THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考129 巨星墜つ金大中氏死す 常岡雅雄



米国支配下の李承晩独裁・軍部独裁に抗して

民主主義と南北統一と平和の実現をめざし

死を覚悟して波乱万丈の難路を踏破した革命的な民衆民主主義者


 金大中氏の苦闘の生涯に

   心からの敬意を表します


 今号のこの巻頭言「社会主義考129」を「ヒューマニズム社会主義の道」として執筆しようとした。その瞬間に、「金大中氏逝く」のニュースが飛び込んできた。金大中氏の生涯と意義を語りうる準備など全くしていなかった。しかし、全斗煥軍事政権によって内乱陰謀罪の濡れ衣を着せられて死刑宣告された金大中氏の救出運動に、海のこちら側から、微力ではあれ携わった私たち「人民の力」誌の巻頭言として、この「巨星墮つ」瞬間に、金大中氏を偲ばずしては、ヒューマニズム社会主義者としての巻頭言に値しないであろう。


 金大中政治の意味


 凶暴な軍部独裁に屈しない不屈の民主主義政治家として波乱万丈の生涯をおくられた金大中氏の政治的実践と人柄の偉大さに心からの敬意と感謝を捧げます。

(イ)金大中氏は、戦後「朝鮮解放」後の朝鮮民族と韓国民衆の「民族独立と民主主義と平和」の願いと闘いが育てあげて「反独裁」戦場に送り出した「革命的で民衆的な民主主義政治家」の最良の一人であった。

(ロ)金大中氏は、戦後「朝鮮解放」後の朝鮮民族の全的独立と民族主体性の確立をめざした「純正の民族闘士であり民族政治家」であった。金大中氏は、理不尽で反人間で凶暴極まりない軍部独裁体制にあくまでも屈せず闘いぬいた「反軍・反独裁の真の民主主義政治家」であった。

(ハ)さらに、金大中氏の不屈の実践は、戦後韓国の李承晩独裁につづく軍部独裁を玄界灘のこちら側から陰に陽に支えて「軍部独裁擁護反民主主義・反民衆主義」の恥ずべき役割を果たしつづけた旧天皇制日本の「残存軍人(例えば瀬島龍三)や官僚や政治屋たち」にたいする闘いでもあった。即ち、金大中氏の政治実践は「旧日本帝国主義の天皇制と植民地主義」にたいする「真の民主主義者としての闘い」であった。したがって、それは同時に、戦後日本の「自民党主導の戦後保守政治」にたいする「日本革新の政治闘争」でもあった。

(二)更に、それは又、朝鮮民族を南北に分断し、南の韓国を世界覇権戦略の軍事的最前線基地化して軍部独裁を支え、自由と民主主義と民族統一を求めて苦闘する韓国人民の闘いに敵対しつづけてきた帝国アメリカの世界覇権政治にたいする闘いでもあった。

(ホ)さらに視野を東アジア規模に広げるならば、それはまた、東アジアにおける「人民の解放闘争の前進」と「真の民主主義の構築」をめざしてうねる東アジア人民闘争の最先端的苦闘でもあった。


 この金大中氏ほど軍部独裁によって死の瀬戸際に幾度も立たされた政治家は世界的にも稀であろう。軍部独裁の暴力と陰謀と国家装置を総動員しての圧迫と軟禁と逮捕と拷問と懲役と死刑判決と拉致と暗殺の危機という生死の瀬戸際を生き延びて、闘う民主主義政治家としての生涯をまっとうできたことのほうが、まさに「奇跡的!」であろう。金大中氏こそは、軍部独裁の変革と民主主義の実現のために、死を覚悟して闘い、その決死の覚悟のゆえに、みずから「波乱万丈の波浪」を引きよせながら漕ぎぬいてきた真の民衆的民主主義政治家であった。


 死を覚悟した波乱万丈の生涯


 8月18日85歳の生涯を閉じる


 今この瞬間に飛び込んできた速報によれば、金大中氏は、風邪で体調を崩して7月13日に延世大学付属セブランス病院(ソウル市)に入院した。肺炎と診断された。一時は呼吸不全に陥った。人工呼吸器を装着した。気管の一部への切開手術などが行なわれた。一時、容体は持ち直した。しかし、8月9日から再び病状が悪化した。そして、快復できないまま、今日(8月18日)午後1時40分過ぎ、85歳の波乱万丈の生涯を閉じた。


 建国準備委員会の活動家として起つ―処刑寸前の脱走


(一)金大中氏は全羅南道の海中に浮かぶ荷衣島に生まれた。朝鮮民族を植民地支配した天皇制日本が大正から昭和に移った1925年の12月3日であった。まだ天皇制日本の植民地支配下で、高校「木浦商業」を卒業して運送会社に勤めた。

