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社会主義考141 菅首相談話と転形期のアジアと世界 常岡雅雄



韓国併合(強奪)100年菅直人首相談話「反省とお詫び」


「自分のこと」として考える

「反省とお詫び」はそこから始まる


「殺された人」「傷つけられた人」「辱められた人」「苦しめられた人」「奪われた人」それら無数の人々の「殺され方」「傷つけられ方」「辱められ方」「苦しめられ方」「奪われ方」を「わが事」として思い浮かべるそこからしか「反省とお詫び」は始まらない



 「首相談話」の骨子


 韓国併合(強奪)100年に当たって、8月10日、菅首相が「痛切な反省」の「首相談話」を閣議決定して発表した(「韓国併合に関する日韓条約」1910年8月22日調印)。朝日新聞は、この首相談話の原文も掲載しているが、その骨子を次のようにまとめている(番号は筆者)。


(一)韓国の人々は、植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷つけられた。(二)植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する。(三)在サハリン韓国人支援、朝鮮半島出身者の遺骨返還支援など人道的な協力を今後とも誠実に実施する。(四)日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌(ぎき)などの図書を近く韓国側に渡す。(五)両国は二国間関係にとどまらず、東アジア共同体の構築を念頭に置いた地域と世界の平和と繁栄のために協力してリーダーシップを発揮する。(六)両国のきずながより深く、固いものになることを強く希求し、不断の努力を惜しまない。(朝日新聞8月10日朝刊より)

 そして、朝日新聞は翌11日の「社説」で、この菅首相談話にたいして「併合100年という節目に焦点を当て、国家指導者が歴史認識を語り、将来に向けた期待と方針をあらためて示したことに大きな意味がある」と積極的に評価したうえで、両国は「歴史や領土問題をめぐって、わだかまりをまだかかえている。そんな問題をうまく管理し、和解と協調の新たな100年へ、この首相談話を礎石にしたい」と積極的な方向付けを行っている。

 この朝日「社説」には、首相談話への批判や指摘や注文はまったく見当たらない。微かにあるとすれば、ただ一言「談話に北朝鮮問題についての言及がなかったが」と言っているだけである。その一言も「不安定な北朝鮮情勢に対応していくためにも、日韓協調がさらに求められる」と結んでいるだけで、「北朝鮮」問題にたいする首相談話の欠陥や過ちを厳しく指摘する批判的な理性は見当たらない。しかし、私から見れば、菅首相談話は「反省とお詫び」には値しない偽善であり、これからの21世紀のアジアと世界にいよいよ本格的になってゆく「新しい帝国主義」の流れに沿うものとして厳しく批判されなければならない。

 そこで、先ずは、首相談話への批判を、一見些細なことと思える問題から始めてみよう。


 「略奪」を「もたらされた」と言いかえる侵略者精神


 首相談話は日本による併合(強奪)以前の朝鮮王朝の「儀軌」等について次のように述べている。

 「日本が統治していた期間に朝鮮総督府を経由してもたらされ、日本政府が保管している朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書について、韓国の人々の期待に応えて近くこれをお渡ししたいと思います。」

 この首相談話部分を考えるにあたって、首相談話が冒頭から数行後に、私は「歴史に対して誠実に向き合いたい」「歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さをもち、自らの過ちを省みることに率直でありたい」と、その文言自体は文句の付けようのない決意を菅首相が語っていることをも記憶しておかねばならない。

 そこで、「朝鮮王朝儀軌等の朝鮮半島由来の貴重な図書」のことだが、それらは「朝鮮総督府を経由」して「もたらされた」ものであろうか?(一)「経由してもたらされた」などとは全くの嘘ではないだろうか。本当の「歴史の事実」は、朝鮮を強奪して植民地支配した日本が朝鮮総督府を通して「奪ってきた」のではないだろうか。

(二)それ以来、日本政府が「保管している」という言い方も大いなる嘘ではないだろうか。「保管している」などという上品なことではなくて「我が物にしてきた」のではないだろうか。(三)「韓国の人々」の「期待」などとは、これまた恥ずかしげもない詭弁ではないだろうか。韓国の人々は日本が返してくれることを「期待」してきたのではなく、元の持ち主である朝鮮に「返せ!」と「要求してきた」のではないだろうか。(四)韓国の人々に「お渡ししたい」などと、しおらしく言える筋合いのものではなく、問答無用に犯した略奪行為への深甚のお詫びをこめて「お返しすべき」ことなのではないだろうか。

