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社会主義考138 福島瑞穂党首見事なり! 常岡雅雄



福島「罷免」どころか福島的進路への

鳩山政治の方向転換こそが

真の抑止力なのだ



 福島瑞穂社民党党首見事なり!


 鳩山内閣は昨28日、臨時閣議を開いて福島瑞穂社民党党首を罷免した。福島党首は自分の政治意志に忠実だった。妥協せず、罷免を覚悟でその政治意志を貫いた。

 いま、この瞬間は5月29日朝6時。

 今朝の朝日新聞によれば、昨日午前、鳩山政権とオバマ政権は「普天間米軍基地の移設」問題に関する「日米共同声明」を発表した。この日米共同声明の発表に続いて、鳩山民主党政権は宜野湾市の米空軍「普天間基地」を名護市「辺野古」周辺に移設することを政府方針として閣議決定した。「辺野古移設」に反対し「県外国外移設」を主張し続けてきていた社民党・福島瑞穂党首(鳩山内閣の消費者担当相)は、この政権公約「県外国外移設」を反古にし旧自民党政府案に等しい「辺野古への移設」を政府方針とする閣議決定に署名することを罷免も辞さず拒否した。「社民党は沖縄を裏切ることはできない」との政治意志を如何なる懐柔にも靡かず如何なる圧力にも屈せず最後までつらぬいた福島社民党党首の政治節操は見事である。

 福島瑞穂氏は自ら内閣を出ていくようなことはしなかった。

 即ち、閣僚「辞任」はしなかった。内閣から「逃げる」ようなことはしなかった。福島氏は、社民党党首として社民党の党是の立場に立って閣内で最後まで努力しぬく政治を実践したのだ。政治家として原則的で教訓的だ。

 鳩山首相は国家と政権の最高責任者である。その国家最高責任者と国政の根本を左右する重大問題において見解が非和解的に対立するに至った時、その最高責任者に「罷免」という究極的な政治行為をとらざるをえなくさせることによって、福島氏は、(一)自分自身の「政治家としての政治生命」を守ったのであり(二)「政治家としての名誉」を辱めなかったのであり(三)党首として「社民党員に模範」を示し(四)風前の灯火ともなってきていた「社民党の政治生命」の失墜をくいとめたのである。(五)そして「沖縄の心」に共振できる「誠実な政治家の心」を明示したのであり(六)更に未だ細々としたものではあっても日本がこれから切り拓いていかなければならない「あるべき進路の灯」を消さなかったのである。

 他方、鳩山首相の「友愛政治」は挫折した。

 今朝の『しんぶん赤旗』は「辺野古『移設』怒り噴出」「日米発表『断固拒否』」「県民の総意踏みつけ断じて許せない」と一面トップ大見出しながら、鳩山政治を「裏切り」と断罪している志位委員長の記者会見表明を記載している。私たちは、このような鳩山政権への「単純な決めつけ」に大きな違和感を覚える。鳩山政治は「裏切った」のではなく「挫折した」のである。


 挫折した鳩山首相の心と願い


 確かに、自民党政権にたいする歴史的な政権交代を遂げて登場した民主党政権。その鳩山首相の「県外国外移設」「最低でも県外移設」という公約を信じて遂には「辺野古移設」派だった沖縄県知事までも包含し全島一丸となって燃え上がった「沖縄の願い」にとっては、最終的に鳩山首相がとった「旧自民党路線への回帰」に等しい選択は到底許せないことである。沖縄の人々にとっては、鳩山首相の最終決断が「裏切り」となるのは当然である。沖縄の人々が鳩山首相を「裏切り」と糾弾するのには何の不思議もない。現地の人々がそうであってこそ、これから一層の難路が待ちうけている沖縄闘争の「闘いの火種」は「消えずに熱く燃え続けていく」のである。

 その沖縄の鳩山首相への怒りは当然と理解したうえで、もう少し、鳩山首相への視点をすすめてみたい。すなわち、鳩山政治の心と軌跡には、その事実にふさわしい慎重な目が向けられなければならないのではないだろうか。「県外国外移設」「最低でも県外移設」は、詭弁でも放言でも「いい格好」でもなく、鳩山首相の人間として政治家としての本心であり願いだったのではないだろうか。

 だがしかし、その本心と願いは、戦後日本において自民党政治の歴史が築きあげてきた「日米関係の構造」と「覇権国家アメリカの軍事的政治的な実力と世界戦略」の岩壁に阻まれて、鳩山首相が自分自身の思いとしては、どんなに努力しても、どんなにもがいても、その分厚い岩壁に穴を開けることはできなかったのである。鳩山首相は「裏切り」を意図して「裏切った」のではない。鳩山首相の善意は通ぜず、固い岸壁に跳ねかえされてしまったのである。この「心と軌跡」を読みとろうともせず考慮しようともせずに、責任政治の局外の高みから「裏切り」と断罪してしまうような政治姿勢からは本当の建設的な道は生れてこないのではないだろうか。

