THE  POWER  OF  PEOPLE

 

ハンセン病問題  群馬「同舟塾」高橋扶吉


ハンセン病問題で問われているものは


「無らい県運動」の検証とヒューマニズムのこころ


 私が、ハンセン病問題に携わったのは63才を過ぎてからでした。3年前「人民の力」結成35周年記念、上信越・東海ブロック合宿講演に「信州沖縄塾」塾長の伊波敏男さんから「少数者の中から見える社会」〜故郷は沖縄・烙印はハンセン病〜というテーマで講演を受けてからでした。

 伊波さんは、1957年中学2年生の時、ハンセン病を宣告され、家族から切り離され沖縄愛楽園に収容されました。

 愛楽園では、希望を失った大人たちを見た時、同じような境遇になるかと思うと、夜が明けるのが怖かった。向学心の強い思いが、岡山療養所内にある中期高等学校へ向かわせた。「らい予防法」では、住所、移動の変更は禁止されており、両親の手助けを受けて、パスポートを入手し、沖縄を脱出した。その後、1966年、岡山邑久高校を卒業、1969年に中央労働学校を卒業した。

 学校にいた頃から外へ出て普通の生活をしたいとの想いが強く、その時、社会福祉法人東京コロニーに出会い、そこに入所し、1995年執筆活動で退職するまで働いていた。

 コロニーに在職時、結婚し子供をもうけたが、妻が勤務するハンセン病療養所内にある保育所に子供を預けようとしたが、園児の父母や保育所の管理者から入所を拒否されてしまった。当時の労働組合もその差別を容認していた。官舎も住みづらくそれがかさなり家庭崩壊を余儀なくされた。

 コロニー退職後、執筆活動と全国を講演する毎日であった。それは、哀れみを受けて生きるより、厳しい社会に立ち向かって生きて行きたいこと、全ての者が生きる権利があり、障害者が自由で明るく生きていけるような社会に作り変えたいと言う信念が、今私を支えている(『人民の力』837号P6抜粋)。

 ハンセン病は、1943年、アメリカでプロミンが有効であると発表された、日本では、1951年から全ての病人に投薬をされるようになりましたが、1907年に法律「らい予防ニ関する件」制定されて以降、廃止されるまで89年の長きにわたり、悪法が生きつづけ差別が繰り返され、病人やその家族の人権が奪われ、多くの被害者を生み出してきました。

 偏見を植え付けた責任は、明治以来の医療政策にあり、社会防衛という特別な法律を作り、ハンセン病者に特別な烙印を押したまま、その人たちの人権を奪い、特別な隔離地で閉じ込め、病み捨てにしてきました。国民もまた、この病人の悲鳴にも耳を貸さず、「無関心」という対応で国の過ちを許してきました。2001年熊本裁判は違法性も認め、国に賠償責任を命じました。日本のハンセン病問題が問いかけているのは、国民ひとりひとりの「責任」という重い課題です。私たちは、人間の尊厳と人権を奪われた人たちの悲しみや怒りを、決して無駄にしてはなりません。わが国のもうひとつの歴史の過ちから学び、二度と同じ過ちを繰り返させないようにするべきです。と語られた。

 自分の無知を恥じると共に、ハンセン病と向き合い、社会復帰された意志の強さと、人を想いあう優しい心、伊波さんの生き方を学ぶと共に、私たちが、ハンセン病問題とどのように向きあって行くか重い課題を受け止めて行かなければなりません。


 ハンセン病市民学会の第3回総会と交流会

 療養所を地域に解放して市民との「共有」を


 ハンセン病元患者の高齢化が進む中、療養所の将来をどう描くか。第3回ハンセン病市民学会が群馬県草津町で開かれ、ハンセン病隔離政策の象徴だった療養所を社会に開く道筋が議論された。

 全国13の国立ハンセン病療養所の入所者3000人を切り、平均年齢は78・8歳、毎年200名以上がなくなり、10年後は1000人を切るのではないかと言われている(『栗生楽泉園』09年現163人、平均年齢80歳)。

 ハンセン病国家賠償請求訴訟原告団弁護士、元患者らと療養所の「将来構想」を検討している赤沼康弘弁護士は、療養所を社会へ解放することが、真に隔離政策を終らせること。(市民も)自分達の問題として、立ちあがってほしいと訴えた。