 かくして、首相談話のこの部分を俎上に上げただけでも、首相談話のもっともらしい「たてまえ」とは全く裏腹に、菅民主党内閣が、「歴史の事実」を「直視する勇気」も「受け止める謙虚さ」もないことを自分自身で明らかにしているのではないだろうか。かつての「侵略者・掠奪者=天皇制ニッポン」、そして、その天皇制的で官僚主義的な継承者にほかならない「戦後民主主義ニッポン」に都合のいいように「歴史の事実」を言い繕って、それを当然と思いこんでいる、あきれた侵略者根性が浮かびあがってくるのではないだろうか。


 奪ってきたものは全て返還すべきだ


 天皇制ニッポンが、朝鮮にかぎらず、暴虐の限りをつくしたアジア・太平洋の植民地や侵略地から奪い取ってきた歴史的遺物や建造物や宝物や書画などが、日本国内に数え切れないほど存在している。それら全国各地に存在する略奪物を事実通りに認識できる良心と直視する勇気と、元あった所に絶対に返還しなければならないと自覚する誠実さを、政府や関係筋はもちろん、一人ひとりの日本国民の誰もがもたないかぎり、犯してきた侵略と略奪の反省もお詫びも果たしたことには決してならない。さらに、一人ひとりの日本国民自身の「人としてのあり方」としても「真に人間らしい人間」へと自己改善を成し遂げたことにはならないはずである。


 さらに、菅民主党内閣が「首相談話」で表明した「痛切な反省とお詫び」を「本物たらしめよう」とするのであるならば、直接の「菅民主党政権」はもちろん、さらに「一人ひとりの日本国民」もまた、少なくとも、次の諸点を成し遂げていくことが求められる。


 「北朝鮮敵視」は「反省とお詫び」が大嘘である証し


 天皇制ニッポンは朝鮮民族にたいして侵略と植民地支配と暴虐のかぎりをつくした。その朝鮮民族の北半分をなす朝鮮民主主義人民共和国(略称「北朝鮮」)とその国民にたいして深甚なるお詫びと償いを果たしたうえで、友好と協調と連帯の国際関係を築きあげていくことに、如何なる国家よりも誠意を尽くしてこそ、戦後日本のあり方でなければならなかったはずである。にもかかわらず、その北朝鮮をまったく理不尽にも敵視しつづけて21世紀の今日に至っている。このような反理性的な日本政治のままで、その日本が、菅首相談話のように「反省とお詫び」をどんなに語ろうとも、それは「許されがたい欺瞞」以外のなにものでもない。いや、それだけにとどまらない。その「北朝鮮敵視の政治」自体が、朝鮮民族に暴虐のかぎりをつくした、かつての天皇制ニッポンの再現であり、その「おぞましき精神と政治」の「今日的な再生産」にほかならない。


 「北朝鮮敵視」を直ちに中止して友好平和条約の締結を


 日本の政府と国民は「北朝鮮への敵視」政治を直ちにやめなければならない。そして、朝鮮民族の不可分の一半として朝鮮半島の38度線以北に堂々と存在する北朝鮮の、その存在を黙殺したうえに締結した「65年日韓条約」の根本的な見直しと、韓国と北朝鮮の朝鮮民族両国家にたいする「友好平和条約の同時的締結」へと直ちに向かうべきである。


 侵略犯罪者の「追及と裁き」のない

 「反省とお詫び」は空文句であり犯罪者免罪である


 「天皇制ニッポン」時代の政治家や将官兵士や行政官僚や司法官僚や警察官そして普通の日本国民の中にも、植民地現地においてはもちろん日本国内自体においても、天皇制ニッポンの権力と軍事力の笠のもとに、弾圧や拷問や殺害や略奪や破壊や迫害や強姦をはじめ、ありとあらゆる残虐限りない反人間的行為をおこなった「不倶戴天の犯罪者」たちが数え切れないほどに存在した(今なお生存している者も少なくない)。


 これらの「侵略と戦争と植民地支配」下における日本国内外の凶悪犯罪を断罪しようとも追及しようともせず、その氏名と犯罪事実を特定しようとも糾弾しようとも罰しようともせずして、侵略と戦争と植民地支配の「反省とお詫び」を言葉だけでどんなに語ろうとも、それは「実体に裏打ちされない虚言」でしかない。

