THE  POWER  OF  PEOPLE

 

社会主義考117新しい社会主義の道 悠々社会主義常岡雅雄


 志高く 心は広く 絆は固く


 全国悠々合宿 第4回 10月開催


   生きる場から全国から


 8月も下旬となった葉月20日の今日雨らしい雨もみせず、膚にひりひりと焼きつく記録的な猛暑は、日中なお、衰えを見せない。わが身も建物も、樹木もアスファルトも、田畑の作物も路傍の草花も、ありとあらゆるものが茹だっている。空気が蒸気サウナのように靄立って揺れている。とはいえ、朝夕の大気が微かに漂わせはじめた涼気と、遠く、しかし、鋭く「カナカナ」と聞こえはじめた蜩の声に、近づく秋の確かなことを知ることができる。


 「悠々社会主義の道」を確認しあった10回大会


 私たち「人民の力」は、10月には、71年結成以来の「社会主義全国政治学校」をひきついで、10月に「悠々合宿」を行なう。全国合宿としては第四回目になる。北海道から九州にいたるすべての同志たちが、遠路を厭わず、「悠々社会主義の道」に立ち、心弾ませて、年一回の大合流を遂げる。様々な領域と課題で活動する同志たちが、生きる場から、全国から、一堂に集い、健在を喜びあい、志をさらに確かめあい、絆を一段と固めあう。

 巻頭言の場で長い引用となってしまうが、この確かめあい固めあう「志と絆」のために、いま、私たちが切り拓きつつある「悠々社会主義の道」に至る、ここ数回(90年代以降)の全国大会確認の要点をあらためて思い起こしてみたい。

 今から3年前、人民の力結成から34年の歳月をかさねて迎えた2005年5月の第10回全国大会は、人民の力結成以来の「独自の自立した人力社会主義の道」を更に発展させようとの思いをこめて「悠々社会主義の道」を確認しあった。以下、その基調報告の該当部分である。(〈 〉内は原文どおり。以下、すべて同様。ただし、太字化は今回。)


〈われわれ人民の力は、34年もの長い歴史を立派に歩みつづけて、豊かさと深さと広がりをつくりあげながら、確実に前進してくることができた。〉


〈正義感と情熱と理想主義をもって、われわれ人民の力は、政治同盟としては何もないところから歩きはじめたのである。ゼロの地平から政治同盟の道を歩きはじめたのである。その時代の世界各地の青年たちとひとしく、時代の子として、社会主義をめざす活動家として、自立して生きてゆく道をはじめたのである。社会主義のための組織と運動をゼロから切りひらき建設してゆく道をはじめたのである。・・・・われわれ人民の力の「前には道はない」荒野であった。前には確実なものは何も見えない、その五里霧中の荒野を懸命の手探りと勉強と励ましあいと必死の決断であるきつづけてくる道であった。〉


 こうして〈人民の力は、今、まさに、ここに、ハッキリとした実体として立っているのである。〉〈「ゼロのままに止まってなるものか!」「倒れてなるものか!」「中断してなるものか!」という思いと決意と悪戦苦闘の34年ものつみかさねが、切りひらき、つくりあげてきた「厳然たる実体」である新しい社会主義を探求しつづけてきた社会主義者たちの人間的で同志的な結びつきとしての実体である。〉

〈理想主義は人間が生まれながらにしてもっている頭脳であり心である。その理想主義を人生のどんな境遇においても大切にして生きてゆけるかどうかが、人の価値を決める。その理想主義を失わず大切にしてきた者たちが、34年の苦闘をとおして、この人力実体をつくりあげてきた。〉

〈われわれに人として決して疎かにしてはならない正義感がなかったならば、周りの人々から好意をよせられ、信頼をえながら、人力建設の道を前進してくることは絶対にできなかったであろう。正義感は、社会主義に生きる者に欠いてはならない倫理観であり、正義感なき社会主義はありえない。〉

〈そして更に、われわれは自分自身について確認することができる。分からないことばかり、知らないことばかりから、われわれは始めた。だから、われわれは勉強した。勉強しつづけてきた。われわれに勉強する意志がなかったならば、そして熱心に勉強しつづけてこなかったならば、「今、厳然たる人民の力」としてある「われわれの実体」は絶対になかったであろう。・・・そもそも、われわれに、「自分は何も知らない」という「実践者の人柄」としてもっとも大切な「無知の自覚」がなかったならば、われわれは熱心に勉強してはこなかったであろう。・・・自分自身の「無知を自覚する」からこそ、われわれは熱心に勉強しつづけてきたのである。「わが無知」を自覚して「熱心に勉強し続けている」者たちの結びつきこそ人民の力だったのである。〉


