THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考116  脱アメリカの新しい日本への道    常岡雅雄


  米国への隷従日本からの脱却


  真の「戦後体制の清算」へ


 社民・共産・新社会・民主革新は自己作り変えを目指し

 革新共同戦線を練り上げ

 国政「第一極」へと登りあげよう


 無条件降伏という天皇制日本の完膚なき敗戦から60余年が流れた。

 その敗戦のとき、私は福岡の柳川でまだ5歳でしかなかった。その私も、我ながら信じられない気分だし、いつまでも変わらぬ幼稚さのままで年輪の感覚などもまったく湧かないのだが、すでに還暦の峠を8年もまえに曲ってしまっている。これから30年もすれば100歳の高峰に達する。その2040年までは無理かもしれない。しかし、その高峰に限りなく近いところまでは、私は生きていくであろう。或いは、もしかすれば運が強くて(恐らく「悪運」であろう!)、2040年より更に先の日本と人類世界の空気を暫くは吸うことができているかもしれない(CO2は半減しつつあるだろうか?)。


 「脱アメリカ」政治を頑固に追求する「真正革新」へ


 その私が今、一人の社会主義者として、日本の政治に望んでいることは何であろうか。

 このままの自公政権が続くことであろうか。或いは、近々のうちにありえそうだが、その自公政権を瓦解させて民主党が政権につくことであろうか。或いは、「第一極」の自公でもなく、「第二極」の民主でもない、「第三極」の勢力の形成であろうか。しかし、それらはいずれであろうとも、誰の眼にも五十歩百歩でしかない。規模が小さすぎる。次元が低く過ぎる。意味が古すぎる。

 新しい社会主義者としての私は「徹底民衆主義の道をゆく」者であり議会主義者ではない。

 しかし、議会主義の政治潮流が「存在する事実」とその「政治的な意味」を見落としてはならないと考える。そして、その議会主義の政治潮流のなかに「真正の革新」勢力が生まれてくることを願っている。その「真正の革新」勢力が国政における「第一極」の政治勢力となって、国政の進路を左右できるようになることを、私は徹底民衆主義の社会主義者として願っている。

 もちろん、私の云うこの「革新」勢力とは、自民党まがいの今日の民主党ではない。今日のままの共産党でもない。さらには、今のままの社民党でも新社会党でもない。それらそのままの、いずれでもない、まさに徹底した「人間主義と世界主義と地球主義」の心と意志と活動力をもった「真正」の「革新」でなければならないのである。

 では、その「真正」とは何か?

 その政治的核心は「脱米」である。すなわち「アメリカからの離脱」である。ここにこそ「革新」が「真正!」でありうるか否かの鍵がある。国家としての日本の進路を左右する国政レベルにおいて、進路を大きく方向転換させて「脱アメリカの政治」を頑固に追求しぬいていく意志と能力と熱情をもった政治勢力それこそが私の云う「真正革新」なのである。


 なぜ「脱アメリカ」なのか?


 では、なぜ「脱アメリカ」なのだろうか?

 今日の「国家としての日本」とは、一見、一人前の自立した国家であるかのように思い込まれている。支配者たちもブルジョア・メデイアも日々に国民にそのように思い込ませている。しかし、実際には、本当の意味での「自立した国家ではない」というところにこそ、敗戦後の日本国家の真実がある。ことさら「日米同盟」などと、あたかも日本が帝国アメリカと対等の「自立した主体性のある国家」であるかのように語り散らしているが、帝国アメリカ側は腹の底では「愚かな日本!」と嘲笑しているにちがいない。国家としての日本は実際には「主体性のある国家」ではない。しかも、それは単に「今日だけのこと」ではない。敗戦後60余年の歳月をつんできた戦後日本国家の全体が、その60余年のあいだ丸まる、国家としての「主体性を確立できず」に「アメリカへの隷従国家」=「隷米国家日本」でしかなかった。

例えば、「隷米日本」の核心的一例を確認して見よう。

 憲法とは、その国家を成立させる思想であり理念であり、そのようにして成立した国家の展望であり進路である。すなわち、憲法とは「国家成立の根源」であり「国家の最高規範」である。その最高規範としての憲法の中でも、「国家論」としては「憲法第9条」が決定的である。戦後日本国家の成立の根源と思想と理念を最高規範の主柱として一点に結晶させたものがこの「憲法第9条」である。この第9条は、国家の武装とその軍事力の行使にかんする日本国民の確認であり宣言であり決意なのである。

 ところで、有史以来の長い人類史上に様々に浮沈した諸々の国家の事実が示しているように、国家とは、国家が纏っている様々な形式や表装や擬装や偽装をめくりとってみるならば、究極に残るものは武装した力であり軍事力なのである。武装した力、軍事力こそが、厳然たる事実として、国家の究極の実体であり本質なのである。

