇〇号の峠」から「次の峠」に向う


 45年前の一九六八年六月一日の『人民の力』創刊をもって始まった「人力社会主義」の前途は無限の広がりと深みである。

 「人力社会主義」とは到達点のない「永遠の社会主義運動」である。

 そうであるからこそ、一〇〇〇号とは、登り上げた頂上などでは決してない。無限の登り道の「一つの峠」でしかない。永遠の登り道の「一つの峠」でしかない。一九六八年六月一日創刊いらい45年の歳月をかけて到達した「一〇〇〇号」は終わりではないのだ。

 その「一〇〇〇号の峠」から、また「次の一〇〇〇号」にむかって登りはじめるのである。