 ただ、家族にまで及ぶ過酷な差別に苦しみ、故郷を追われた元患者にとって、療養所は「第二の故郷」という側面がある。元患者の発言からは、社会に対する不信も浮き彫りになった(『信濃毎日新聞』07年5月28日)。

 入所者達の、社会に対する不信、社会復帰され、口を閉じて息を潜め、過去を消し、そして社会に粉れ込むことで生きようとする。元患者さんたちの不信を解き、社会復帰をはばんでいる原因の社会の中に根強く残っているハンセン病への偏見と差別を克服することが私たちに問われている。

 日本のハンセン病(らい病)者の歴史は、排除と抹消の歴史でした。ハンセン病との理由だけで「強制隔離され、患者への強制労働・監禁・強制断種・強制堕胎」など強制隔離政策によって、人権侵害をされてきました。

 1951年全国癩患者全国協議会(のち全患協全療協に改称)が結成され、療養所内の改善要求をかかげながら施設内の改善をしてきました。

 96年に強制収容や隔離の根拠法とされた「らい予防法」は廃止と、歴史的な熊本地裁の2001年5月11日違憲判決を勝ち取る。入所者や想像を絶する数々の苦難と信念と勇気を持って闘いぬかれた原告団と弁護士団や支援者との信頼と絆があったからこそである。

 栗生楽泉園入園者自治会の谺雄二副会長は、施設を開放すれば、病気への偏見で社会に出られない入所者を寮養所ごと社会復帰させることになると話をしている(『毎日新聞』08年1月20日)。

 私たちが、心を開き、入所者との交流を深め、共に歩くことを通じて、ハンセン病問題の理解を深めてゆかなければなりません。


 生きる場からの協働でヒューマニズムを目指して


 ハンセン病は、らい菌で起こる慢性の感染症である。この菌は結核菌と似た抗酸菌であるが、菌力は弱く、成人にはほとんどうつらない。生活が向上をして衛生環境や栄養が良くなれば、患者は激減する。感染はほとんど乳幼児期の濃厚な接触で起こり、潜伏期間が長いので「遺伝」と誤解されていた。もともと厳重な隔離などは必要がなかった病気である。

 日本では、1946年から特効薬プロミンの臨床研究がはじまり、1951年から全ての病人に投薬されるようになりました。

 その後の国際的な治療方針は、経口薬剤(Dapson)が開発されたことにより、一般病院で治療が受けられるようになりました。現在の治療法は多剤併用療法「MDT」(リファンピシン、DDS、B663)によって行なわれ、投薬後、2〜3週間で菌を抑えることができるようになり、完全に治る病気となりました。

 わが国では、医療、社会、経済、文化、特に生活環境などの進歩にしたがい、ハンセン病は終息に向かい、現在の新発患者数は年間10名以下となりました(伊波さん講演資料)。

 しかし、政府は「強制収容・絶対隔離」の政策を強めた。日本が軍国主義・戦争へと推し進めるなかで、「優れた民族である日本人」(優生思想)にあってはならない悪病とされました。1931年の「癩予防法」に、入所の決まりがあっても退所の決まりがなく、治っても、外に出られない法律で、「療養所でなく監視を目的の療養所」として世に隠されてきました。

 さらに、子孫を作らせないため、結婚の条件に断種を、強要された(強制堕胎された胎児、ホルモン漬け標本残っていた115体)。非人間的な政策が進められてきたのです。根絶のためには唯一の手段として、「無らい県運動」が提唱され、村から、町から、県から、全国で病気を無くそうと、自治体が患者を発見したら強制的に療養所に送る運動が展開された。警察の力を持って、患者を探し連行をした。患者の居たところは石灰を撒き、歩いた道筋まで消毒をし、周囲に危険な伝染病だと言う意識を植え付けてきた。そのことが、偏見と差別を助長させてきました。ハンセン病問題は、国家で作り出した偏見と差別であることを忘れてはなりません。

 ハンセン病問題を「無らい県運動」の検証活動を、地域での諸団体や人士や人々と協働行動で進めながら、歴史に学び、生活の場から求めて、人間の尊厳と人権が尊重される地域・社会を目指してゆかなければと、ハンセン病問題から学ぶ教訓としている。(11月1日)


【参考文献】

『花に逢はん』伊波敏男著(NHK出版)

『ハンセン病に生きて』伊波敏男著(岩波書店)

『病癒えても』寺島萬里子著(晧星社)

『差別とハンセン病』畑谷史代著(平凡社)

『人民の力』837号、06年夏合併号