 憲法第9条とは、この究極の「国家の実体」「国家の本質」である「軍事力」について「放棄するのだ!」という戦後日本国民の思いであり願いであり確認であり決意であり宣言であったのである。

 明治以降つみかさねてきたアジア太平洋への帝国主義政治と侵略戦争への反省と悔悟の思いをこめて、戦後日本の国民は「非武装戦争放棄」=「武装しない戦争しない」と決意し国家最高規範の憲法第9条を定めた。戦後日本の国民は、「武装しない国家」「戦争しない国家」=「非武装・戦争放棄の絶対平和主義国家」として、人類有史以来の諸国家に例のない大転換をはかったのである。

 人類史上の国家史と現実世界状況に照らせば、一見、理想主義的ではあるが、しかし、現実に天皇制日本として犯してきた帝国主義的犯罪についての国民的反省と新たな人間主義的決意をこめて新しい戦後国家の最高規範とした憲法第9条を定めたのであるここにこそ、戦後日本国家のもっとも核心的で人類史上に画期的な性格と特徴があったのである。人類国家史上に類稀なる特異性があったのである。

 それにもかかわらず、その戦後日本国家は、戦勝国アメリカの占領軍事支配と朝鮮戦争(アメリカの東西冷戦戦略の始動)によって、戦後日本は放棄したはずの国家武装に再びふみだした。事態の必然として、ついに軍事大国化し、さらには帝国アメリカの世界戦略の一翼として世界に展開する軍事国家となりはててしまっている。戦後日本国家を人類国家史上に類稀なる非武装国家として登場させた第9条は、戦後日本において完全に有名無実化したのである。

そうさせたものは何か?

 それは、天皇制日本にたいする帝国アメリカの完膚なきまでの軍事的勝利であった。無条件降伏日本にたいするアメリカ軍による軍事占領と軍事支配であった。アメリカの帝国主義としての軍事的な勝利と占領と支配のもとに組みしかれながら、戦後日本は、経済として社会としては復興と高度発展であったが、その実質は、帝国アメリカの「軍事力による支配」であり「帝国アメリカへの隷従の政治」だったのである。


 帝国アメリカの戦争勝利と軍事支配が

 戦後の「隷米日本」をつくった


 ひとたびは踏み出した、人類国家史上に類稀な「非武装戦争放棄」国家の道をその最高規範第9条を欺瞞的に存置させたまま踏み躙って、再び国家武装に踏み切り、軍事大国化の道にすすませたものは、何か。それは誰か?

 それはまさしく、帝国アメリカの敗戦国日本に対する軍事占領であり、その実質的継続としての安保条約による「米軍基地網」日本配置という事実上の軍事支配であった。敗戦後の新しい日本国家の存立の実体としての国家武装の問題も、思想や精神や文化の問題も、資本主義日本としての経済と社会の復活と発展の問題も、そして国内政治と国際政治の問題も、この帝国アメリカの軍事力に完敗してその軍事支配下に組み敷かれて「アメリカへの隷従国家」に成り果ててしまったというところにこそ、その究極の根源をおいているのである。

 一見まことしやかで耳障りのいい「日米同盟」などとは、実際には「日本を隷従させる帝国アメリカ」と「帝国アメリカに隷従する日本」という彼我の「支配と被支配の関係」を誤魔化し見えなくさせる政治的詐術にほかならない。日本を隷従させるアメリカの日本支配の術策的キーワードである。帝国アメリカに隷従する自分たちの敗北主義的で没主体的な政治姿勢を誤魔化して見えなくする、戦後日本体制派勢力と体制派マスコミの日本国民にたいする愚民化術語にほかならない。


 神がかりの傲慢で独善的で排外主義的なウルトラ民族主義と残虐な帝国主義的侵略戦争と植民地支配の必然的な帰結としての「天皇制日本の敗戦」から60余年そして「アメリカの日本」として覇権国家アメリカの軍事支配下にひたすら経済主義的に復興と発展を遂げてきた戦後60余年帝国アメリカの「ネオ新植民地主義支配下の日本」「帝国アメリカと日本ブルジョア支配への国民同意の体系」としての「民主主義」日本60余年帝国アメリカの世界支配の片割れとしてアジア太平洋と全世界にたいして常に身構えてこなければならなかった戦後60余年の孤独で哀れな欺瞞的「平和国家」日本もう、その敗戦後60余年の「アメリカの日本」という無残な実体をしっかりと自己確認すべきときではないだろうか。

