THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考184地球社会主義の道人民の力代表 常岡雅雄


●「新しい社会主義」の道—変質する「旧社会主義」を越えて

●「真正社会主義」の「決意と熱」—資本主義にまどわされず

●「地球社会主義」の道—「新しい帝国主義」にだまされず

まず「自分自身」から


 第一次世界大戦から—わずかに一〇〇年


 第一次世界大戦が一九一四年に勃発してから、二〇一四年の今年で、ちょうど一〇〇年の歳月が流れました。この間に、二つ目の世界大戦である第二次世界大戦もありました。ロシア社会主義革命もありました。人類史上初めての原水爆の使用もありました。旧植民地諸国の独立と民族解放闘争の前進もありました。民族解放と社会主義をめざす中国革命もキューバ革命もありました。ベトナムの民族解放闘争の勝利もありました。革命ロシア(ソ連)を中心に社会主義の世界体制が成立して資本主義(西)と社会主義(東)との世界的対決の世界となりました。その東西対決の熱火の焦点として朝鮮戦争がありました。ソ連はほどなく崩壊して社会主義体制も滅亡しました。

 一つひとつ挙げればきりがありませんが、第一次世界大戦の勃発した一九一四年から、「二十一世紀初頭の今年=二〇一四年」までの「一〇〇年間」とは、僅か一〇〇年間ではあっても、その広がりと言え、その深さと深刻さと言え、その悲劇性と残虐性と言え、その発展と崩壊と言え、人類史上にかってない「激動と波乱と無惨と残酷な一世紀」でありました。


 新しい帝国主義に対決する地球社会主義の時代


 この人類世界史上に未曾有の「激動と波乱」と「無残と残酷」の「世紀(20世紀)」とは「第一次の帝国主義の時代」でありましたが、「これからの21世紀」は、新しく台頭した新しい帝国主義諸国が参入した「新しい帝国主義(第二次の帝国主義)の時代」としてドラスチックに明けてゆきつつあります。


 この「新しい帝国主義=第二次帝国主義の時代」とは真逆の立場からとらえれば「地球社会主義の時代」なのであります。私たち社会主義者が「帝国主義を許さず資本主義の根本変革(革命)をめざす社会主義者」としての「歴史観と価値観と主体意志と決意」をこめて「時代規定する」ならば—それは「地球社会主義の時代」と「しなければならない」であります。

 この「地球社会主義」とは—(一)「なぜそうなのか?」「なぜそうでなければならないのか?」という歴史的人類的総括や、(二)具体的に詳しくは「どのようなものでなければならないのか?」という点については本誌三月一日号の巻頭言(社会主義考183)」で語りましたので、ここでは、もう繰り返しません。


 人類史上に初めての—地球社会主義の道


 この「21世紀以降の新しい社会主義」である「地球社会主義の道」とは—それは近代世界史上において「初めての探求」にほかなりません—それは社会主義の思想と世界観と実践が人類世界に登場していらい経験のない「初めての道」にほかなりません。「想像を絶する未曾有の難路である!」ことを私たちが覚悟しなければならないのは当然であります。その「未曾有の難路」をきり拓いてゆくのに、これからの私たちは「まず何を覚悟」しなければならないのでしょうか?—私は、その「難路」を切り拓く「源基的な覚悟と実践」について、前号「社会主義考183の冒頭大見出し」で〈「自分自身」と「自分と隣人との場」から〉と「云い切り」ました。

 すなわち、「地球社会主義」という、まさに「地球規模の巨大な課題」ではあっても、それを「地球規模」という「一人ひとりの人間」としては〈掴みどころのない「巨大な広がりや高さや深み」〉のなかに「霧散霧消させてしまう」のではなく—そうではなくて、「源基的な実体」のハッキリとした(一)「自分自身」と(二)その「自分自身」と「隣人」との「場」というように「はっきりと具体的に明確化させた」のであります。まさに、「覚悟」を自分から無限の距離をおいた「抽象的な概念」としてではなく〈「自分自身」の「覚悟」〉というように〈「覚悟」の「主体化」〉をはかったのであります。

