THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考118 脱アメリカ=変革「隷米日本」の道に立って常岡雅雄


水に落ちた犬は打て


全野党政権づくりの円卓を


 問われるのは—もはや自公ではなく

  野党勢力の覇気と責任感である


 9月1日の午後9時半、福田康夫首相が寝耳に水で辞意表明して「福田、お前もか!」と世間をあきれさせてから、もうすぐ三週間になろうとしている。24日(9月)には臨時国会の召集となるが、その二日前の22日に自民党は総裁選挙をもってポスト福田の新総裁を選出する。大勢は麻生太郎・自民党幹事長に傾いている。そして24日召集の臨時国会の冒頭に衆院解散をおこない、一ヶ月後の10月26日が総選挙となりそうな雲行きである。

 事態の政治的本質は、「自公」政権勢力による首相の「盥回し」であり、もはや政権寿命の尽きた自公勢力がその政権維持のために国民をやりたい放題に引きずりまわす政治術策にほかならない。

 とは言え、野党勢力に政治的覇気と責任感が問われることとして見るならば、何とも「情けない」ことではないだろうか!

 福田内閣の崩壊は福田首相の「突如たる政権投げ出し」として現れた。国民の誰もが知らないうちに、メディアのどれもが予想も報道もしないうちに、「首相の辞意表明」という事態が突如として起こったのである(ただし「米政府は知っていた」と朝鮮新報9月5日)。即ちそれは、政権勢力の内側の政治状況と政争と思惑という次元での事態でしかなかったのである。国民の一人ひとりが注視する全国民的な次元での政治行為ではなかったし、与野党激突がもたらす国政次元の政治行為でもなかった。

 野党勢力が、本当の意味での国政次元に相応しい政治的な能力と意志、および、その実体としての民衆次元からの大衆的な基盤と闘志を備えており、それを発揮していたならば、総理大臣が「突如として政権を投げ出す」という、誰もが「あっと驚く」ような姑息な姿では福田政権は終わらなかったであろうし、終わらせられなかったであろう。

 野党勢力が本当の意味での野党勢力であったならば、国政次元での徹底闘争と、その基盤としての全国民的大衆闘争にさらされて、全国民の前、全メディアの前で、福田「自公連立」内閣は「打倒されていた」はずである。しかし、実際の野党勢力は、そうした劇的事態をもたらすに価する路線からも主体からも状況からも、遥かに低い次元にしかいなかった。だからこそ、事態は、前回に「安倍坊ちゃん首相の政権投げ出し」と等しく、今回もまた「自民党内の政権盥回し」「首相の首の挿げ替え」程度での、まったく詰まらない「自民党内の権力政治」として推移させられていっているのである。メディアもまた、全てが連日連夜、その姑息な次元で「盥回し」劇・「挿げ替え」劇としてしか国民に報じていない「体たらく」なのである。


  進む道をあやまたず鮮明にして

    脱アメリカの革新共同戦線づくりへ


 この福田「辞任表明」の一ヶ月前の夏季合併号「巻頭言」において、私は、当面して日本が目指すべき路線的方向を「脱アメリカの新しい日本への道」=「米国への隷従日本からの脱却真の『戦後体制の清算』へ」と明確にしたうえで、社民党・共産党・新社会党・民主「革新派」にたいして「自己作り変え」を目指しながら「革新共同戦線を練り上げ」て「国政『第一極』へと登りあげよう」と語りかけた。社民・共産・新社会・そして民主党内「革新」派は、現状の「自己充足」と「野党とどまり」の次元にとどまらず、大きく高く「共同戦線を組み国政担当勢力へと前進すべきだ」「その政治課題をめざすべき時期が迫っている」と考えたからである。この見地に立って、やや具体的に、その革新共同戦線のめざすべき「脱アメリカの方向」として次の三点を提起した(三点とも原文のまま)。

(一)第一には日米安保条約の破棄と在日米軍基地の完全撤去の達成をもって実現する「日米安保体制の克服」という「政治の問題」である。

(二)それだけではなく、第二には敗戦後に隷米日本として構築されてきた日本の「国家と社会の精神と思想と価値観と構造と体系」の「主体的な創り変え」をめざす「自立日本としての自己変革の問題」である。

(三)そして更に、第三にはアジア太平洋と国際世界にたいして、ひたすら「隷米政治としてしか展開してこなかった」戦後日本国家の国際政治路線を「自立した主体的な反戦と国際貢献」の平和主義政治へと根本転換させる「国際政治の問題」なのである。

 この「脱アメリカの道」を「民衆闘争と国政闘争が両輪をなして第一極へ」登りあがっていくために、「国政の場」においては、「まずは、社民党・共産党・新社会党・そして民主党内革新派といった国政上の革新諸党派が、戦後60余年の隷米日本の根本変革に向うのだという雄大な抱負と決意にたって、唯我独尊やセクト主義や姑息な議員根性がそのためには有害であることを自覚して、国政上に『壮大な革新共同戦線』を実現していく道に立つべきであろう。」

