8・30「政権交代」選挙 小林栄一


自公政権の崩壊と鳩山民主党政権の登場


新しい息吹に着目し悠々社会主義の道を行く


 8・30総選挙は、日本の議会制民主主義に新しい一ページを記した。政権与党である自民党と公明党が歴史的・壊滅的な敗北を喫し、鳩山代表の民主党が一党としては過去最大の議席を獲得して一人勝ちした。これにより、9月16日に召集される特別国会の冒頭で、鳩山由紀夫民主党代表が第93代、60人目の首相に選出されることとなった。

 導入されて13年になる衆議院の小選挙区比例代表並立制がもたらした結果ではあるが、05年の小泉郵政選挙では300議席を獲得して大勝した自民党は、その3分の1余りの119議席へと激減した。首相経験者や閣僚経験者など「大物議員」が次々と落選し、麻生総裁をはじめとする党三役はその責任をとって辞意を表明した。その自民党と10年ほど連立を組み、「戦争遂行国家」への道を下支えしてきた公明党も小選挙区で全敗(太田代表や北側幹事長が落選)し、過去最低の25議席をも下回る歴史的敗北を喫した。

 一方、民主党は308議席の絶対安定多数を獲得し、結党以来13年にして初めて衆議院の第一党になった。自公政権への閉塞感や不満・批判票は全て民主党が吸収し、日本共産党(9議席)や社民党(7議席)は現有議席維持にとどまった。

 それはとりもなおさず、「単なる議会の場での政権交代、即ち議会主義的な政権交代でしかなかった」(本誌、903号巻頭言)からに他ならない。「労働運動がストライキやゼネストなどの大衆的実力闘争の高揚で切りひらいた政権交代ではない」(同)ことが、選挙制度ともあいまって、こうした結果をもたらした。その本質的な問題を私たちはきちっと捉えておかなければならない。

 もちろん、1955年の保守合同以来の自民党政治と資本主義体制の矛盾が今日の事態を引き起こしたこともまた事実である。とりわけ小泉政権以降の社会・経済状況と自民党の腐敗・堕落が、日本列島に「表層地滑り」を起こしたのである。公明党を含めて衆議院で3分の2の安定多数を得た自民党は、その数に胡坐をかいて国民の審判を受けないまま安倍、福田、麻生と三代続けた政権のたらいまわしを行なってきた。しかも、安倍と福田はそれぞれ1年足らずで政権を投げ出したのである。

 昨年9月に発足した麻生政権も、解散・総選挙の「顔」として選出されたのであったが、自身の資質に加えて、相次ぐ閣僚の不祥事、金融危機に端を発した世界大恐慌のなかで、国民と乖離してきた。任期満了を目前にしてようやく抜いた「伝家の宝刀」も、どん詰まりの政権与党に追い討ちをかけるものでしかなかった。

 しかも、市場原理と競争主義の新自由主義路線のもとにすすめた小泉構造改革と規制緩和は、貧富の格差を拡大し、ワーキング・プアや非正規労働者を大量にうみだし、世界大恐慌下での派遣切りなどの大量首切りや差別・権利侵害などを拡大・深化させてきた。加えて、衆議院での3分の2の絶対多数を背景に、教育基本法の改悪や憲法改悪のための「国民投票法」、「イラク特措法」や「給油延長法」、「海賊対処法」などの戦争遂行法を再議決で成立させてきた。「アメリカに隷属した日本」、「アメリカの不沈空母としての日本」の道をさらに深化させてきた。

 資本主義の構造的矛盾が深まるなかで、政権与党が押し進めてきたこうした政治や政策に、国民は「ノー」を突きつけ、自公政権の退場を求めたのである。


 新しい息吹に着目する


 民主党、社民党、国民新党の連立政権がいかなる道を歩むのか、いまのところ定かではない。かつての自社さ連立政権の村山首相の二の舞は避けようと、巨象に向かう蟻のように社民党も独自色をだそうと頑張ってはいるが、そして鳩山民主党代表もおごりを戒め、謙虚さを表にだしてはいるが、やはり308議席は巨大である。

 また、総選挙ではマニフェストを競い合い、国民へのリップサービスを行なってきたが、かりにそれが実現されたとしても、資本主義の構造的矛盾の解決には当然結びつかないし、ましてや社会変革をめざしているわけでもない。自公政権よりは少しはましな政治国民のための政治を行なうであろうと思ってはいるが、さりとて過度の期待もできない。

