THE  POWER  OF  PEOPLE

 

アジア太平洋民衆連帯(SAPP)代表 後藤正次


「自分を欺かない」ことを貫いた二つの判決

理性とヒューマニズムの「行い」を支え広めよう


 「具体的危険性が万が一でもあれば差し止めが認められるのは当然」と、去る5月21日、福井地裁(樋口英明裁判長)が福井県大飯原発の再稼働を認めない判決を下した。

各電力会社や原発推進派は、「福井地裁のような理由をあげれば全ての原発は動かせなくなる」と強く反発しているが、まさに判決は関西電力の主張をことごとく退け、「全ての原発は動かしてはならない」と結論付けているに等しいものであった。

 「大飯原発」という「個」が「危険だから再稼働をさせない」というものではなく、人間が生きていくために最も重要なものは「人格権」であり、その「人格権が侵害される恐れがある場合はその侵害行為の差し止めを請求できる」と述べ、全国で再稼働を申請している全ての原発に「待った」をかけたといってもよい判決であった。

 その福井地裁判決の2ヶ月前の3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)が1966年に静岡県で起きた一家4人の殺害放火事件で、死刑が確定していた袴田巌さんの再審開始を認める決定をした。判決は「証拠は捏造された」と断定し、「証拠を捏造する必要と能力を有するのはおそらく捜査機関のほかにない」と警察・検察を痛烈に批判し、「国家機関が無実の人を陥れ、45年以上拘束し続けたのであり到底耐えがたい」と司法として自らの反省も表明した。そして、「これ以上、拘置を続けるのは耐えがたいほど正義に反する」として同日に袴田巌さんを釈放した。

 この二つの地裁判決を下した裁判官は、「自分は自分を欺くまい」と懸命に格闘したのではないか・・と、私は頭が下がる思いを抱く。人間として理性とヒューマニズムの観点から必死に思いを巡らせたのではないかと思う。思考しただけでなく、その思いを「自己保身」よりも優先させるという「行い」に打って出たことに敬意を覚える。


懸命な格闘の上に導き出された福井地裁と静岡地裁の判決


 福島第1原発事故以来、原発推進派・各電力会社は「電力不足」を煽り「コスト高による電気料の値上げ」で恫喝を加え、新たな原子力規制委員会を設置し、その「世界一厳しい新規制基準を満たせば再稼働は可能だ」と新たな安全神話づくりを進め、「世界も認める安全な日本の原発」を描き出そうと首相自らがセールに行脚して、原発推進へと躍起にあがいている。

 そう動いているのは、この日本を牛耳っている財界であり、その手先になっている政府・官僚であり、国家機関が総力を挙げている実態にあるのは誰の目にも明らかである。

そうしたことは百も承知で、福井地裁の樋口裁判長は「電力を生み出すために原発を稼働することは経済活動として自由であるが、それによって人が生命を守り生活を維持する人格権が侵されてはならない。この根源的な権利が極めて広範囲に奪われる可能性があるのは、自然災害や戦争以外では原発事故の他は想定しにくい。それは福島原発事故で明らかになった。こうした人格権が侵害される具体的危険が万が一でもある場合は差し止めが認められる(筆者意訳)」と述べ、「福島原発事故後に、この判断を避けることは裁判所に課せられた最も重要な責務を放棄するのに等しい」とまで言い切ったのである。

 まさに、支配する者たちや権力におもねることなく、事故から3年も過ぎても約13万人という途方もない数の人々が避難生活を強いられ帰還のめども立たない現実に目線をおいた判決であった。

 袴田事件において見るならば、1980年の最高裁の「判決訂正申し立て棄却」によって袴田巌さんの死刑が確定され、再審請求も2008年に最高裁によって棄却されている。いうなれば司法の手順通り地裁から最高裁まで審理され、再審請求も司法の頂点の最高裁で一度は棄却されているものである。自分の属する「司法」の先輩諸氏が審理を尽くした結果として「死刑」が確定しているという絵が描かれているというものであった。

にもかかわらず、再審請求審では「証拠が検察の捏造でないというならば反論の証拠を開示したらどうか」と裁判長が検察側に証拠開示を求め、その結果DNA鑑定によって動かしがたい「証拠の捏造」が明らかになったのである。そして「その捏造は警察の他にない」ことを指摘し、その捏造によって死刑判決を確定してしまった司法としての悔みも明らかにしたのである。