〈われわれ人民の力は「配慮と節度の人民の力」として34年の道をきりひらいてきた。日本「左翼」の体質に伝統的にこびりついている唯我独尊や前衛主義におちいらないこと、すなわち、思いあがりや大衆(ひとびと)蔑視に陥らないことは、われわれ人民の力の社会主義者としてのあり方の基本問題であった。さらにまた、日本「左翼」の宿痾(持病)である「左翼主義」に陥らないことが、われわれ人民の力の「同志と組織と運動」をつくっていくうえでの基本問題であった。こうした「唯我独尊と前衛主義と左翼主義」がうみだす「分裂主義」や「打撃主義」や「暴力主義」におちいらないように努めることすなわち、他者や大衆組織などにたいして「配慮と節度」をもって人力実践をおこなっていくことが、われわれ人力34年の歴史であった。〉

〈われわれ人民の力の一人ひとりには権力も武力もない。富も名声も地位もない。自分を究極においてあずけることのできる神もいない。ただ、あるのは自分自身の人間としての理性だけである。すなわち、われわれは理性によってのみ、この世界に立っているのである。この「理性によって生きる」者たちの「結合と協働の実体」を「人民の力としてきずきあげてきた」ところに、今日までのわれわれ人力史の最高の実りがあるのである。〉


〈かくして、34年の苦闘をかさねてきずきあげてきた我われ人民の力は、単なる政治同盟ではない。政治上の目的や課題だけの次元でむすびついた者たちの集団というだけではない。われわれ人民の力は、政治的な結びつきであるとともに、それをさらに人間の心と理性によって深め純化していく人間的な絆なのである。したがって、そのわれわれを正しく性格づけするならば、われわれ人民の力は、単なる政治同盟ではなく、まさに人間同盟なのである。このことをシッカリと確認したうえで、われわれ人民の力は、一段高まった10全大会以降の人力階段をさらに登りはじめなければならない。〉


 人力社会主義は人々の大河の中で生きつづける


〈新しい階段を一段上がるに当たって、われわれは確認しあわなければならない。〉

〈一人ひとりの同志が、個人としてどのような生き方(それは各人の出自と環境と意志によって自由である)をしようと、その多様な生き方を一本の赤い糸でつらぬいている、われわれ人民の力の思想と実践は、徹底民衆主義である。すなわち、われわれ人民の力は民衆があるかぎり民衆とともに生き続けてゆくのである。そして、この民衆とは、まさに人類の主体そのものなのである。永遠の人類の大河の流れそのものなのである。われわれ人民の力は、この人類があるかぎり、その人類のどこまでも永続する流れのなかで、民衆の一人として生きつづけてゆくのである。〉

〈悠々社会主義として生きてゆく〉〈山に登るとき、我々は、自分の体力以上に、急かされたように走ったりはしない。命令されたり、睨まれたりしながら、いやいや登ったりはしない。一歩一歩を自分自身ではないような虚ろな気持ちで登ったりはしない。われわれは、実際には、山道であることを心得て、自分自身の体力に応じて、歩一歩と踏みしめながら登っていく。その一歩一歩に充実感を覚えながら登っていく。〉〈一つの山に登るのでさえ、こうであるのだから、長いながい永遠の登山路である人力社会主義の道をすすむのであれば、なおさら、そうでなければならない。すなわち、われわれ人力社会主義の平常のあり方は、次のように、悠々社会主義であっていいのではないだろうか。〉


〈(一)その姿勢は「大河のうねり」のように「大きく悠々とした構え」で、(二)家族・職場・地域はじめ周辺の人びととは「共に生きる」ことを大切にし、(三)自分の人生をおろそかにせず、自分自身の「人間としての成長や充実」のために時を費やす余裕があっていいのだし、(四)活動は「楽しく行なう」活動であっていいのである。〉

〈この悠々社会主義を可能にするのは、われわれ人民の力が34年の懸命の歴史をもって育てあげてきた「人力魂と同志心と協働と組織性」〉である。


 現存社会主義の崩壊と新しい社会主義の道


 この2005年5月の第10回大会から3年余りが流れた2008年夏の現在私たち人民の力はこの10回大会で確認した「悠々社会主義の道」に立って歩きつづけている。この「悠々社会主義の道」の政治的で思想的で組織的で実践的な意味をあらためて確認しあうために、ソ連と現存社会主義が崩壊した1990年代以降、私たち人民の力が7回大会(緊急臨時大会、91年5月)、8回大会(96年10月)、9回大会(2000年5月)などで確認しあってきた方向について、その概要をここにとりあげておこう。


