THE  POWER  OF  PEOPLE

 

非正規労働者と国鉄闘争 池田晴男


労働者の団結権を破壊し

   「無権利」状態をつくりだした「国鉄改革」


  今こそ、非正規労働者と連帯する

  国鉄闘争をつくりあげよう!


 季節は春。野山には待ちかねたような木々や草花の芽吹きが感じられる。道ばたでさえいたるところで生命の躍動が感じられる。

 季節は春であるにもかかわらず、この社会、寝るところや三度の食事にありつくことすらままならない労働者が増えつづけている。厚生労働省の調査でさえ3月だけでも3万7千人が職を失っている。さらに、昨年10月から今年の6月末までに職を失う見込の者は19万2千人に上るという。加えて、新年度を迎えても派遣労働者の契約解除、雇い止めは歯止めがきかない事態となっている。

 資本による雇用破壊、労働者への犠牲転嫁は、この春、高校や大学を卒業し希望に燃えて新社会人の仲間入りをするはずだった学生にも襲いかかっている。就職内定を取り消された今春卒業の高校生、大学生は2千人近いのだ。社会人としてのスタート時点で、すでに夢も希望も奪われている若者たちの不安や焦燥は深まるばかりである。

 労働者がこのように働く権利を奪われ、生存権すら脅かされるまでに到った背景には、国鉄解体にともなって行われた体制側の国労潰し攻撃と、これをテコとして総評を解体し、日本の労働運動総体を労使協調路線へと再編・統一させようとしてきた体制側の戦略があった。労働者が消耗品のごとく扱われ、切り捨てられていっているにもかかわらず労働運動全体の闘いへと発展しない今日の現実は、その意図が貫徹してしまっていることを証明している。

 国鉄闘争は、体制側の総体重をかけた国労潰し攻撃との闘いであったが故に、ILO勧告や自治体議会決議など早期解決に向けた国内外の世論を政府に集中させながら、大衆行動や司法の場で国の責任を徹底追及し政治の責任での解決を実現させようとしてきたのであった。


 労働者の広範な力で東京高裁「3・25判決」の限界を乗り越えよう!


 3月25日、東京高裁で、鉄建公団(現鉄道・運輸機構)を被告として提訴したJR採用差別事件の控訴審判決が出された。東京高裁は採用差別の不当労働行為を認定しておきながら、「不当労働行為がなかったら必ず採用された」との因果関係は立証できないとして解雇無効を認めなかった。他方で、被告・鉄建公団側の「消滅時効」論を排斥しつつ精神的な損害賠償として550万円の支払を命じた。ただそれさえも、一部の原告については損害賠償額を減じたり請求を棄却する不当なものであった。

 東京高裁の判決は、採用差別によって生活や人生を破壊された当事者の要求にはほど遠い内容である。不当な採用差別によって20年以上もの長期にわたる苦闘を強いられている労働者を、法の名によって救済するのが司法の使命であった。「3・25判決」は、東京高裁が司法としてのその責務を放棄したものであり厳しく批判されねばならない。

 このように、国鉄による不当労働行為を認定しておきながら解雇の無効にまで踏み込まず、「採用に対する期待権の侵害」に止まる判決には司法のもつ限界性と果たしている役割がハッキリと現れている。雇用主による不当労働行為のやり得を許さないためにも、救済は原状回復が原則である。裁判闘争の中では闘争団員や遺族は不当労働行為の数々を具体的な事実を持って明らかにした。相手側も否定することはできず、裁判官も認めざるを得なかった。にもかかわらず不当労働行為による原状回復も不法行為に見合う充分な損害賠償も行われない。東京高裁判決をもってしては不正義は是正されないのだ。そのことをよく知っているがゆえに南敏文裁判長は、「判決を機に1047名問題が早期に解決されることを期待する」と、真の解決を政治解決に「委ねる」コメントを付け加えざるを得なかったのである。

 あらためて、このことを大衆行動の中で徹底して暴露宣伝し、国家的不当労働行為を追及してこそ国鉄闘争にとって裁判闘争の意義は大きなものとなる。

 そして、ときは09春闘期にある。

 多くの労働組合が賃上げ要求を軸に労働条件などの改善や社会的な課題の解決を求め、連帯し、集中して闘いに起ち上がる時期である。とりわけ、昨秋から激増している非正規労働者の首切りを許さず生存権を守ることは、待ったなしで取り組まなければならない日本労働運動の喫緊の課題であるべきなのだ。


 労働者は闘いを通じてしか希望を見出せない

    非正規労働者の痛みを共有する国鉄闘争を


 国鉄解体攻撃で国労が弱体化させられ、総評は解体した。労働運動総体が労使協調の闘わない方向へと大きく舵を切った。われわれが国鉄闘争を闘ってきたこの20余年を振り返ると、利潤追求至上主義の資本が経済のグローバル化に労働市場を合わせようとしてきた時代であり、労働運動の再編・統一はそのための地ならしだったのである。

 政府・自民党は労働法制の改悪をもって労働の流動化をはかり、この資本の要請に応えようとしてきた。85年に強行された「労働者派遣法」が、反対を押さえるため派遣を26業種に限ったのであるが、99年の改正では対象職種は原則自由とされ、04年には製造業までもが解禁となった。こうした法改正にも後押しされて、企業はおおっぴらに正規職を減らし「首切り自由」の非正規労働者へと置き換えていったのである。

 これによって「日雇い派遣」や「細切れ派遣」など、生活設計すらままならない雇用形態で働かざるを得ない労働者が急増することになった。しかも驚くべきことに、日本では失業者の77%が雇用保険の給付なしで路頭に放り出されているのである。

 さらに深刻なのは、労働運動総体がこのような労働者の置かれている現実に目を向け、自らの課題として真剣に闘おうとしていないことである。

 非正規労働者の置かれている現実に眼を向け、働く権利と生きる権利を守り抜くための闘いとして目下の09春闘は位置づけられなければならなかった。しかし労働組合の多くは、早々と経営側と妥結し春闘の旗を降ろし始めている。社会的連帯の取り組みは労働運動の存在意義を問う核心であるはずなのに、である。

 今や国鉄労働者と国鉄闘争の課題は明らかである。1047名採用差別事件を柱とする国鉄闘争を闘うことは、この20年の中で公然と形骸化されてきた労働者の団結権と生存権を守る闘いであり、すべての労働者の〝生きる〟闘いに連なるものでなければならない。生存権すら保障されない非正規労働者の痛みを共有し共に闘うことこそ国鉄闘争の課題である。

 今、全国の闘争団は、派遣切りや契約解除などの首切り攻撃によって路頭に放り出され、寝るところや三度の食事もままならない非正規労働者との連帯の道を歩み始めた。この闘いを国鉄闘争総体の闘いとしてつくりだし、発展させなければならない。20余年の間、国労潰し攻撃に屈せず、「不当な首切りは許さない!」「団結権の侵害は許さない!」との旗を掲げ闘い続けてきた国労がその闘いの先頭に起ち、軸となってこそ敵の戦略的な攻撃と真の意味で対抗できると考える。厳しい春ではあるが、われわれはその道をさらに全力で追求しなければならない。