 そこから自己否定的な決意をこめて離脱をはかるべきときではないだろうか。政治的にも思想的にも実践的にも本当の意味での「新しい日本」を創りあげていく道へと踏みきるべきときではないだろうか。人類国家史上に画期的で今日世界に輝かしい憲法9条の思想にたって創り変え苦難を覚悟で「脱アメリカの道」を歩きはじめるときではないだろうか。


 「脱アメリカ」とは何かその三つの方向


(一)第一には日米安保条約の破棄と在日米軍基地の完全撤去の達成をもって実現する「日米安保体制の克服」という「政治の問題」である。

(二)それだけではなく、第二には敗戦後に隷米日本として構築されてきた日本の「国家と社会の精神と思想と価値観と構造と体系」の「主体的な創り変え」をめざす「自立日本として自己変革の問題」である。

(三)そして更に、第三にはアジア太平洋と国際世界にたいして、ひたすら「隷米政治としてしか展開してこなかった」戦後日本国家の国際政治路線を「自立した主体的な反戦と国際貢献」の平和主義政治へと根本転換させる「国際政治の問題」なのである。


 天皇制主義者・帝国主義者・ブルジョアジーは侵略戦争に完敗して、それまでの「鬼畜米英」のウルトラ民族主義者・ウルトラ戦争主義者から一転して敗北主義者に転落した。勝者アメリカに隷従して恥としない敗北主義者に成り果てた彼らが、敗戦後の日本を主導し、帝国アメリカへの隷従国家として戦後日本を築き挙げてきた。その精神構造は力による勝者への卑屈で哀れな敗北主義であり、人間としての主体性の喪失であった。

 彼らに支配される労働者・民衆としての私たちは、この敗北主義と隷従根性を清算して、人間として主体性のある「真の人間主義」に立たなければならない。真の人間性を獲得し築き上げていかなければならない。

 敗戦後60年余をかさねてきたにせよ、今日の日本のすべて問題性の根は、敗戦に起因している。アメリカ軍事力のまえに喫した完膚なきまでの軍事的敗北と政治的精神的な敗北感に陥りながら、勝者アメリカの軍事的日本支配と政治的バックアップによって戦後日本の権力を握り、戦後日本を築きあげてきた戦後日本の保守勢力それこそが、「帝国アメリカにひたすら隷従する戦後日本」を築きあげてきたのである。憲法違反の米軍基地、憲法違反の再武装、憲法違反の戦争協力これらは全てが、その根源は、物質的には「勝者アメリカの軍事力」にあり、精神的には「敗者=日本支配階級の敗北主義と主体性喪失」にある。

 更に、自然環境の破壊、農業崩壊、新しい貧困、格差社会、官僚主義、企業腐敗をはじめとして、日本社会がいよいよ深刻化させていく経済的・社会的・精神的な破壊と腐敗と危機は、この敗北主義勢力が「隷米主義の価値観と路線」をもって「戦後日本の復興と発展をリードしてきた」からにほかならない。


 隷米日本の根源を絶つ―開ける雄大な眺望


 したがって、真の意味での「新しい日本」の道をひらいてゆくためには、(イ)これら構造的諸問題の根源を絶たなければならない。(ロ)その「根源を絶つ」ことにむかっていく過程は、同時に、目的意識的に「変革を積みかさねていく」過程であり、その「根源を絶つ」ことに達するために政治的社会的に主体的条件を形成し成熟させていく過程でもある。(ハ)そして、その「根源を絶つ」ことに政治的に到達した地平から、今度は、政治的にも社会的にも経済的にも精神的にも新たな全面的変革へとむかっていくのである。すなわち、敗戦後の今日までの隷米日本から一変した「新しい日本の建設」に創造的に前進していくのである。

その根源とは何か。

 それは帝国アメリカの暴力装置であり侵略装置であるアメリカ軍事力の日本存在である。この根源一点を私たち日本の政治が突破することに成功したならばそのとき、日本の前面にはこれまでの隷米日本とは全く違った新しい眺望が大きくひらけてくるであろう。「新しい生命力に溢れた日本」「アジア太平洋・世界に貢献する日本」「アジア太平洋・世界に信頼される日本」「東アジアの諸国家・諸民族とともに本当の意味での東アジア共同体を築いていくことのできる日本」「朝鮮民族=韓民族の統一の回復と朝鮮半島=韓半島の平和の実現に本当の意味で尽くすことのできる日本」という雄大な眺望がひらけてくるであろう。


 「脱アメリカ」は「反アメリカ」ではない

 「脱アメリカ」こそ「真のアメリカ友好」


 もちろん、私の云う「脱アメリカ」とは「反アメリカ」ではない。国家としての日本が「アメリカに敵対する反米国家になる」ことではない。日本人が反米主義者になることではない。「脱アメリカ」とは「アメリカの問題」ではなく、「日本の自身の問題」であり、日本の「国家と国民の主体性の問題」である。