組織に「私」を埋もれさせない心を


 この二つの裁判とは対照的で国労組合員にとっては忘れられない判決が16年前の1998年5月28日にあった。国鉄分割民営化時の採用差別事件である。

 東京地裁の民事11部は、全国の地方・中央労働委員会が「採用差別」という不当労働行為を認定し、その是正を勧告しているにもかかわらず、「国鉄とJRは実質的同一性があるか疑問である」と言いつくろい、JRの使用者性を否定して「不当労働行為があってもその責任はJRに及ばない」と結論付けたのである。

 それはまさに「国労をつぶし総評をつぶす」という、時の中曽根政権の意向に全面的に沿うものであり、「国労組合員であった」という理由だけでJRに採用されずに、清算事業団からも解雇されて8年も経つ1047名の国鉄労働者とその家族の苦しみに目線を置いたものでは決してなかった。そして社会正義を貫くという司法としての任務を全うしようという気概などは微塵たりとも感じられないものであった。

 福井と静岡の両地裁の二つの判決は、その東京地裁の「採用差別事件」とは対極にあり、両裁判長は「自分を欺くまい」と格闘し、虐げられた人や人々に目線を置いた結論を導き出した。

 そしてそれと同時に、「自分を欺いてしまいがちな曖昧模糊とした『組織』という概念で、ものごとをごまかしてしまわず、あくまでも『私』として責任を持って考え抜こう」ということを教えた。二つの判決はそうした「自立した私」こそが重要なのだということを示しているのではないだろうか

 組織の内にいる人間が、「自分はその責任を問われることはないだろう。万が一責任を問われることになっても『組織』が問われるのであり、自分もその一員ではあるが、『私』への責任は薄まるだろう、いや、問われないかもしれない」などという漠然とした都合の良い思いで、自分をごまかすということは多々ある。少なくとも残念ながら私にはある。

 社会にもそれはよく見られる。古くは第2次大戦の敗戦時に、大量の軍関係資料を焼却し埋め尽くした行為、国鉄分割民営化時に不当労働行為を働いてまで国労組合員を採用させるなと指令した人間、その行為を現場で実際に行った者、107人もの犠牲者を出してしまったJR尼崎事故の最大の要因を作った日勤業務という恐怖支配を指導した者、人間の能力では制御できずその廃棄物も処理することができないことを知りながら原発を推し進めている者、罪なき人を犯罪者に仕立て上げるという卑劣な行為を国家権力の名のもとに行った者・・・等々は全てそこに「私」はいなかったし、いないのではないだろうか。自分をごまかしてそれらの行為を行っているのではないだろうか。

 「組織」という概念の中に「私」を溶け込ませてごまかすからこそ「理性とヒューマニズム」をないがしろにする「心」が生まれる。「理性とヒューマニズム」を根本にして生きたいと願うなら、常に「私」を見つめ、問いていかなければならない。二つの判決はそれを教えている気がしてならない。


「理性とヒューマニズムの行い」に共鳴しよう


 福井地裁の樋口裁判長や静岡両地裁の村山裁判長の「格闘」と「行い」は、当然にも「理性とヒューマニズム」にもとづいた「私」を貫こうという強い意志があってこそのものであるが、それを貫かせる社会の声という「支え」もあったことも確かであろうと思う。福島原発事故後の2012年1月に、最高裁は各地の裁判官を集めて、原発訴訟をテーマに特別研究会を開いた。そこでは「国の手続きの適否を中心とした従来の審理にとどまらず、安全性を本格的に審理しよう」という論が相次いで出された。手続きに齟齬がなければ原発を認めるという姿勢から抜け出ようという論は、何よりも福島の惨劇がその背景にあるが、全国で原発の非人間性を告発して「脱原発・反原発」を闘いぬいている人々の声が、それを後押ししていることは間違いない。

 そして、全国で国家の犯罪としての冤罪事件を、当該者を支援しながら闘い続けている人々の声が静岡地裁に届いていたことも明らかである。近年いくつもの事件が支援者の不屈の努力で冤罪が証明されてきている。

 そうした「理性とヒューマニズム」にもとづく社会の声を作ろうとしている人々と共鳴し合い、その声を大きくしていきたい。それが「私」を欺かずに生きるための道に通ずる。