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社会主義考161悠々社会主義の心(二)常岡雅雄



許してはならない—隷米根性の石原都知事の火遊び


新しい帝国主義世界に

理性的に生き抜くべき社会主義者



「虎の威」を借る石原東京都知事の軽薄な「火遊び」


 石原慎太郎東京都知事は、さる16日(日本時間17日未明)訪問先・アメリカの保守系シンクタンク「ヘリテージ財団」での講演で「尖閣諸島」を「東京都として購入する」方針を明らかにした。

 その状況を、18日の朝日新聞は次のように伝えている—〈「東京都はあの尖閣諸島を買います。」石原知事が語ったのは保守系の米シンクタンク「ヘリテージ財団」での講演。約100人を前に「日本も核のシミュレーションをするべきだ」などと約45分、持論を展開。最後の5分間で突然、尖閣諸島の購入計画を明らかにした。知事周辺によると、所有者との合意は、昨年末にほぼまとまっていた。しかし、所有者は島を国に賃貸しており、今年度は賃貸を更新する意向だったため、知事は更新手続きを待ってからの公表を検討。タイミングを探っていたところ、今回の講演依頼がきた。「財団のシンポジウムを公表の場に選んだのは、財団が対中強硬派で発信力もあるからだ。『同盟国アメリカの後押しもあるぞ』とアピールできれば日本政府への外圧にもなり、動かすことにつながる」。知事側近は語る。〉

 同日の読売新聞も次のように背景を説明する—〈「今の政府の姿勢では(尖閣諸島は)危ない」「東京が守る」。石原知事は講演の中で、国境付近の島を巡る民主党政権の対応を痛烈に批判した。2010年に起きた中国漁船による海上保安庁の巡視船への衝突事件でも、石原知事は船長を処分保留で釈放し中国へ送還した政府の対応に、「よほどのことをしないと尖閣は守り切れない」と強い危機感を募らせていた。知事周辺によると、今回の計画は、日本政府に強烈なメッセージとして伝わるよう、ワシントン出張に会わせてごく一部の人間だけに極秘裏に進めてきた。石原知事と埼玉県に住む所有者との橋渡しをした山東昭子参院議員(自民)は、「都が所有することで国を守る、島を守ることを示した」と歓迎する。〉

 21世紀の世界は「新しい帝国主義」の時代だ。「帝国主義の時代」は、二つの世界大戦を経験した20世紀で終わったのではない。「新しい構造と様相」をもって「新しい帝国主義の時代」へと人類世界は踏み込みつつある。「ドン詰まりの太平洋覇権に苦悶する帝国アメリカ」と、あたかも「日出る国=中国」との対抗関係の泥沼的深刻化に典型的な21世紀「新しい帝国主義」時代の「火遊び」に、頭も精神も古色蒼然たる石原都知事はおどろおどろしく迷い出てきたのである。小心なアメリカ隷従主義者(隷米根性)でしかない石原東京都知事の「虎の威」を借りた、軽薄な「火遊び」などに、「理性とヒューマニズムの悠々社会主義者」が惑わされるはずがない。


尖閣問題—一昨年秋の「社会主義考」を振返る


 ところで、この「尖閣諸島(中国名「釣魚島」)」事件で逮捕拘留中であった中国船船長を沖縄の那覇地方検察庁が「処分保留する」と決定した一昨年(2010年)秋、その決定の瞬間(9月24日)に、私は、「中国人船長の釈放」は「今、必要な政治判断」と前向き評価して、本誌2010年10月1日号(928号)の「巻頭言—社会主義考142」をもって〈危機をはらむ「尖閣諸島=釣魚島」問題〉〈「脱国家」世界への全人類的道=類的正道に立って—領土紛争地帯を超国家的な共同管理へ〉と説いた。

 そこにおいて、「日中双方が譲らない」「固有の領土」論にたいし私の見解を次のように述べた。

 〈日本政府の見解を概括すれば次のようになる—尖閣諸島は元々「無人島」であった。中国(当時は清国)の主権も及んでいなかった。したがって、「日清戦争の勝利」をもって日本政府が尖閣諸島を日本の領土とした。しかも戦後の国際関係も、例えば1950年のサンフランシスコ条約も1971年の「沖縄返還」協定も、尖閣諸島=釣魚島を中国領土として扱っていない。むしろ、当時のアメリカの「軍事占領と施政権」下にあったにしても、本来日本国の構成部分である沖縄に所属する諸島として扱っている。これに対して、中国側は、近代的な日中関係や国際関係のなかで「尖閣諸島=釣魚島の中国領有」を根拠付けることはできていないようであるが、中国の古文献などに尖閣諸島=釣魚島のことが記載されていることを「中国に固有の領土」の根拠にしているようである。そして、中国が「釣魚島は中国固有の領土」を国際社会に公然と協調しはじめたのは、「尖閣諸島=釣魚島」海域に膨大な埋蔵資源のあることが明らかにされた1960年代末からである。すなわち、国連のアジア極東経済委員会が行った海底調査の結果として、この海域に膨大な海底資源の眠っていることが1969年に明らかになったからである。この国連調査報告を契機として、尖閣諸島=釣魚島をめぐる日中間の領土紛争は表面化し激化してゆくことになる。〉