 さらに、天皇制ニッポンの侵略と戦争と植民地支配を正当化する反動的・軍国主義的・排外主義的・国家主義的な思想・理論や実践や施設などに対して、理性とヒューマニズムの頭脳と心をもって厳然と一線を画し、それらへの批判と克服の思想的・理論的・政治的な努力をおこなうという実体的営為のともなわない政権や国民が、どんなに「痛切に」「心から」と称して「反省とお詫び」の言葉を並べたてようとも、それはまさに「自他共に欺く詭弁」でしかない。


 「謝罪と補償」を完遂しない「反省とお詫び」は「偽善」だ


 天皇制ニッポンの「侵略と戦争と植民地支配」のもとにおける多種多様で数限りない「暴虐の犠牲者」への「日本の政府として」「企業などの関係団体として」「日本国民として」の「負わせた犠牲に等価する償いなし」には「反省もお詫び」も「口先だけの空念仏」でしかない。「戦時性暴力犠牲者たち(所謂「従軍慰安婦」にされた女性たち)」・「強制連行・強制労働の犠牲者たち」・「日本軍兵士にされて戦場に駆りだされた犠牲者たち」・「ヒロシマ・ナガサキで被爆しながら無視され続けている在韓・在朝の被爆者たち」はじめ「天皇制ニッポンの暴虐の犠牲者たち」に対する「償い」は、その「義務として道義としての『償い』の思想」は今なお明確には確立していない。その具体的な補償も未だほとんど成し遂げられていない。

 これらの人びとへの「謝罪と補償」を日本政府と国民が誠実に実体的に完遂しないかぎり、「痛切に!」「心から!」の美辞麗句をもって飾り立てれば立てるほどに、首相談話の「反省とお詫び」は「偽善!」でしかない。


 「反省とお詫び」を突きつめれば

 「9条国家」への構造変革が迫られる


 さらに、「反省とお詫び」が本当の意味で「真実であろう」「徹底的であろう」とするならば、その「反省とお詫び」は「構造的であるべき」である。すなわち、「侵略と戦争と植民地支配の構造」と、そのもとでの「無数の暴虐を生みだした構造」そのものを「克服しない」かぎり「侵略と戦争と植民地支配と暴虐」はなくならない。

 「侵略と戦争と植民地支配と暴虐」の「戦争主義国家」から「非武装戦争放棄」の「平和主義国家」へと、戦後日本の「国家構造が根本的な変革を遂げて」こそ、「反省とお詫び」はその「実体的な根拠」と「未来への保障」を獲得できるのである。

 「非武装と戦争放棄」の「憲法9条」がその「構造変革の憲法規範」であった。その「9条国家」の実現と展開がこの「構造変革の実体」となるはずであった。しかし、戦後日本は憲法規範どおりの「絶対平和主義の9条国家」として堂々と立つことも展開することもできなかった。それどころか、全く逆に「武装と参戦」の国家、すなわち「反9条の国家」=「戦争のできる国家」、いや更に、帝国主義アメリカに隷従しながら「戦争している国家」として、21世紀世界に立っているのである。

 そうであるならば、菅民主党政権の首相談話「反省とお詫び」とは、その「変革された構造的実体によって支えられた」ものではなく、「実体なき空文句」ではないだろうか。首相談話は「未来をひらくために不断の努力を惜しまない決意を表明致します」(原文通り)と「未来志向」で結んでいる。しかし、その「未来志向」を裏打ちする「構造的実体」は「何一つとして存在していない」のではないだろうか。

 いや、それだけではなく更に、全く逆の「武装と戦争の構造」こそ、菅民主党政権が「反省とお詫び」を語っているその瞬間の「21世紀日本の実際的構造」なのではないだろうか。

 この天皇制ニッポンに等しい「武装と侵略と戦争の帝国主義国家」から「絶対平和主義9条の実体化」としての「非武装と戦争放棄の平和主義国家」へと「構造転換を遂げてゆかない」かぎり、首相談話「反省とお詫び」は無「実体」で非「未来志向」の空文句でしかないのである。


