THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会を根本から創り変えよう 樋越 忍


労働者が生き続けるために


 社会を覆う深刻な矛盾


 今日も、幼児虐待の報道がされている。記事は、若い両親はフリーターで五カ月ほど前に雇用切りになって収入が途絶え、失業手当も先が見えている。妻はショートタイマーの労働に就いているが、二人合わせた収入は十数万円にしかならず、生活は苦しいものだったという。この様な生活がいつまで続くのか、若い二人にとって将来に明るさを感ずることは無かったに違いない。この二人は、決して怠けものなどではなく一生懸命に働く意欲もあり、健康な精神の持ち主であったろう。だが社会は、この二人を救う温かさも支える包容力もない。誰も助けてはくれず社会から離れ、孤立したと思う時この二人に残るのは絶望感だけではなかろうか。そして愛する幼子にその怒りと絶望感が向けられた時、悲劇が訪れるのである。この様な悲惨な家庭はこの二人だけだろうか、そしてこの親しか頼るすべを持たない幼子の将来はどうなって行くのだろうか、心の痛む出来事である。だが深刻なことは生活の苦しさに悩む労働者はこの若い二人だけではないことである。厚生労働省が初めて明らかにした「相対的貧困率」(国民が得る所得の中心値を割り出し、その半額しか所得がない人の割合をいう。今回の発表の時点では、その額は百十四万円)は、十五・七%であった。実に国民の七人に一人が貧困層にいると統計は示したのである。我々が認識していたワーキング・プアの収入の境界線は二百万円であるけれど、実態はその数値を遥かに下回っているこの現実に驚かされる。若者が学び、将来と社会に羽ばたくことを夢に見た時代は遠くなってしまったのか、今では、卒業が即ち失業なのである。幼くして唯一信頼すべき両親の愛情も十分に受けることもなく育ち、学業が終えれば直ちに失業という日本の社会。誰がこのような社会を作り出したのだろうか。

 しかし、生きて行く価値が見いだせない状態は若者だけにとどまらない。

 正規社員の数は急速に減っているが、労働者の絶対量が減少したのではなく、不安定な雇用へと切り替えられてしまっているのだ。この不安定さは、雇用の不安定さに加えて将来の不安定さが付いてくる。

 多くの会社は正規雇用を外された労働者には冷たい。殆どが厚生年金の手続きをしていないため、仮に四五歳でリストラされたとすれば年金受給資格の二十五年に満たず受給することができない。仕方なく労働者は個人で対応するしかなく当然それは国民年金となる。国民年金は満額でも月に七〜八万円程度であることを考えてみれば、正規社員から外れることは生涯にわたる貧困生活を押し付けられることなのだ。日本の労働形態は、年功序列賃金と終身雇用制度で成り立っていると言われてきたが、この日本的労働の姿に合わせて様々なシステムが作り出され、労働者や家族たちは安心して暮らしてきたのである。だが、雇用形態が根本から破壊されたにもかかわらず労働者の生活を支えてきた旧制度・システムは、二十五年が受給資格となっている年金制度を見ても分かる通り以前のままで、中途転職が多くなってきた労働者の実情にあう新たなシステムができておらず、従って救われる手立てがないまま放置され、一直線に生活苦へと落ち込んで行くことになる。この様な労働者の実情を考慮しない、人を人と思わない日本社会になってしまっているのだ。


 矛盾にあえぐ沖縄、そして政府


 日本社会は、労働者が苦しむだけの社会ではない。半世紀以上の長い間第二次世界戦争の負の遺産を背負わされ、沖縄の人たちは戦争という恐怖の狭間に置かれてきた。沖縄の人たちにとって最大の望みは基地撤去であるだろう。そこに向かっての第一歩だと思ってきたのに、今普天間基地の移転という問題に沖縄の人たちは翻弄させられている。鳩山内閣が約束した、「沖縄の負担を軽減するためにも国外、若しくは県外に移転」の帰趨は毎日のように報道されている。しかし、報道の趣旨は、「約束できないことを約束した無責任な政府」という攻撃であり、「決断できない鳩山総理」といった個人の資質をことさら面白おかしく伝えている。ここにも、我々日本国民は、こんな次元の低い報道をするメディアしか持てていないことに愕然とするのである。そしてこの驚きは(本当は驚くことではないのだが)国民を戦争にかりだした「大本営報道」や、国鉄改革という名の国労解体攻撃で行った「国鉄労使国賊論」的な誹謗・中傷ともいえる恣意的な報道を知る時、戦前・戦後を通して成長しない旧態依然のままの報道体質に怒りが沸くのである。

