THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考167東アジア平和共同体への道 常岡雅雄


天皇制人間・近代主義人間・資本主義人間・隷米人間という

反理性的人間から 自分を根本的につくり変え


「非武装・戦争放棄」「日米安保破棄」の

「憲法9条=平和主義日本」創りへ


今再び—万国の労働者に領土問題はない


 私は前回の「社会主義考166」(本誌2012年10月1日号の「巻頭言」)で、いよいよ日本「国家主義」に狂騒する日本メディアとして竹島(韓国名「独島」)問題と尖閣諸島(中国名「釣魚島」)問題をめぐって、例えば「日本ルネッサンス拡大版—国防の危機!尖閣を守れ」(週刊新潮9・27、櫻井よしこ)・「中国が攻めてくる—日本人よ、闘いますか」(週刊現代10・6)・「尖閣に自衛隊を常駐させよ」「もう日中戦争は始まっている」(月刊Will緊急増刊号)をはじめ、「一触即発の戦争の危機」を煽りたてる日本メディアの反理性的で無責任な狂騒の一端を批判的に拾いあげながら「暴虐と戦争への道」は「国家愛と領土愛」で敷き詰められている万国の労働者に領土問題はない日本国民よ、理性人間たれ!と説いて、次のように、「東アジア平和共同体づくりの道へ」と提起した。


(一)前掲の日本メディアの狂騒に見るように、今日の日本のブルジョア支配階級勢力や帝国主義者たちは「日中間の対決と戦争」に通じる「国家主義と領土主義」を軽率に煽っている。黙々と困苦のうちに日々を生きる「普通の人々」はこれらの卑劣で無責任な煽動を軽信して「対決と戦争の道」に誘い込まれたり陥ったりすることがあってはならない。

(二)「尖閣に日米安保を適用」などと言っている帝国アメリカに騙されてはならない。南北戦争以来の帝国アメリカの成立と発展(「太平洋侵略」)の「究極の果て」として「巨大な中国の壁」にぶつかった帝国アメリカは「尖閣に日米安保の適用」と称して「対中国」帝国主義政治に日本を利用しようとしているのである。「日米安保」という「隷米日本のくびき」を打ち払って「真の9条国家」=「非武装・戦争放棄を厳守する絶対平和主義国家」として毅然と全世界の前に立ち「絶対平和主義政治を堂々と全世界的に展開する」ことこそ「現下の日中韓領土」問題が日本に提起している課題にほかならない。

(三)「現下の日中韓問題」に当たって、日本の労働者・民衆や社会主義者は、(1)「領土問題」などという愚かな「国家主義」「国民主義」に陥って卑劣なブルジョア支配階級や帝国主義者に利用されることではなく、(2)「東アジアにおける諸国家・諸民族の平和=戦争放棄と協力協調」と「全世界の諸国家・諸民族の平和=戦争放棄と協力協調」のための「東アジア平和共同体(仮称)の構築」にむかう「毅然たる姿勢」を確立し「堂々たる営為」を行うことである。


「明治以降の日本」こそが「反日」の「原因」なのだ


 領土問題で東アジアが波立っている。

 今にも戦争が勃発するかと思わせるような危機的雲行きの今、日本国という国家に問われているのは何であろうか? 中国や韓国によって、あたかも日本が攻撃され、侵略されているかのようにメディアは「反中国」・「反韓国」を連日煽りたてている。日本は「受け身の被害者」であって、中国や韓国が「攻撃者である」、かのように煽りたてている。

 だが、日本国として忘れてはならないことがあるのではないだろうか。曖昧にしてはならないことがあるのではないだろうか。中国や韓国の「非」を言う前に、明治以降の「近代日本が朝鮮・中国に対して犯してきた」「自分自身の非」こそ、日本は、事実通りに見つめ、反省し、中国、韓国にたいしてお詫びと償いをしなければならないのではないだろうか。

 明治維新によって、アジアにおいて他国に一歩先駆けて近代化を遂げた近代日本。欧米列強の仲間入りした天皇制日本=資本主義日本。

 その先進近代化した力と資本主義的優位性をもって、朝鮮・中国をはじめとするアジアの諸国と諸民族にたいして戦争と侵略と植民地支配と暴虐の限りを尽くしてきたのが近代日本であった。

 その近代日本が朝鮮・中国をはじめとするアジアにたいしてくりひろげた戦争と侵略と植民地支配と暴虐をこそ、日本は「罪の意識」をもって直視しなければならないし、深甚なる反省とお詫びをしなければならないはずである。しかし、戦後の日本国家はそれを素通りして、覇権国家アメリカに隷従することによって、再び「資本主義大国として復活」してきたのであった。