 侵略への「反省とお詫び」を語りながら

 日本は再び侵略者なのではないだろうか


 さらに、日米安保体制によってアメリカの世界覇権戦略に思想的にも価値観的にも政治的軍事的にも緊縛されて、帝国主義としてのアメリカへの「隷従国家日本」=「隷米ニッポン」に堕落してしまっているのであるから、これまた、「反省とお詫び」に値しない日本になり下がってしまっているのではないだろうか。

 かつての「天皇制ニッポン」の「侵略と戦争と植民地支配と暴虐」への「反省とお詫び」とは、実際には「痛切に」や「心から」どころか、単なる言葉だけの「その場しのぎの詭弁」でしかない。いや更に、「侵略の軍事基地化した日本」・「侵略の従者・日本」という事実を覆い隠す「政治的な欺瞞」としか言いようがないのではないだろうか。

 この「隷米ニッポン」は、帝国主義アメリカの「アジア・太平洋戦略のための米軍基地」として「沖縄を差し出す」ことによって、日本はまたも「沖縄への侵略者」になってしまっているのである。沖縄を犠牲にして「帝国主義アメリカと共」に「新たなアジア・太平洋戦争を行っている」のである。

更に、その日米安保体制下に日本を隷従させている帝国主義アメリカが行いつづけている「韓国への軍事支配」と「北朝鮮への敵視戦略」を「隷米ニッポン」が「共にする」ことによって、その日本は、朝鮮半島と朝鮮民族の人々のまえに、またも「侵略者!」として現われているのである。「隷米ニッポン」は「反省とお詫び」の必要なかつての「天皇制ニッポン」と本質として同じことなのである。かつての「天皇制ニッポン」と今日の「隷米ニッポン」との間には姿形と方法に違いはあっても、今日の日本は依然として「朝鮮への侵略者であり戦争者であり植民地主義者」なのである。

 菅民主党内閣の「韓国の人々」への「胸痛む」「心から」の「反省とお詫び」とは、それじたい、朝鮮民族にたいする、その一半の「北朝鮮を敵視したまま」での片面政治である。北朝鮮に対しては、かつての植民地主義精神を継承したままでの「新たな侵略と戦争」の帝国主義政治なのである。今生きるところが「韓国」であろうと「北朝鮮」であろうと、朝鮮民族の人びとが、このような上辺だけの「反省とお詫び」の首相談話を「真実のもの」と受け止めると思いこむ精神それこそが「帝国主義的!」なのではないだろうか。


 隷米ニッポンから脱出して9条国家日本へ

 「新たな飛躍」を遂げてこそ真の「反省とお詫び」なのだ


 「隷米ニッポン」から脱けだして(一)「絶対平和主義の9条国家日本」の実現と(二)「アジア・太平洋・世界に絶対平和主義の政治」を堂々と展開する「自立・自主・絶対平和主義の日本」へと「新たな飛躍」をとげてこそ、村山「首相談話」以降の「反省とお詫び」もまた「空文句から実体」へと「新たな飛躍」を遂げることができるのではないだろうか。


 国家という魔性の蟻地獄だからこそ「徹底民衆主義の道」だけが「反省と

 お詫び」の人間的実体をなすのである


 しかし、菅民主党政権にあっては、それが根っからの「空文句である」からこそ、菅直人首相は8・6ヒロシマで「核兵器のない世界の実現に向けて先頭に立って行動する道義的責任を有していると確信いたします」と格調高く首相「あいさつ」した、その舌の根も乾かぬ、その日のうちに「核抑止力は我が国にとって引き続き必要」(記者会見)と、その政治姿勢を明暗一転させたのである。

 「市民運動」出自の政治家・菅直人氏が、その本来の民衆主義に徹しようとせず、総理大臣への幾多の政争の階段を登りつめたとき、そこで避けがたく滑り落ちたのが「国家という魔性の蟻地獄」であった。かつて、社会党委員長であった村山富市氏が権謀術数の政争の渦中で国家の頂上に立たされた、その瞬間に、「自衛隊容認9条放棄」で往年の社会党を滅ぼしたのも、この「国家という魔性の蟻地獄」であった。

 「魔性の国家蟻地獄」にひきづり込まれず、全てを「自分のこと」として見つめ、考えぬき、「自分のこと」として行動する「自覚した個人」こそが、「反省とお詫び」の人間的実体なのである。

(10・08・21)