 日本が「アメリカへの隷従」という「没主体的な隷従」関係から脱却して「アメリカとの関係を主体的にとりうる道」に立つことであるから、「脱アメリカ」とは、それが私の云う意味であるならば、それこそ「アメリカとの真の友好の道」に立つことなのである。敗戦後日本は、アメリカに「隷従する」ことによって、すなわち「アメリカの帝国主義や覇権主義の側に身を寄せて振舞う」ことによって、実際には「アメリカを害してきた」のである。「脱アメリカの道」をとることによってこそ日本がアメリカにたいして本当の意味での「友好日本になる」ことができるのである。


 「脱アメリカ」こそが真の「人類国家」への一里塚


 「脱アメリカ」こそが、日本がアジアにおいて、太平洋において、全世界において、自立した主体的国家として、憲法どおりの平和国家として、信頼されて、建設的な役割をはたして行くことのできる道である。隣の「朝鮮・韓国」にたいしても、これまでの悪質な差別者・妨害者・敵対者という恥ずべき日本から脱却して、本当の意味で「平和と自由と統一のために貢献する日本」へとなることができるのである。それこそが、真の意味での「日朝友好・日韓友好の道」なのである。欺瞞的な「日米同盟」の名のもとにアメリカに隷従することによって、敗戦後日本は、アジア太平洋に敵対し、世界に敵対しつづけてきた。その恥ずべき道から「脱アメリカ」を遂げることによって、日本は、真の意味での「アジア国家」、真の意味での「太平洋国家」、真の意味での「世界国家」、真の意味での「人類国家」「地球国家」へと自己変革を遂げていかなければならない。


 「脱アメリカ」の峰にどこから登ってゆくのか


 この政治的高峰にむかって、今、実際には、現実的には、どこから登っていけばいいのであろうか。国政領域で政治展開をおこなう議会政党である社民党・共産党・新社会党、さらには民主党内革新派まずは、この議会政治勢力「革新四者」が「帝国アメリカの軍事支配からの日本の解放」(その日米政治上の実際的で核心的な環は「日米安保条約の破棄」である)の一点において政治的共同戦線を組んで「国政における第一極」への浮上をめざして提携共同を強化しながら前進していくことである。自公連立の分解、自民の派閥抗争、民主の分解、政界再編成など「アメリカ隷従日本」の政治舞台のうえでの保守政治劇に見とれたり、期待を寄せたり、右往左往したりするようなブルジョア政治の次元をこえて、創成すべき「新しい日本」=「脱アメリカ日本」のために「為すべきことを為すべき」であろう。国政「第一極」をになう「真正革新」勢力の形成にむかって「革新四者」の共同戦線の形成こそが、革新政治家たちが議会政治家としての存在をかけて、いま為すべきことである。

 日本の自覚した人々は民衆運動の様々の領域において、事実上であれ意識的であれ、この「脱アメリカの道」にたち「脱アメリカの日本」実現をめざしつづけている。近くを見れば、例えば、沖縄の人々が不屈に展開しつづけている辺野古闘争がそうである。9条ウォークと9条世界会議がそうである。米原子力空母の母港化に反対する闘いがそうである。厚木・岩国・座間・相模原をはじめとした民衆の反基地闘争がそうである。こうした様々な民衆闘争の向っている方向は、まさしく「アメリカ隷従からの脱却」であり「脱アメリカ」なのである。


 民衆闘争と国政闘争が両輪をなして第一極へ


 そうであるならば、国のあり方を左右する「国政の場」において、この「脱アメリカ」政治を追求しつづける「真の意味での革新共同戦線」が実現して、それが国政「第一極」となる道を追求することは、これからの日本政治において「新しい脱米日本」を切りひらいてゆくために「決定的で不可欠の環」をなすのである。

 まずは、社民党・共産党・新社会党、そして民主党内革新派といった国政上の革新諸党派が、戦後60余年の隷米日本の根本変革にむかうのだという雄大な抱負と決意にたって、唯我独尊やセクト主義や姑息な議員根性がそのためには有害であることを自覚して、国政上に「壮大な革新共同戦線」を実現していく道に立つべきであろう。この「国政領域での議会政党政派の実践」と「民衆運動領域での自覚した民衆運動家たちの実践」とが不可分の両輪をなして、この敗戦後60余年続いてきた「アメリカ隷従日本の根本変革」=「脱アメリカ」へと向かってゆくことが出来なければならない。

                         (08・07・25)