 第7回大会は、定期の全国大会ではなかった。ポーランドにはじまった東欧現存社会主義の崩壊の最終局面で、ソ連崩壊も近いと見られた(事実、3ヵ月後の91年8月に崩壊)。その崩壊の直前の91年5月に緊急の臨時大会として開催した。

 その7回大会で、雪崩打つ東欧現存社会主義の崩壊と迫りくるソ連崩壊を、私たちは(一)社会主義に対する「反革命」としてではなく一党独裁のスターリン主義体制に対する「民衆革命」ととらえた。(二)歴史の「反動」や「逆流」としてではなく当該社会の「必然」であり「前進」と理解した。(三)したがって、これらの現存社会主義の崩壊を理由にして「社会主義への絶望」や「社会主義の放棄」へと短絡してはならないと決意した。(四)スターリン主義としての現存社会主義型ではなく「新しい社会主義の探求」へと進路を定めなければならない事態なのだと決意を新たにした。即ち、次のように確認しあった。


〈私たちが第六回全国大会をひらいたのは、一九八八年の秋でした。それから二年余りしかたっていないのに、臨時大会を緊急にひらくことにしたのには、当然の理由があります。東欧事態の突発による世界の大変動です。・・・挑戦すべき「巨大な壁」と「社会主義の第三期」論と「構造的革命」戦略を確認しあった私たちの第六回全国大会は、まさにこの東欧事態の直前だったのです。ですから、当然にもこの六全大会には世界史的・人類史的な重みをもつ東欧事態の意味が反映されていませんでした。一九八三年秋の第五回大会を転機にはっきりさせはじめた「社会主義の危機」論と現代文明批判によって、現存社会主義の崩壊として東欧事態を予知する側面はありましたが、それ以上のものではありませんでした。東欧事態のもつ重大な意味をとらえ、考えることは当然にもできていませんでした。・・・一九八九年の東欧事態とは、ソ連を中心として、資本主義世界体制に対抗する、もう一つの新たな世界体制をくんできた現存社会主義体制の一挙的な崩壊でありました。日米欧などの帝国主義勢力の外側からの攻撃や介入によってうまれた出来事でも、それらの諸国の内部のブルジョア的・封建的勢力の反革命的な決起によってひきおこされた事態でもなく、自由をもとめる民衆の革命的決起によってうちたおされてしまったのですから、現存社会主義体制とは、社会主義・共産主義とは名ばかりの、労働者・民衆に敵対する政権であり、体制だったのであります。

 労働者・民衆を主体とすることができず、その自由の追求と発展が圧迫されているような体制が社会主義・共産主義であろうはずがありません。マルクスも言っているように、「何を言っているかではなく、何をやっているか」が、その真の正体なのであります。

 にもかかわらず、こうした体制を「社会主義・共産主義」とみとめるのであれば、そのような頭脳も心も、それは本当の意味での社会主義・共産主義にふさわしいものではないと言わざるをえません。すなわち、現存の社会主義体制を「社会主義・共産主義」、あるいはそこに向う過渡的な政権・体制と認め、それと世界政治上の流れを共にしてきた現存の社会主義運動も、いまだ政権や体制をなしてはいなかったにしても、本質的には崩壊したこと、もっと言えば、すでに生命力を失っていることを、東欧事態によってあばかれたと言わなければならないのであります。

 社会主義者であるかぎり、このことを、やはり他人事として言ってはならないと思います。「問われているのは自分自身の主体だ」という意味で、こうした悲劇的事態は私たちとは無関係ではありません。もちろん、こうした事態に直接責任ある位置に私たちがいたわけでは全くありません。だとしても、その世界的な流れのなかに位置していたという意味で、私たちはまず自分自身をこそ問わなければならないのだと思います。「汝自身を知れ!」とは、今日の世界では、社会主義者たるべきものにむけられている言葉だと自覚したいものです。「自分で自分を問いつづける」という姿勢と自己格闘とをもって、現存社会主義の崩壊という危機の世界に、私たちは、「新しい社会主義」の道を手探りしていかなければならないのです。〉(91年5月緊急臨時大会第一号議案「人類世界と社会主義新しい社会主義の道へ」)


 近代西洋文明様式の止揚


   人類と自然の調和と共存の文明へ


 こうした基調的な事態認識と自己設定をおこなったうえで、現代世界とは「近代西欧文明」が「とどまることを知らず、『人類と地球の破滅』の危機を深刻化させいっている」ところに「基本的特徴がある」として、91年5月第七回緊急臨時大会は、進むべき基本的な道筋を次のように確認しあった。