 〈21世紀以降の「地球社会主義」〉とは—それは(一)〈「自分自身」の問題〉であり、(二)〈「自分と隣人との場」の問題〉なのだと、〈未曾有の「地球社会主義の難路」の「探求主体」〉をハッキリと「自分自身に特定」し、そこから「始めなければならないのだ」と「一分の曖昧さも残さない」ように明言したのであります。「逃げ場のないところに自分自身を立たせた」のであります。


 「地球社会主義」とは—「自分自身」の問題


 「地球社会主義」とは、〈「自分自身が行う」ことが「問われない」ような「単なるスローガンや垂れ幕や横断幕の問題」〉ではありません。「地球」という〈「ひとりの一個人」としては直接には「掴みどころのない広がりや高さや深み」の問題〉でもありません。

問題は〈まさに「自分自身」の問題〉として〈「一分の曖昧さ」も「一ミリの逃げ場」もない「鋭さと重さで提起されている」〉のであります。

 なぜなら—〈「20世紀の古い社会主義」が「衰亡と変質」〉をとげてしまった「今日の21世紀初頭の人類世界」には「帝国主義を許さず帝国主義に対決し資本主義の根本変革(革命)をめざす「真正なる社会主義」〉は〈「自覚した自分自身」しか「存在しない」〉からであります。

 その「自分自身」が「これからの21世紀以降の人類世界」において〈「地球社会主義者」にふさわしくある〉=〈「真正なる社会主義者」に値する社会主義者でありうる〉ためには〈まず「何が求められる」〉のでありましょうか。

 それは最低でも〈「明治以降の近代日本」=「天皇主義的資本主義日本」が朝鮮・中国台湾・フィリピンはじめの「アジア太平洋」地域で犯した「侵略と戦争と植民地支配と人間的暴虐と収奪と破壊」などの「無数の反人間的・反社会的・反地球的な犯罪」を「事実通り」に「誠実に理解」し「心からの反省と謝罪を行う」ことのできる人間になる〉ことではないでしょうか。

曖昧にしてはならない大事な要点を簡単に幾つか列挙してみましょう。

(一)〈「天皇絶対主義者」として「神懸かり人間」に「人間的に再び堕落」〉しても「アジア太平洋」の人びとが歓迎するはずがありません。

(二)〈「日本」という「国家や国や民族や郷土」などに「こだわった生き方」〉をしても「アジア太平洋」はもちろん「人類世界中に災いをもたらす」だけであります。

(三)〈「科学技術的にも社会構造的」にも「高度に発展した近代国家日本」をひけらかしても「アジア太平洋」はもちろん「人類世界中の人びと」に「敬意や好意をもたれる」ことにはならないでしょう。〉

(四)〈「資本主義大国日本の威力」で世界中をブルドーザーのように駆けまわっても「アジア太平洋はじめ世界中の人びと」には「怨嗟と反発しかもたらさない」ことは確かであります〉

(五)〈「日米同盟」「集団的自衛権」「積極的平和主義」などの耳障りのいい政治用語をどんなにふり撒こう〉とも〈「日本という国家」が「アメリカ帝国主義に政治的にも軍事的に社会文化的にも隷属」した「隷米国家=隷米日本でしかない」〉し〈「その「隷米日本」としての「アメリカ帝国主義に隷従する政治」しかおこなえない〉ことは「アジア太平洋はじめ世界中の人びと」の「常識となっている」ことであります。


 問題は誰でもない—「自分自身!」だ!


 そうであればこそ、「21世紀以降の人類世界」に「その道しかない地球社会主義の道」はどんなに厳しくとも、どんなに「辛く延々たる難路」であろうとも、その「実際の思想と決意と行い」の問題を「スローガンや垂れ幕で済ます」ことも「荒漠たる地球一般にすり替えてしまう」ことも、私たち「新しい社会主義者=地球社会主義者=真正社会主義者」には「ありえないこと」であります。

 すなわち自分自身を問う—〈①「自分自身」と②「自分と隣人との場」〉という〈「源基的な場」から始める「覚悟を決めなければならない」〉のであります。

どんな微弱であろうとも、「たった一人」であろうとも、その「自分自身」なくしては、「新しい社会主義」も「地球社会主義」も「真正社会主義」もありえません。

(二〇一四年三月二〇日)