 「近代日本=天皇制日本=資本主義日本=帝国主義日本」はそのアジアの国家と人々の屈辱と辛苦と憤懣を忘れてはててきた。日本の戦争と侵略と植民地支配と暴虐に苦しめられた朝鮮や中国の人々が「反日」の怒りと行動に走るのは当然にも理由のあることなのである。あるいは、それら諸国の国家や人々が、再び戦争と侵略と植民地支配と暴虐の惨禍にあわないために、主体的に強力な国家意識や民族意識に燃えるのは当然のことなのである。

 また、帝国アメリカ主導の戦後世界にあって、資本主義競争において資本主義としての先進国日本に、後発の資本主義国家としての中国や韓国が劣勢に陥るのは資本主義競争の展開として避けがたいことである。それがもたらす劣悪な、あるいは惨めな境遇が、それらの国の人々を、日本企業の製品にたいする破壊や日本企業の工場・商店などへの襲撃などに傾斜させるのは理由のあることである。

 いずれにあっても、歴史的かつ構造的に理解するならば、中国や韓国の国家や人々の気持ちと行動は「結果」なのであって、明治以降の近代日本の思い上がった心と冷酷凶暴な行いこそが「原因」なのである。

これこそが事態の真実なのだ。問題をこんがらがらせてはならない。原因と結果を取り違えてはならない。


東アジア平和共同体創り—その鍵は日本にこそあり


 日本という国家は根本から変わらなければならない。

 明治以降の天皇制日本—そして、その延長(天皇制の存続)でありながら、いや延長だからこそ、帝国アメリカへの隷従国家へと堕落してしまった戦後日本。「帝国アメリカに隷従する」ことと「近代主義と資本主義」—すなわち、ただそれだけが価値観となり果ててしまった日本。建設的な価値観を「持つことのできていない」戦後日本。

 明治以降の「天皇制的・資本主義的・帝国主義的な所業」の結果として、アジアで憎しみと怒りと敵意の蟻地獄に落ち込んでしまっている日本。—この「負の日本」を清算も克服もおこなおうとせず、「このままの日本」にとどまる日本に明るく溌剌とした、正義と倫理性のつらぬく健康的な日本を期待することはできない。

「日本という国家」は、真の意味での「9条国家=平和主義国家」日本へと「創り変える」ことによって、東アジアにはもちろん世界の「信頼される国家」になってゆかなければならない。中国・朝鮮をはじめとした東アジアにおける「平和的共同体の建設」を可能にする鍵は「9条国家=平和主義国家」へと「自己変革を遂げた日本」にこそあるのである。また、「日本の明日」は東アジアにおける平和的共同体の中にしかあり得ない。


「悲哀の海の弱者」の心と行いこそが

「平和と友愛の東アジア」を創る


 「日本国という国家」を「9条国家=平和主義国家」へと「創り変える」鍵はどこにあるのだろうか。誰がその鍵を持っているのであろうか。もちろん、「国家の実体」こそがその鍵である。では、その「国家の実体」とは何だろうか。誰であろうか。言うまでもなく、それは「国家を構成する人々」にほかならない。

 ひたすら「勝者アメリカへの卑屈な敗北主義根性」=「勝者アメリカへの隷従根性」をもって戦後日本を「隷米日本」として復活させ構築し指導してきた、戦前からの生き残り、あるいは戦後新生の天皇制政治家・官僚群やブルジョア支配階級が、「隷米日本からの脱却」や「東アジア平和共同体づくり」のできるはずがない。「日本国家を構成するもの」のなかでも天皇制的な政治家や官僚及びブルジョア支配階級ではなく、その戦後日本国家の中でも抑圧され支配された労働者・農民・中小企業家・中小商人・知識人・学生はじめの「普通の人びと」こそが「東アジア平和共同体創り」の有資格者であり牽引者である。しかも、今日の日本社会は、縦にも横にも幾重にも階層化し波状化した矛盾による「人々の深刻な悲哀の海」のほかならないのである。

 その階層化し波状化した矛盾による「悲哀の海」の「最深海底からの弱者」の社会的にはもっとも根本的な「思想と実践」こそがもっとも友愛的で平和的なのである。そうした「弱者の思想と実践」だけが「東アジア平和共同体への道」をきりひらいてゆくのである。

(2012年10月28日)