THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考148 東日本大震災と福島原発事故 常岡雅雄


天災と人災がもたらした複合悲劇


一人も漏らさぬ救済と保障へ

そして大きく日本大改造へ



 犠牲となった人々に

     心からの哀悼と同情の思いを捧げます


 突如大地を揺るがして勃発した「マグニチュード9・0」の史上稀にみる巨大地震が、大地を引き裂き鳴動させて、家もビルも街も道も崩壊させてゆく。その未曾有の大地震に押しあげられた太平洋の海水が、人知も及ばぬ大津波となって浜辺と港と街に襲いかかる。小島も岩礁も築堤も、砂浜も防波堤も港も漁船も観光船も、乗用車もバスもトラックも、松並木も魚市場もビルも、道路も鉄道も空港も、石油・ガス貯蓄タンクも原子力発電所も、老人施設も病院も学校も村落も、赤ん坊も病人も子供も青年も恋人も夫婦も老人も、魚市場に働く人びとも、街によろずの営みをなす人々も、医師も看護師も、先生も生徒も、それらあらゆるもの皆すべてを、10mも20mもこえる大津波が人の疾走も及ばぬ奔流となり渦巻く濁流となって、呑み尽くし、押し流し、ばらばらに打ち砕いていく。

 人々も牛も馬も豚も鶏も犬も猫も、生き物すべてが、波に呑みこまれ、海にさらわれ、瓦礫のしたに圧しつぶされて命を失ってゆく更に、その大津波に倒壊させられた石油タンクから大津波の洪水の中に流れ出た油が燃え上がり炎の帯をなして家屋に襲いかかる。大津波がもたらした瓦礫の山と道路寸断が消し手の近づくのを妨げる。水中の火は為す術もなく紅蓮の炎をあげて燃えさかる。それは、まさに地獄以上の地獄図だ。

 その地獄の水火に命を失っていった人々と生き物たちに崩壊して瓦礫となった家屋の下に圧し潰されて、積もった泥濘の中に埋もれて、或いは、港の沖や海の彼方にさらわれて、命をなくしていった幾万幾千の悲劇の人々に心からの哀悼の意を捧げます。

 その地獄の中に、住む家も持ち物も仕事も、これまで営々と築いてきた人生も、共に生きてきた街も村落も、これからの人生の確かさも、失ってしまった被災者の皆さまに、流しても流しきれぬ涙と言葉には到底つくせぬ同情の思いをこめて悲しみと激励の挨拶をお送り致します。

更に、この天災の惨状にくわえて、同時に勃発した福島原発事故が、周辺30㎞(半径)にわたる街も川も山林も田畑も、一瞬にして「死の地帯」に変貌させてしまった。そこに生きてきた幾十万の人々を「原発難民」に陥れてしまった。「天災の地獄」に苦しむ、その同じ人びとに襲いかかった「人災の地獄」である。

 この「二重の地獄」に苦しむ人びとそれはまだ始まったばかりなのかも知れないが慰めの言葉も見当たらない、この「二重の地獄」に呻吟する悲劇の人々に、併せて、心からの同情と励ましの言葉をお送り致します。


 反人間的な「罪人」としての原発推進者たち


 一方、東北地方の人々を「天災の悲劇」に加えて「人災の悲劇」に陥れてしまっている、そして更に、日本全土からアジア太平洋にわたって、その「原発地獄=人災悲劇」に落としこんで行きつつある政界・財界・東京電力・官僚・科学技術者・マスメディアなどを牛耳る「原発推進勢力」が、社会としても人間としても「赦さるまじき罪人」として厳しく批判されなければならないのは、遂に勃発した「原発地獄=人災悲劇の実相」に照らして当然すぎるほど当然である。