 1945年8月15日、日本敗戦による朝鮮解放後、呂運亨主導下の建国準備委員会の地方青年活動家となった。南北分断後の朝鮮戦争中には拘束され処刑直前に脱走する。このとき金大中氏は死んでいても不思議ではなかった。


 71年大統領選挙軍事独裁者・朴正熙に肉薄する


(二)60年「4・19学生革命」よる李承晩「親米独裁」政権の崩壊をうけて、国会議員に選出される。しかし、翌年61年、旧天皇制日本の陸軍士官学校出身の朴正熙少将の反革命的な「5・16軍事クーデター」によって軍政支配下に陥る。この朴正熙軍部独裁下に、67年以降は新民党幹部として活動する。71年4月の大統領選挙に新民党候補として立候補する。韓国民衆の圧倒的支持を受けて得票数は朴正熙大統領に肉薄する。翌72年7月4日には「平和統一に関する南北共同声明」となる。


 朴独裁「維新体制」に抗して展開する「反朴・民主化」運動


(三)支配体制に危機感を深める朴正熙大統領は、72年10月、「非常戒厳令」体制を敷き、国会解散=「10月維新」を強行する。続いて12月には「維新憲法」を布告して朴軍部独裁体制の絶対的な強化に暴走する。金大中氏は、この朴正熙独裁支配の絶対的「維新体制」に抗して、米国と日本で「反朴・民主化」運動をくりひろげる。73年3月には、韓国民主回復統一国民会議(韓民統)を結成する。


 在日中に東京から拉致され海中「投棄殺害」の危機


(四)この米・日において「反朴・民主化」闘争をくりひろげる金大中氏の殺害を軍事独裁者・朴正熙大統領はめざす。73年8月8日、KCIAを使って、在日中の金大中氏を東京都内ホテルから暴力的に拉致する。雁字搦めに縛りあげて船上から海中「投棄殺害」しようとする。しかし、金大中氏殺害がアメリカの韓国支配と世界覇権にもたらす悪影響を憂慮したアメリカの緊急介入によって、金大中氏は、海中投棄の寸前に船上から韓国に連れ戻される(まさに危機一髪)。

 朴政権は、ソウル自宅前で金大中氏の拘束を解くが、自宅軟禁して政治活動の展開を禁じる。それでも更に、翌74年6月には、金大中氏を選挙違反で逮捕して、75年12月、ソウル地裁に有罪判決を下させる。

 76年3月1日、「反独裁・民主化」人士12名で「民主救国宣言」を発して独裁者・朴正熙大統領の退陣を迫った金大中氏を、朴政権は直ちに逮捕投獄する(3月8日)。一年後の翌77年3月、朴政権は、韓国大法院に「民主救国宣言」を根拠に金大中氏に懲役5年の有罪判決を下させる。金大中氏は、4月、ソウル刑務所から普州刑務所へ移される。そして、翌78年12月19日にソウル大学病院に移され、同12月27日、執行停止で釈放される。


 79年朴大統領射殺と全斗煥「12・12クーデター」


(五)朴大統領の腹心であり朴独裁体制の中枢であったKCIA部長・金載圭が、噴出した釜山・馬山闘争をはじめとして昂揚する労働者・民衆闘争への対応をめぐって朴大統領と対立し怒りをつのらせる。そして金載圭は、遂に79年10月26日、クーデター目指して、宴会中に朴大統領を射殺する(しかし、金載圭はクーデターに同調者を得ることができず内乱陰謀罪で後に死刑)。

 朴射殺直後の政情動揺のなかで、12月12日、韓国陸軍士官学校出身で朴大統領の子飼いの腹心であって、盧泰愚ら士官学校同期生を軸に「ハナ会」を組織して韓国全軍への支配網を張り巡らせてきていた全斗煥少将が「ポスト朴の独裁権力奪取」をめざして「粛軍クーデター」=「12・12クーデター」を決行する。他方、韓国民衆側では、朴後の民主化実現を求める学生決起をはじめとする民衆デモが金大中氏の地盤である全南道・光州市をはじめ韓国全国に広がってゆく。そして、翌80年5月7日に「民主化促進宣言」を発する。


