社会主義考194二本足で歩こう人民の力代表 常岡雅雄


イヤホンを外して 世界の声を聞こう

「生きる」ことは「還る」ことだ


地球人として生き 地球人に還ろう


横浜「いずみ野」の人民の力全国事務所


 僕たち「人民の力」は、44年前の一九七一年七月十五日に蝉の声を聞きながら東京の高尾山のユースホステルで結成した。

 その僕たち人民の力の全国事務所は横浜のいずみ野(泉区和泉町)にある。

 宅地化が急激に進んでいるが、辺りには、まだ往年の牧歌的な田園地帯の雰囲気が残っている。遠くには丹沢の山塊がうねって相模湾に落ちている。遠くには富士山も見えるが、美しく整い過ぎて面白味がない。アメリカに占領されたままの「厚木基地」の轟音が遠慮会釈なく連日響きわたる。

 川を一つ越えれば都市化著しい「近代的な発展都市」=藤沢市だ。

 三浦半島も葉山海岸も城ケ島も江の島も鎌倉も遠くはない。

 全国事務所は五階建ての集合住宅(グリーンハイムいずみ野)の最上階(5階)だ。エスカレーターもエレベターもない。

 上り下りには、10年前に保土ヶ谷から越してきた頃にはどうもなかったのに、近頃では、息切れがするようになった。


イヤホンを外して世界の声を聞こう


 このグリーンハイムいずみ野を出て相鉄線「いずみ野駅」とは反対方向にしばらく歩くと小さくなだらかな丘陵地帯にゆき着く。まだ薄の原っぱや竹林の残っている「いずみ台」だ。この「いずみ台」に一つの県立高校がある。

 僕の左足は数年前に梯子から落ちたのをきっかけに、事あるごとに四回も折れて使い物にならなくなってしまっている。その情けない左足の訓練のつもりで、正月明けに「いずみ台」をぶらぶらしていた。

 ところが、この県立高校をかこむ金網の塀に、「イヤホンを外して世界の音を聞こう!」という「呼びかけ」がかかっていた。生徒の手で書かれたらしい、粗末だが、勢いのいい、「呼びかけ」がほぼ5メートルおきにかけられている。

 「イヤホンを外して世界の音を聞こう!」

 嬉しくなった—その通りだ。

 ぶらぶらになってしまった左足の痛みも忘れてしまうほどに心が躍った。この「呼びかけ」につくづくと見入ってしまった。


なんと明快な心と頭脳であろうか


 なんと素直な、青竹のように、真っ直ぐな思いであろうか。

 どんな誤解の隙間もない言葉ではないだろうか。どんなにひねくれた詭弁も言い掛かりも、口をはさむスキもない言葉ではないだろうか。わずか一ミリの言い逃れも誤魔化しもきかない言葉ではないだろうか。

 なんと堂々とした姿勢であろうか。なんと真正面からのチャレンジであろうか。

 どんな敵意が襲ってこようとも、どんな否定の壁が張りめぐらされていようとも、この真っ直ぐな青竹のような明快さには一瞬の太刀打ちもできないであろう。どんな嘲笑も皮肉や冷笑も、この満月の輝きのもとでは、影の一片さえも残らないであろう。

 このような清々しい若人(高校生)たちが、横浜のはずれの「いずみ台」にはいたのだ。

 僕は、この素晴らしい高校生たちとともに生きることができるのだ。この高校生たちのうしろから歩いてゆくことができるのだ。昨年の秋、八神純子の歌う「私の地球」を聴いたときとひとしい天にも昇る心地(ここち)だ。

 私は、地球に生まれ、地球に還る。

 40年も前の歌だそうだが、いまでも、いよいよ新鮮だ。

 いや、百年も二百年も先を行っている。

 そうだ!

 僕も自分の思いを堂々と語らねばならないのだ。自分の歌を歌わねばならないのだ。

そうだ—僕のうたそれは—二本足で歩こう!


二本足で歩こう


 僕はもともと車を運転したことがない。ずーと、この歳まで、天然の二本足で生きてきた。その生まれた時のままの二本足で生きてきた。天然の二本足こそ人間社会の成立の動力原理なのだ。


 そうだ—アスファルトとコンクリートの下に埋められてしまった、小さな川の流れを、僕の周りに生き返らせよう。


僕の周りに種をまこう—森をつくろう。林をつくろう。草原をつくろう。


 草を植えよう—そうだ「草」を植えよう!

 一つひとつの草の名前を覚えよう。

 道端に生い繁るさまざまな草を、「雑草」などと、一つにひっくるめて言い捨ててきた僕の思い上がりに、その草たちは怒っているだろう。

 僕は、その草たちにお詫びしなければならない。草たちの一つひとつ、一本一本が「自分自身の名前」をもっているはずだ。


そして、小川を見つけたら、小川に踏みこんで水につかろう。小川の木陰で泳ごう。


 もはや遙か遠くなってしまったし、もはや帰るところでもないのだが、僕の生まれ故郷にも、きらきらと輝いて流れる小さな小川が流れていた。雨の日には蟹が湧いて出た。

晴れた日にも小川の小石をめくれば必ず蟹が潜んでいた。

 岸の草陰には小魚いた。採って帰った。腰も二つ折りに曲がってしまった、字も読めない「ばーちゃん」が煮てくれた。僕が食べるのをみて、目を細めて喜んでくれた。

 「ばーちゃん」の息子や娘たちは育つにつれてバラバラになってしまった。

 そのうちの一人はブラジルで生きていたという。


 人(ひと)はどこででも生きてゆく。

 人(ひと)にはもともと「人種」も「民族」も「国家」も「宗教」もない。

 人(ひと)はみな地球に生まれ地球に還ってゆくのだ。

 人(ひと)はみな「地球人」なのだ。

THE  POWER  OF  PEOPLE