 しかし、今度の選挙を通じて新しい変化を垣間見ることができた。「政権交代」選挙を象徴する小選挙区がマスコミでもたびたびとり上げられていたが、その中でも特に注目したのは長崎2区と東京12区である。東京12区は10年にわたって自民党を支え続けてきた公明党の太田代表に対して、民主元職の青木愛氏が挑んだ選挙であった。創価学会の組織票と自民党の推薦を受けて、小選挙区一本に絞って背水の陣をしいた太田代表ではあったが、「政権選択」を前面に出した青木氏に敗れた。共に敗れた北側幹事長と共に、代表職辞任を明らかにせざるを得なかった。

 また、諫早市を選挙区とする長崎2区は、私にとっても感慨深いところである。1997年4月1日、諫早湾は293枚のギロチンで締め切られ、「干拓事業」の名のもとに「有明海の子宮」=「宝の海」は大きく変貌させられてきた。07年11月には潮受け堤防が完成し、干拓事業も07年末をもって完了した。

 ゴールドマン賞を受賞した今は亡き山下弘文さんが、有明海と諫早干潟を守ろうと奮闘されていたのであるが、闘い半ばで急逝されてしまった。その意志と運動を引き継いでお連れ合いの山下八千代さんが孤軍奮闘しておられる。私も毎年4月に行なわれている「干潟を守る日」に二度ほど参加して、山下八千代さんの奮闘に心うたれ、魚介類の墓場と化した干潟あとや、濁った貯水池などの現地見学をおこなって胸を痛めてきた。

 広島や長崎の原爆は「しかたがなかった」発言で防衛庁長官を辞任せざるを得なかった久間章生氏は、この諫早干拓事業の継続に奔走し、諫早湾干拓関連事業の受注企業から多額の政治献金を受け取っていたのである。全く許せない。

 その久間氏をやぶって当選したのが民主党の新人福田衣里子氏(28歳)である。彼女は薬害肝炎九州訴訟に実名を公表して提訴し(2004年)、「感染した人は死んでもいいと思っているのですか」と官僚を問い詰めたという(「朝日新聞」8月31日)。また、2008年には厚生労働省の「薬害肝炎事件の検証及び再発防止のための医療行政のあり方検討委員会」委員となり、薬害肝炎九州原告団の代表に就任して、「生きる」ための闘いに奮闘している。「被爆県長崎から世界恒久平和の実現をめざす」など「10の約束」を掲げ「チェンジ!政権交代!」を謳い文句に久間元防衛庁長官に挑み、見事に勝利をおさめた。

 その勝利を映し出すテレビの中で、笑顔をはじけさせた彼女は「歴史が動きました。日本は変わります。精いっぱいみなさまとともに、生きていきます」と語っていたのが印象的であった。公共事業にむらがり利権を食い漁る古き自民党もまた敗れ去ったのであるが、新しい息吹をそこに感じることができる。群馬の八ツ場ダムの建設中止を明らかいにしている民主党が、諫早干潟の問題でも早期の長期開門を行い干潟再生のために良識を発揮されることを期待する。


 「生きる場」から悠々社会主義の道を行く


 私たち人民の力は、8月の行動を「反核・平和創造実践」と位置づけ、広島現地行動を軸に、各地方における「生きる場」からの運動づくりをめざしている。私も長野の地にあって、前号の人民の力でも報告されているが、広島の実国義範君を講師に迎えて8月2日に開催した「岩国基地闘争」に連帯する長野集会に参加した。また8月5日には信濃町の野尻湖周辺で行なわれた陸上自衛隊松本駐屯地の武装徒歩訓練を許さない行動にも少数ではあるが参加し、抗議と怒りの声を上げた。

 夏季合併号の巻頭言が「『矛盾される側』が『矛盾する側』を克服してゆこうとする、その『前向きの営為変革の営為』を私たち『人民の力』は評価し、自分自身で行い、かつ可能な限りの協働を行なってゆかなければならない」、そして「『ヒューマニズム社会主義の道』『異次元社会主義の道』が一ミリでも前進するように、自分の『生きる場』で頑張ることではないだろうか」と提起しているように、私もまた悠々社会主義の道にたって「今の一ミリ」の前進のためにこれからも努力していく。

                        (9月3日)