 この提起の直後に起こったのが「福田首相の突如たる政権投げ出し」であった。

 状況はぐっと煮詰まった形で姿を現したのである。野党勢力が「自己充足」と「野党根性」の次元に止まらず、大きく共同して革新政権への道に立つべきときが来たのである。


   沈没しつつある自公政権の再浮上を許さず

    まずは、民主党軸の全野党政権を国民の前に


 したがって、本誌9月15日号(883号)で「またも総理大臣の政権投げ出し民主党軸に全野党政権へ脱アメリカの道に立って新たな前進へ」として次のように「民主党軸の全野党政権」を目指すべきことを説いた。

 「帝国アメリカへの隷従という雁字搦めの桎梏が、安倍前首相にも福田現首相にも、その日本国総理大臣としての政治生命を一年と続かせなかった。帝国アメリカへの隷従は戦後60余年の、そして今日も変わらぬ日本の基本構造なのである。」

 この「アメリカ隷属の蟻地獄」そのものに「とらえこまれている保守政権が、そこから脱出できる道を見出せるはずもなく、それを解きほぐす方策をあみ出せるはずもない。その蟻地獄的どん詰まりの姿が、安倍前首相、福田現首相とつづいた『政権投げ出し』なのである。次の政権もそれが『帝国アメリカへの隷従日本』という戦後60余年の基本構造に挑戦する道に立たないかぎり、その政権が政権投げ出しの『三代目の運命』を辿ることは間違いないであろう。」

 「であるならば、福田『自公政権』を継ぐものは、自公政権の『たらいまわし』であってはならない。自公政権への徹底対決を頑固につらぬいてきた『民主党』を柱とした『全野党政権』の実現をこそ国民は望まなくてはならない。」(原文どおり)

 「自公」政権勢力の総理大臣は二度も在位一年にも満たずに政権を投げ出した。「自公」政権は政権の座にしがみつきながらも、実体としては、政治遂行力としては、海面下に沈没していっているのである。その再浮上を許してはならない。それが全ての野党勢力の現下の最低限の責任である。そして、まずは「民主党軸の全野党政権」を国民のまえに出現させることこれこそが現下の政治局面において、国民が期待しなければならないし、求めなければならない政治核心である。この現局面の政治核心をしっかりと自覚して振舞うことこそが、全ての野党勢力の政治責任である。


  望まれる社民党の覇気と政治力

  共産党と新社会党の共同力、民主党の革新力


 社民党は、議会勢力の少数にもかかわらず、今日の日本政治の構造と状況においては、革新としてもっとも適切な位置にある。そうであるならば、議会勢力の多少の如何にかかわらず、革新共同戦線を提唱し結集させ推進していくにもっとも適役なのである。その自覚と力の発揮が求められる。

 共産党は、組織力は強大で議会勢力としても社民党を超えている。

 ただ、社会における政治的位置としては、共産党自身の自己規定や願望にもかかわらず、革新の政治的主流に立てる位置にはいない。日本社会の政治的な構造と意識の故である。

 しかも、その政治姿勢は「自己充足」型であって革新他党派との政治的共同には消極的である。今回の事態に直面しても共産党は「民主と政権協力ない」という態度である(志位和夫委員長のインタビュー発言、読売9月17日報道)。狭量で愚かとしか思えない、この姿勢からの転換をはかって革新共同戦線づくりの一翼を担うことを、現下の政治情勢は共産党に求めている。

 新社会党は、国会内勢力を今日ではなしえていない。しかし、革新の議会勢力であることは間違いない事実である。新社会党自身もそれを望んでいるはずである。そうであるならば、この「革新共同戦線づくり」の推進者としての役割を自覚的に担うことが期待される。

 民主党内の「革新派」勢力は、民主党内にあって民主党を全ての野党と共に「革新共同戦線づくり」と「民主党を軸とした全野党政権の樹立」に向わせることに自覚的に努めることが強く求められる。

 民主党が本当に「民主主義政党であるべき」ことを自覚するのであるならば、沈没しつつある自公政権にかわる「新しい政権」を、自公政権と五十歩百歩の「もう一つの保守政権」として樹立する道をとるのではなく、他の全ての野党とともに「革新の全野党政権の樹立をはかる道」をこそとるべきである。

 日本経済新聞9月15日によれば、鳩山由紀夫幹事長は14日の埼玉県の民主党会合で「少なくとも比較第一党に」と語っている。こんな程度の的外れで矮小で敗北主義的な願望に止まるのではなく、民主党は「革新の軸として全野党共同で新しい政権を樹立する」という壮大な展望をもって力強く前進すべきであろう。     (08年9月19日)