 心からの敬意を送るべき

    反原発=脱原発の先駆的闘士たち


 その対極に心からの敬意を送るべき人々がいる。

 今日まで原子力発電の反人間的で反社会的な危険性を説きつづけてきた思想家・科学者・技術者・知識人たち。例えば、私たち「人民の力」がご教示を受けただけでも久米三四郎、前野良、宇井純、高木仁三郎、大庭里美(以上、いずれも故人)、そして今号に「チェルノブイリから福島原発震災を考える」を緊急執筆して下さった「チェルノブイリ救援・中部」の河田昌東代表をはじめとした知的闘士たちそして、「原発建設の阻止」と「脱原発社会づくり」のために少数孤立に屈せず粉骨砕身献身し続けてきている人びと。例えば、本誌に死の直前まで「苦闘の自分史諌早に死す」を連載執筆し続けて下さった諌早干潟緊急救済本部の山下弘文代表(故人)、本誌新年号の新春インタビューに応えて下さった「大間原発訴訟の会」の竹田とし子代表、「上関原発を建てさせない祝島島民の会」の山戸貞夫代表をはじめ全国各地の実践的闘士たち。

 こうした知的・実践的闘士諸氏に、いま、人間愛と真実と誠実が何時にもまして問われるこの時期に、私たちはあらためて心からの敬意を払わなければならない。


 「完全な救済と保障」の原則を立て

    「国民総がかり」の体制と政治へ


 この「二重の災害」と「二重の悲劇」の真っ只中で、いま、為されなければならないことは何であろうか。

 原則「完全救済完全保障」 先ずは、政府から官庁から財界から企業からマス・メディアから興業界から、労働組合・農民組合はじめの諸民衆団体から国民の一人ひとりに至るまで、この未曾有の歴史的災害に対処する「原則を打ち立てる」ことである。

 この幾十万の被災者の中の唯の一人に対しても、誰ひとりの漏れも例外もなく、完全な救済の手を差し伸べるべきだ。蟻地獄の如く陥った地獄の苦しみから誰ひとりの例外もなく救い出されるべきである。(一)被災者たちがこれからの日々の生活を不安がなく安心して生きて行けるように。(二)崩壊した人生の再建へと被災者たちが希望をもって向かえるように。(三)被災した青少年たちが人生の道を大きな抱負をもって切り拓いてゆけるように。(四)様々な事業主たちが崩壊した事業の再建ができるように。(五)仕事を失った労働者たちがあらためて労働の場を確保できるように。(六)総じて悲劇の被災者たちが耐えがたい苦難のなかにも日本という国に生きていることを幸いと思えるように。

 こうした生存と希望の道を全ての被災者に誠実に心をこめてはっきりと約束すべきである即ち、いま、この瞬間に打ち立てなければならない原則は、「完全な救済と完全な保障!」を「唯一人の漏れも例外もなく全ての被災者に!」である。そのために「政府を先頭に国民総がかりで!」である。

総がかりの体制と政治 この「完全救済完全保障」原則の下に、民主・自民を主軸とした全政党総結集の「総がかり政権」を樹立して、未曾有の「二重の災害」=「二重の悲劇」を克服してゆく「総がかり政治」へと大胆に毅然として踏み出してゆくべきである内閣総理大臣の直接責任のもとに「総がかり対策本部」を設置して全面的で機敏で強力な対策活動を行うべきである。

この「総がかり対策本部」のもとの「総がかり政治」の一環として、(イ)全ての都道府県がそれぞれに主体的に、更には、適切な協議体を編成して、被災者への救援と保障に尽力すべきである。

 (ロ)また、被災した県・市・町・村・集落は、それら各級段階の「協力協働」体を編成して、「救済と保障」政治の徹底と完遂を「総がかり対策本部」に迫り続けるとともに、各級自治体段階における復興と新しい発展の活動に努めるべきである。

 財界・大手企業の責務 財界や大手企業は、自分たちの企業に働くことを希望する被災者や被災労働者たちに、唯一人の落ちこぼれも排除もなしに、無条件に門戸を開放して当該企業の労働者として雇用し、生活の再生と安定を誠実に支援し、それら労働者たちの新しい人生設計を保障すべきである。

財界や大企業は「総がかり政治」の決定的な一翼として、これらの責務を完遂すべきである。財界や大手企業は、日本社会の基盤的で主導的な位置にあるものの人間的社会的な責務として、及び、天災下の東北地方の人々を「原発地獄=人災悲劇」に陥れて「原発難民」化させている「東京電力の同類」としての責務として、その完遂のために誠実に尽くすべきである。