 全斗煥独裁の武力鎮圧攻撃に対決して登場した光州コミューン


(六)こうしたポスト朴の民衆闘争の昂揚に対して、全斗煥軍部権力は、金大中氏を逮捕し、5月18日、韓国全土に非常戒厳体制を敷き、一切の民衆行動を武力禁圧する。頑強な光州民衆の堂々たる民主主義要求行動にたいしては、遂に、重武装した空挺部隊を幾波にもわたって投入して武力鎮圧をめざす。この全斗煥軍事権力の凶暴残虐な武力行使に、光州民衆は英雄的に対抗して武装蜂起し、遂に、政治中枢・道庁をも占拠して光州は民衆自治の「コミューン」状態となる。


 戒厳軍による光州コミューンへの無差別武力鎮圧と金大中氏への死刑宣告


(七)この「光州コミューン」に対して、全斗煥軍事権力は戒厳軍を投入して残虐な武力鎮圧作戦をもって、5月27日、民衆自治の「光州コミューン」を血の海に沈める。そして、7月31日、全斗煥独裁下の戒厳軍「軍法会議」は、この「光州コミューン」を「北朝鮮」に通じた金大中氏の策動と煽動によるものとでっち上げて、金大中氏を内乱陰謀罪におとし死刑判決を下した(9月17日)。その死刑判決直前の9月1日、全斗煥は、「統一主体国民会議」と称する軍事的手製国民会議で権威付けて大統領としての権力を手中にする。


 米国の覇権主義的思惑によって死刑を免れアメリカへ亡命


(八)ポスト朴正熙の独裁権力を手中にした全斗煥は、軍部独裁への最大の政敵である金大中氏の死刑執行をめざした。しかし、その理不尽きわまりない暴虐が生み出す国際的なマイナス影響を恐れたアメリカの求めによって、全斗煥権力は、死刑囚としての処刑を覚悟していた金大中氏を81年1月に無期に減刑した(後に更に懲役20年に減刑)。更に、金大中氏の韓国内での活動を恐れて、翌82年12月13日には、刑執行停止にして米国に追い出した。金大中氏は二年後の85年2月には帰国できたが、しかし、自宅軟禁にされる。


 画期的な87年「6月民衆抗争」による公民権回復、そして大統領への道


(九)87年の韓国民主化闘争史上に画期的な87年「6月民衆抗争」の全国規模にわたる昂揚の力によって、金大中氏は公民権を回復した。その後、金大中氏は、全斗煥の陸軍士官学校同期で「ポスト朴」全斗煥軍部独裁の実現と暴政を共謀してきた盧泰愚(官製政権党「民政党」代表)が「6月民衆抗争」に追い込まれて発した「民主化宣言」(87年6月29日)後の大統領選(87年12月)では盧泰愚に敗れ、更に、翌88年9月のソウルオリンピックを挟んで、5年後の92年大統領選挙では金泳三氏に敗れた。

しかし、更に5年後の97年大統領選挙では金大中氏は遂に、韓国大統領に選出されることができたのである。


 初の南北首脳会談、ノーベル平和賞、太陽政策


(十)その後の金大中氏の、韓国大統領として初の訪朝と南北首脳会談(2000年6月)、ノーベル平和賞受賞(同12月)、「北朝鮮」に対する太陽政策などについては、紙数の都合で最早、ここで語る余裕はない。


 革命的民主主義者・金大中氏の苦闘の生涯に尊敬と感謝!


 私たち人民の力は、71年7月結成後10年をへた80年代以降、「韓国民衆闘争との連帯の道」を自分達の「時代的な課題」と定めて日韓民衆連帯運動に踏みだしてきた。そのスタートが(一)光州民衆蜂起(光州コミューン)への注目と連帯であり(二)内乱陰謀罪をでっち上げられて明日をも知れない死刑囚の獄舎につながれた革命的民主主義者・金大中氏の救出運動であり(三)在日韓国人政治犯救援運動であった。

 その後、私たちは八〇年代、九〇年代をとおして、日韓「民衆連帯」日韓「労働者連帯」の道を歩きながら、更に21世紀初頭の今日、日韓「社会主義連帯」の道へと歩みを進めつつある。

 朝鮮半島を照らし、全世界を照らし、日本の労働者民衆をも照らし続けてきてくれた革命的民主主義者としての巨星・金大中氏の輝きの前には、私たち人民の力の働きなどは浜辺の砂の一粒にも値しないかもしれない。

 だからこそ、金大中氏の死を覚悟した不屈の苦闘の輝きに、その一粒の砂の心がどれほど温められ励まされたか知れない。その思想と人間性がどれほど研ぎすまされたか知れない。社会主義者である私たちをも照らしだして、「ヒューマニズム社会主義」のあるべき精神と心がけとを示してくれた革命的民主主義者・金大中氏に私たち「人民の力」はあらためて尊敬と感謝の気持ちを申し上げなければならない。(09・08・18)