 だが、普天間基地移転の問題が私たちに問いかけているのはマスコミが言う様に、県外や国外という移設するか否かということではないはずだ。戦後長く続いてきたアメリカの世界支配体制が本当に必要なのか、また真の平和を築こうとする場合、アメリカの軍隊が日本にいることが欠かせないことなのか。かりにアメリカが日本国内に基地が必要だと言っていてもなぜ日本がそれを受け入れなければならないのか。こうした本質を考えないと歴史に答えられるしっかりとした回答が出るはずもないではないか。

 かつて民主党の小沢幹事長は「アメリカ依存からの脱出」、「真に独立した日本を」といっていたが、それは日米関係の在り方を根本的に問うことを指していたのではないか。

 なぜ、この核心的問題にこだわり続けないのか、続けないから小手先の政治・政策、マニフェストなるものが表面に躍り出て独り歩きするのである。その結果が、マスコミによる本質を隠し政治不信を煽る道を開いてしまうことになるし、何よりも大きな犠牲を受けている沖縄を解放に向かうのではなく、犠牲が集中している現状を固定化してしまうのだ。

 この問題を考える基本は、日米安全保障条約を軸としている日米関係の在り方にこそある。この安保体制の存在を前提にしている限り基地問題の解決はできないのだ。その基本問題に思いきって迫って行く決断こそ今必要なのだ。それができないまま基地問題を議論すれば、鳩山政権が語るような「沖縄からの基地移転は県外若しくは国外」という程度の策しか出てこないし、県外となれば候補地に指定された地域では当然のことだが反対運動が生まれることになる。こうした現象は全ての日本国民が「基地は無用だ」と考えていることの表れなのである。

 だが国民のこのような意志とは別に、政治の世界では、国民投票法の完全施行が今年の五月十八日であることを絶好の機会として憲法改正(9条改悪)の具体化を進めようと動き始めている。これは基地移転で今回国民が見せた意識とは正反対の道であるにもかかわらず、政治は改憲への道をひたすら進むという歪んだ進路であり、国内に基地の充実・機能強化の道を開くしかない動きである。そろそろ、誰が攻撃してくるかも分からない、有りもしない恐怖を煽り、ひたすら戦争への準備を怠らない政治というものほど滑稽なものは無いことに気づき、米国に依存した安保体制という根本の変革に切り替えることを決断すべきなのではないか。


 何を壊し何を創るのか


 労働者の生活は、単に生活が苦しくなったという次元を遥かに超えてしまっている。特に悲惨なのは毎年続いている自殺者が今年で十二年もの長期にわたっているということの内容に、生活苦、すなわち経済的な理由で自殺した人が六十%も増加しているという事実である。この人たちの多くは三十代から四十代の年齢なのだ。

 今の日本の国の仕組みを大きく、そして根本から変えてしまわないと、この傾向はますます拍車がかかることになる。また、我々国民が長く望んできた安心して暮らしていける社会、国を越えてみな同じ人として優しさに育まれる平和な世界、そのことだけに脇目もくれず取り組んでいくことが大切ではないか。そのような新しい社会・世界の実現こそ我々が目指す社会主義への道だと思う。社会主義というのはそんなに難しく考えなければならないものではないと思う。誰もが、等しく平和に生きて行ける世界の実現に他ならないのだから。その一点にこそ価値があり未来が創造されるのだ。

 私たちが望む未来と、築いていこうとする価値を無視し破壊してきたものは破棄されなければならない。たとえ私たちが良かろうと信じてきたものも、築き上げようとする未来とその価値観に沿わないものは思い切って破棄されなければならない。輝く未来や子供たちへ託す夢、こうしたかけがえのないいものを踏みつぶしてきた社会構造の全てを破棄すべきなのだ。そうしなければ新しい社会は生み出すことができない。腐臭立ち上る社会の構造、人として守られるべき尊厳を破壊し続けてきた仕組み、人を殺すことだけを考えてきた軍隊の存在と、世界支配の体制、等などの旧態の中から私たちが望む社会を生み出すことはできないのだ。トンビが鷹を産むことはないのだ。新しい社会は古い体制を一掃することによってはじめて実現する。その基礎が作られるのだ。

 私たちは、旧態を捨てることにいささかの憂慮する意識を持たない。逆に、新しい社会を築くために必要であるからには、旧態破棄を積極的に強化していく意思を隠さない。

 古くなった衣は捨てよう。そして未来を創る新しい希望を身につけよう。

私たちは毅然としてこの未開の道を進むのである。

                (人民の力第十一回全国大会を受けて)