 希望する子供たち全てを受け入れる学校 被災地から避難や転居してきた学生・生徒・児童・幼児たちに新しい環境での学習・勉強・保育が完全に保障されるべきである。

 全国各地の託児所・保育園・幼稚園・小中学校はもちろん高校も大学も、総理大臣直接責任下の「総がかり政治」の一翼として、被災地からの避難者や転居者の学生・生徒・児童・幼児の希望者全てを受け入れるべきである。要する財政は国家が負担する。

 願う人々全てを受け入れる病院・老人施設 被災地から避難や転居してきた病人も老人も、その全てが唯一人の例外もなく、希望する病院や老人施設で安心して治療や療養や介護が受けられるように完全に保障されるべきである。財政負担は国家である。

 権力者・富裕者たちを真の人間へ こうした救済と復興の完全遂行のための「総がかり政治」には、幾十兆円にも達する莫大な国家財政が必要となる。だが、いかなる巨費を要しようとも、救済と復興はやり抜いて行かなければならない。

 消費税値上げなどの増税による庶民犠牲を引き起こさないことを前提として、(一)政治家・官僚・財界人などの報酬を「庶民(労働者)並みへと平準化」させて「報酬格差の解消をはかる」のが「人間としての道理」である(この未曾有の「複合悲劇」の真っ只中では特に)。(二)更に、富裕層に対して「総がかり政治」の一環として「税の引き上げ」による「国家への献金」を求めて、庶民(労働者)並みの収入と生活による「本当に人間らしい生き方」へと自分変革を遂げていってもらわなければならない。

 建設国債の発行 こうした権力者や富裕者たちの「庶民並みへの自分変革」を前提として、救済復興のための膨大な国家財政を「建設国債の発行」によってまかなっていくことが「総がかり政治」に求められる。


 複合災害=複合悲劇が迫る日本大改造


 今回の未曾有の「二重の災害」は、日本が、社会としても、経済としても、一人ひとりの市民としても、いよいよ大転換を目指してゆかなければならないことを明らかにした。今こそ、「日本の大改造」を迫られているのである。

 原発なき社会へ 原発推進勢力の「安全神話」を木端微塵にして遂に勃発した福島原発事故は、如何に大きな電力不足が生じようとも、従って、これまでの経済活動や市民生活に如何に大きな支障が生じようとも、原発依存の社会であってはならないこと、原発から脱却した「原発なき社会」=「脱原発の社会」づくりへと決意をもって転換して行かない限り、日本の安心できる存続そのものが危機に陥ってゆくことを明らかにした。

 福島原発事故は「原発列島原発国家原発産業原発社会」としての全日本の、近ければ明日かもしれない、地獄と悲劇の惨状を全国民と全世界の眼前に明らかにしているのである。

 事故処理と拡大阻止に見通しもつかないままに地上から空から海から右往左往させられる消防隊員たちの決死の姿地震と津波の地獄に追い打ちをかけて、半径10㎞果てから30㎞果てへと住居も何もかもを打ち捨てて立ち退きを命じられ、援助もなく保障もなく、前途の生活の目途もなく、遠隔地へ避難させられる幾十万の「原発難民」の人びと不自由な放射能防護服の着用や放射能消去作業に苛立たされる庶民たちの日常生活。魚介類も野菜も果物も牛乳も汚染によって販路を失い生活危機に陥ってゆく漁民や農民や酪農者たち商店から消えた魚介類や野菜や果物や牛乳を求めてくたくたになる庶民たち。

 この歴代政府を筆頭とした原発主義者たちが生みだした全国民的苦難は、もうじき終わるのではなく、まだ始まったばかりなのではないだろうか。まだ原発地獄の門口でしかないかも知れない。