 「県外国外への移設」政治の挫折が避けがたくなったとき、鳩山首相は沖縄県知事へのお詫びに出掛けた。昨日の日米共同声明と閣議決定後の記者会見でも「自分の言葉を守れなかった以上に、沖縄を傷つけてしまった」と沖縄へのお詫びを表明した。私はこうした鳩山首相のお詫びの言動に嘘はないと思う。その場しのぎの慇懃さではないと思う。

 今朝の朝日新聞は鳩山首相のお詫びの言葉と同紙面で「政治エディター渡辺勉」なる人物に「見識なき政治主導の危うさ」との表題で次のように鳩山首相批判を語らせている。「見識のない政治主導がいかに混乱をもたらし、内外の信頼を損なうか。国民はまざまざと見せつけられた。」

 私は鳩山政治が「見識のない政治」とはみない。「友愛」を願う鳩山の見識をもってしても、鳩山の政治力量と日本の現状ではアメリカの岩壁に穴を開けることはできなかったのである。渡辺勉なる政治エディターは「自分自身のアメリカ隷従精神」を見識と錯覚し、アメリカ隷従に蟷螂の斧であっても挑戦を試みた鳩山の精神を結果の高みから嘲っているのである。

 「友愛政治」と「無血の平成維新」をうたった鳩山首相の「高い想い」は確かに挫折したが、しかし、それが「下らなかった」わけではけっしてない。そのためになめた鳩山首相の「辛酸が無駄だった」わけではない。最終決断を下した「鳩山首相の苦渋」が薄味だったわけでもない。その辛酸と挫折と苦渋を後ろ向きにではなく、前向きに噛みしめて、鳩山首相が出直すときがあるならば、それは当然にも、鳩山首相にとってだけでなく日本政治の将来にとって有意義な実をつけていくことができるであろう。

 ただし、挫折の結果としての最後の決断に当たって、鳩山首相はブルジョア政治家としての限界をさらけだして、沖縄県民にも日本の進路にも根本的に反する重大な過ちに陥った。「辺野古移設への回帰」という最後の決断を合理化するためにもちだした「抑止力」論である。


 沖縄県民の願いと闘いこそが真の抑止力

 不屈に闘い続けてきた「辺野古」現地の根性こそが抑止力の源


 今日の「アメリカ軍のアジア・太平洋における存在」を侵略や戦争への「抑止力」と見ることは、それが仮に善意だとしてもそれは「錯覚」であり「幻想」である。それが意図的なものだとすれば、それは「詭弁」であり「誤魔化し」であり「政治的思想的な攻撃」である。もはやここで詳しく語る余裕はないが、戦後アジア史を簡単に振りかえっただけでも、例えば朝鮮戦争においても、例えばベトナム戦争においても、例えばイラク・アフガン戦争においても、更に遠く、フィリピンの民族解放闘争に対するアメリカ軍の介入と支配にしても、アジア・中国・太平洋侵略者=天皇制日本に太平洋でアメリカ軍が対決した太平洋戦争においても、更に朝鮮戦争に連結する中国解放闘争に対するアメリカ軍の介入にしても、アメリカ軍のアジア・太平洋における存在は、侵略や戦争の「抑止力」どころか、全く逆に、抑止されるべき「侵略や戦争の遂行者そのもの」だったのではないだろうか。

 「侵略と戦争の抑止力」「真の意味での抑止力」を言うのであれば、それは、(一)侵略者アメリカの軍事基地化した沖縄で侵略者からの解放を願って闘いつづけている「沖縄の人びとの闘い」こそがそうであり、(二)事態発生いらい辺野古現地の吹きさらしの浜辺に「辺野古テント村」を打ち立てて、既に2300日にも達するほどに「新基地建設阻止の現地抵抗闘争」をくりひろげ続けてきている嘉陽宗義さん(87才)を先頭とした現地の「おじいー、おばぁー」たちや「ヘリ基地反対協議会」の人々の根性と不屈な闘いこそが、その「抑止力」の不滅の源なのではないだろうか。

 鳩山首相はこのもっとも大切な真実の側に自分の身を置くことができず、侵略者の詭弁「抑止力」論に迷い込んで、この「真実の側」と対決しなければならない邪道に落ち込んでしまった。他方、社民党党首・福島瑞穂氏はこの鳩山首相から「名誉の罷免」を自らつかみとることによって、この「真実の側」と歩みを共にできる道に立った。もちろん、事態は二人だけの問題ではなく「日本人すべて」の問題なのだ。(5月29日)