THE  POWER  OF  PEOPLE

 

宿命的な資本主義の危機 樋越 忍


 我々を待ち受ける未曾有な困難


 労働者は新たな世界を創造すべきだ


        一

 昨年の秋以来、世界的な規模で急激に進んだ労働者解雇の実態は、年末年始を通して絶え間なく報道され続けた。次々と強行される派遣切り、そして派遣村の設営、又いたるところで開かれた解雇や貧困構造を糾弾する集会、春闘にあわせて取りざたされた「ワーキング・シェア」の検討、加えて後期高齢者医療制度の導入、年金問題に現れた国家の無責任な浪費構造など、社会は貧困をキーワードにして誰もが未来に危機感を持った。

 おおよそ半年にわたる熱くセンセーショナルな報道も、五月のメーデーを過ぎたいま、嘘だったかのように影を潜めて語られなくなってしまった。しかしマスコミの報道が下火になってきたことは雇用問題も底をうち、安定化の方向に向かったのではない。派遣期間の三年を迎えたいわゆる「九年度問題」は確実に訪れ、失業者の数は百三十万人を超えたといわれている。

        二

 この大量に生み出された失業者たちに、明るい未来を保障することができるのだろうか。政府が決めた雇用対策は、①解雇を避けワークシェアリングの導入に踏み切った企業へ、非正規雇用労働者一人当たり二十万〜四十五万円の補助、②派遣期間途中で解約した企業に損害賠償の義務を、③緊急人材育成基金の創設、④職業訓練を受けている労働者への生活資金十万円の給付、等で総額一兆六千億円だといわれている。しかし、これらの施策のいずれも「解雇されたいま」の瞬間的な応急手当でしかなく、未来に繋がる施策といえるものではない。昨年秋に政府がいっていた「アメリカ発の恐慌被害は日本の場合そんなに深くない」、しばらく我慢していれば景気は回復する、とでも言わんばかりの場当たり施策である。だがこんな施策しか与えられない労働者たちの実感覚は想像を超えるほど深刻である。

 特に外国人労働者の状況は「こんなことがあって良いのか」と誰もが声をあげるものだ。日系ブラジル人労働者たちは、日本人のブラジル移民百年を機会として、「経済大国日本へ」という宣伝に乗せられ大挙して日本に渡ってきた。そのための機関が現地では作られたという。しかし、いまや真っ先に解雇され、やむなく祖国に帰るのならその費用は支給されるが再び日本へくることはできないというのだ。つまり、「国に帰りたければ帰る金はやるから、日本にはもう来るな」と追い出し始めたのだ。

 昨秋以前、少子高齢化という深刻な労働力不足の中で、その代替労働者としてアジア各国をはじめ、途上国の労働者をかき集めるようにして日本に引き込んできた国が、今では手のひらを返すように「金をやるから帰れ、もう日本へは来るな」と、追い出す政策に転換してしまうのだ。こんなことを平然と行う国を誰が信頼するだろう。むしろ途上国にすれば「貴重な国民を浮いた言葉で連れ去り、都合が悪くなったらわずかな追い銭で帰れという」国は、人買いではないかと思うのが普通である。残念だが、我々はそんな人買いをする国の国民なのだ。責任の重さに打たれる。