 そうであるならば、原発事故に怯えなくてよい生活を目指そう。原発事故に備えなくてよい、原発事故対策に莫大な財政と労力と危機感を注ぎ込まなくてよい社会を目指そう。

 即ち、原発地獄の門口から引き返そう「原発なき社会を目指そう!」=「脱原発を目指そう!」それこそが今回の「二重の災害」=「二重の悲劇」が、被災地の人々のみならず、全日本に迫っているぎりぎりの問題提起なのである。

 脱原発の慎ましい生き方へ もちろん、その「脱原発」とは、問いなおせば、今日当たり前となっている普通の市民生活のあり方の問題となる。日常生活の改革を一人ひとりの市民に迫ってくる。即ち「原発電力に頼らない生活」である。「今よりもはるかに慎ましやかに生活する生き方」である。一人ひとりの市民に対してもまた、脱原発は、この「原発なき生活」=「慎ましやかな生き方」への「覚悟と変革」を提起しているのである。

 武器では人も社会も救えない 今回の惨事は、これからの日本にたいして、もうひとつの問題をも提起している。

 この未曾有の「二つの災害」=「二つの悲劇」=「二つの地獄」に、「今あるままの自衛隊」は如何なる役割を果たしたのだろうか。何の役割も果たしてはいないのではないだろうか。「非武装・戦争放棄絶対平和主義」の憲法9条を蹂躙して遂に世界最新最強の重武装をしている自衛隊の飛行機も軍艦も戦車も銃火器も、それらのどれ一つをとっても、この「日本危機」の襲来を意味する「二つの災害」の「防御のため」にも「対策のため」にも「被災現地復興のため」にも無用であった。これら膨大な国家財政を投入され続けている自衛隊の「武装」は「世紀の国難」に対処するには「何一つ意味をなしていない」のである。ただ、「非武装で現地派遣された隊員だけ」が被災現地の救済と復興に貢献しているのである。

 そうであるならば、そもそも、自衛隊とは憲法第9条のその字句通りに「非武装であってよい」のではないだろうか。それこそが日本の国民と国家にとって最も有用なのではないだろうか。自衛隊とは、非武装で国土と社会と国民の保全と救護と復旧復興のために献身する「平和的組織体」=「非武装自衛隊」であっていいのではないだろうか。

 そして、その「保全と救護と復旧復興」のための「非武装自衛隊」として目的意識的に組織され体系づけられ装備され訓練されるならば、いま被災地で活動している自衛隊よりも遥かに効率的に強力に活躍することができるのではないだろうか。


 原発も武器もない「慎ましやかな新しい日本」へ


 今日の人類世界を真綿で首を絞めるように蝕んで人類世界破滅の危機にずり落ちさせて行っている「現代の文明と生活の様式」を問わずにおいて、深刻化する地球温暖化問題を原子力発電の増設拡散によって打開できるかのように思いこんで打ちあげられた「原子力ルネッサンス」の夢は、まさにその打ち上げた瞬間に、原発列島日本が勃発させた、チェルノブイリ級惨事へと深刻化しかねない東京電力「福島原発」事故によって木端微塵に粉砕された。日本はもちろん米国も西欧も中国も全世界も「原子力ルネッサンス」どころか「原子力アボリション」にこそ世紀の全人類的課題として迫られているのである。

 原発推進の旗幟を鮮明にしたメルケル独首相が福島原発事故勃発の衝撃に姿勢一転させて「日本で起こっていることは世界にとってターニングポイントだ」と言明した。まさに、その通り。「原発先進国=原発列島」日本における福島原発事故の勃発と日本社会の惨状と人々の悲劇は、まさに「世界(原発社会からの)がターニングポイントに来ている」ことをメルケルに限らず全世界に明らかにしたのである。

 日本の国家と国民は、この福島原発事故の「地獄と悲劇」の真っ只中から、そのターニングポイントを曲がり切ることができなければならない。

 未曾有の惨劇からの日本の復興は、今ひとたびの「強国としての復興」でなくていいはずだ。脱原発で、非武装で、慎ましやかで、節度ある小さな平和国家としての道をめざしていいはずである。その価値観と意志と決断と勇気がすべての日本人に求められている。それこそが「平成維新」ではないだろうか。

(2011年3月24日)