「愚の骨頂」でしかない「領土問題」


 その上で、私は、〈「愚の骨頂」としての領土問題〉として、「領土問題」について、私なりの「理性的な態度」をもって次のように語った。

 〈そもそも「領土」問題ほど人類世界において「愚かな問題」はない。人類世界には歴史的にも今日的にも無数の愚かなことがある。それらの中でも「最たるもの」が「領土」問題である。人類は自分自身の生成と発展の過程で「領土」問題を発生させ抱え込んだまま今日に至っている。その根本的な打開の思想も方策も構造も生みだすことができていない。あたかも「領土」とは「人類発生いらい存在」してきて「人類が存続するかぎり存在」しつづけていく「人類に固有で不変の問題」であるかのように信じ込んだままである。そして、その「領土」をめぐって憎みあい争いあい破壊しあい殺しあってきた。まさに、領土問題とは「愚の骨頂」そのものである。〉

 〈国家とは、人類史上に原初的なものでもなければ、今後さらに永遠に存続するものでもない。国家とは、人類の形成発展の或る時期に発生して発展してきたものであり、そして、これからのいずれかの時期には消滅して存在しなくなっていくものである。国家とは人類世界に「原初的な存在」でも「永遠の存在」でもない。幾百万年の人類史の尺度で見るならば、国家とは「一瞬の存在」でしかない。これからも永続し続けて行く人類史上の「過渡的な存在」でしかない。〉

〈 国家はその本質を、暴力として登場しながら人類世界に必然的に登場してきた。即ち、「人類史上に必然の存在」であった。したがって、今日直ちに国家をなくすことはできない。また、国家は未だ無くなりはしない。〉〈国家はその本質を、暴力として登場し、暴力として存在しているが、人類が今日までに登場させた社会関係のなかでは、もっとも「合理的な社会関係」である。国家は本質的に暴力でありながらも、人類の英知(先覚的な人士たちの辛苦の努力と苦難の闘いなのであるが)は、国家を合理的な社会関係として構成し発展させようとしてきた。そうであればこそ、今日の人類の英知は、その「必然的存在としての国家」の「国家間−関係」をより「合理的に構築し展開してゆく」ところの「理性的な政治」に努めなければならない。〉

 〈この「理性的な政治」のもっとも問われるところ—それが「領土問題」である。「領土と領土」が、ぶつかり合い、錯綜しあっているような、関係国家相互間において「領有」が「不明なところ」—即ち、相接する諸国家間で「領有」主張の「対立しあう」ところについては、それらの国家がお互いに「譲り合う」政治を行うべきである。〉


「領土紛争」地帯を「超国家的な共同管理」へ


 このように「国家」の意味を述べたうえで、私は、〈領土紛争地帯を「超国家地帯として共同管理」へ〉と、関係国家間の「理性的な心と姿勢と対処」を、次のように説いた。

 〈その領土問題における「国家間—譲歩政治」の具体的あり方として、もっとも合理的には何が構想できるであろうか—それを私が考えるならば、それは、「当該の地帯」を関係諸国家」が「国家と民族」を超えた「超国家地帯」化して「共同管理を行う」ことである。もちろん、その「超国家地帯における共同管理」は資源収奪型でも利潤追求主義でもなく「平和と協調と共存共栄と人間福祉と環境保全」を基調とした「共同管理」であるべきである。〉


理性とヒューマニズム、そして共生(共存・協調)


 未だ経験したことのない「新しい帝国主義」世界へと、21世紀人類世界は急激に転形していきつつある。「小心な隷米主義者」でしかない石原東京都知事の軽薄な「火遊び」は、この転形過程に無数に噴き出す泡(あぶく)の一種でしかない。

 私たちの「悠々社会主義の心」とは、この転形過程を「前向き」に切り拓いていく「全人類的な心」でなければならない。即ち、「その心」とは、具体的には「理性とヒューマニズと共生(共存・協調)」の精神に他ならない。

(2012・4・21)