         三

 一方で、企業に対する政府の施策もよく見ると大企業に向かって行われようとしているのだ。その一つの例が「産業再生特別措置法」。

 だが、簡潔にこの仕組み、目的をいえば業績が悪化した企業(ただし従業員の数が五千人以上に制限)が、再建計画を出し、認められれば融資を受ける資格のある企業に指定され、もし再建できなければその損失は八十パーセントまで政府が埋める、という施策なのだ。企業規模の分布をみるまでもなく日本の場合、五千人以上の従業員を持つ大企業の比率は全企業の内一割にも満たない。政府の思惑は「五千人以上の企業の倒産は社会的な影響が大きい」というが、企業が社会として成り立つ構造は下請け・零細企業があり、その上に中小企業、さらに中堅的な規模の企業があって成り立っている。大企業がそれらの小さな企業とかけ離れているわけではないのだ。いわば下から支える体制があっての大企業なのである。そうした企業構造の仕組みを無視して大企業のみ救済するのであれば中小・零細は救われない。そればかりか大企業としての成立さえ、その根本のところから崩壊しはじめる。今回のような世界的な大恐慌に対して行うべきは、一部にだけ焦点を絞った保護・救済という視点ではなく業界全体を立て直すという総体の対策こそが重要ではないか。もちろんそこには生産活動を担っている労働者の生活や、待遇の抜本的改善策も位置づけられていなければならない。

         四

 何故その様に考えるかだが、今回の大不況は「資本主義が内包する宿命的な所産」だといわなければならないからだ。日本の経済を主導してきたのは、いうまでもなくトヨタなど大規模な輸出産業であったが、その販売先の中心は中国をはじめとした途上国や、先進国でも日本に比べ製造能力が十分でない小型車を中心とした商品の販売増なのだ。しかし、日本企業が生産する膨大な量に見合った需要は長く続くものではない。途上国は、「日本製品の買い手から、自国生産へ」と目標を定め、かつての日本と同様、「追いつけ、追い越せ」という経済の転換・成長を目指してくることは明らかである。そうして地上国の自国生産力の強化に比例して日本製品の需要は徐々に小さくなり供給過多となる時を迎えるのだ。

 こうした根本的要素に加え、需要を支えるべき労働者(国民)の購買力が極端に後退してきていることを指摘しなければならない。総評が解体され、その後春闘も下火になり労働者の生活向上を担保する闘いは消えてしまった。労働者の生活は低下する一方であり、事態はそれに留まらず最低の基本まで破壊させてしまった。働いていさえすれば生活はできた労働者の環境は、「自由な働き方の保障」という財界や政府の騙し討ちにあって、「ワーキング・プア」等、労働者の貧困が社会問題になっていくような仕組みが出来上がっていくのだ。こんな貧困層を世界的な規模で作り出しておいて、「需要が伸びない」という言い草はまさに矛盾である。供給に見合った需要を確保することも、企業と政府の絶対に忘れてはならない重要な責任なのだ。「物を作り、それを売る」、という基本から考えれば当然のことではないか。

 こんな状況にあっても政府は更なる設備投資を行い、不況からの克服を企業に求めている。それは、今までの繰り返しというような単純な生産活動による景気回復ではないはずだ。垣間見えてくるのは生産の質的転換である。自動車企業にはエコカー生産を奨励し、購入者には二十万円以上の補助を出すことも決めた。また太陽光発電の施設を設置した家庭への支援策も決めている。国際的課題である温室ガス削減目標に対しても環境相は、経団連が提出した九十年度比四パーセント増を厳しく批判した。また最近、大企業も広大な休耕地に目をつけ企業経営の一環として農産物を扱い始めた。これは人の手で生産できない土地は農薬栽培をやめ時間と手間がかかっても自然栽培をと、大切に守ってきたものが儲け第一である企業主義の汚濁に染められるのではないかと危惧する。しかしこの様な新しい動きを見ると、政府の向かおうとするコンセプトはエコ・自然を対象に置いたといえる。それが自然を大切にするというより、逆に企業主義の対象が、とうとう何物にも代えがたい自然を相手に本格化し始めるということになるのだから重大である。

 もし、自然を相手に企業活動することによって少しだけ景気回復になり、僅かなおこぼれを貰うことにより自然破壊に目をつぶることを許すようであれば、未来を担う子供たちから「許しがたい空け者」と我々はいわれるだろう。困難な時代。それが深ければ深いほど敵も自信が持てないのだ。もう一度社会を広く見つめ考えてみよう。社会は変革されなければならないのだ。この道に確信を持って突き進むしかない。私たちに必要なことはその一言である。

                     (五月十四日)