〈現代文明近代西欧文明のヘゲモニーのもとに、自然はかつて人類史上にみたことない急ピッチで、しかも加速度をますますあげながら荒廃し死滅していっています。それは言うまでもなく、人類生存のための絶対不可欠の土壌である自然の加速度的な崩壊であり、消滅にほかなりません。人類は愚かにも今日、一万年の文明史がうみだした、最高度の近代西欧文明の世界制覇と繁栄と発展の結果として、自分たち人類自身の破滅の坂道をブレーキも安全装置もなしに、勢いに勢いをつけながらころがり落ちていっているのであります。・・・発展の過程イコール破滅の道行き。現代世界の核心はここにこそあります。

 したがって、現代世界が人類にたいして、他のなにごとにもまして重大な問題として提起している課題は、(一)この破滅的な近代西欧文明を止揚して、(二)人類と地球(自然)が調和し、永続的に共存していくことのできる「新しい文明」のあり方へと転換していくことであります。

 現存社会主義の崩壊のなかから、新たに「マルクス的な探求」の精神をもって第一歩からきり拓いてゆかなければならない新しい社会主義運動にとっても、この(一)近代西洋文明の止揚と(二)新しい「人類と自然の調和と共存の文明」様式の探求という人類史的課題が核心的位置をしめることは、また当然なのであります。この新しい、人類史的な課題の自覚がないならば、その社会主義は依然として「これまでの社会主義」の枠にとどまっているのです。〉


 細切れの個別的理性から類的理性へ


 類的理性の獲得〈1300万年の歴史をかけて、自然からうまれでてきた人類は、一万年の文明史をへて、いまふたたび自然へと帰っていかなければならない。その壮大な人類史的な転換点に、存亡の危機にさいなまれながら人類は立っている。もちろん、それは単純な過去回帰ではありません。自覚された、理性的な次元でこそ、人類はもう一度自然のなかに自分たちを埋めこんでいかなければならないのであります。〉

〈今日までの個別的な理性が、あるいは自然発生的な理性が、全人類的理性へと飛躍するとき、人類は破滅の危機を克服して新しい前進の道に立つことができるのだと思います。・・・この自然発生的・個別的な理性を、人類は「類的な理性」へと飛躍させなければならないのだと思います。この人類史的な飛躍の達成のためには、それがかつて人類が経験したことのないものですから、きわめて大きな困難がともない、長い時間がかかるものでありましょう。しかし、その飛躍をとげたとき、人類は「人類文明の新しい段階」に入っていくのだと思います。人類文明史の本格的な段階に入っていくのであります。〉


 自己規定を理性的に


   事実に見合って合理的な「人力=推進力」へ


 5年後に96年10月に第八回大会をひらいた。この八全大会で、私たちは「人民の力」の「組織として人としてのあり方」を理性的に明確にした。すなわち「前衛主義」の不合理性と誤りを見つめて、私たち「人民の力」の性格を「人力=推進力」論へと発展させた。その要点をあらためて確認しておこう。


 「人民の力」の組織として人としての性格〈社会の様々な領域で、その領域の課題を、夫々の場にあって、その能力と条件に応じて推進しようとする者たちによって人民の力はつくられる。〉


〈(一)人民の力の同盟思想を理性的に進歩させたい前衛党論から推進力論へ


(1)「自分たちは前衛党である」と予め自己規定することは思いあがりであり、合理的な考え方ではない。前衛であるか否かは(イ)結果としてきまることであり、(ロ)他者によって評価されることである。

(2)前衛党論は、「唯一の正しい党」という過った自己絶対化の観念を生み、(イ)他者を蔑視・排撃したり、道具視したりする唯我独尊のセクト主義や、(ロ)生き生きとした創意や積極性に欠ける、硬直した、ことなかれ主義や、(ハ)人間味にかける、偽善的な人間へと陥らせる危険性がある。

(3)また、前衛党論は世俗的には、権力主義的な体質が生み出すものであり、したがって組織と実践が権力志向型へと偏向しかねない。更に、仮に権力に到達した場合には自称「前衛党」による独裁国家に堕してしまうことは崩壊したスターリン主義国家が示したとおりである。

(二)七回大会で確認した構造的革命論の「実践主体組織=同盟」論である。

(1)社会の様々な「構造と存在」の中に人民の力として存在し活動する。

(2)当該の「構造や存在」を「それ自体として発展させる」ように努力する単純な外部注入ではなく、それ自体としての論理をつかみ発展させる。〉


 続く5年後の第九回大会(2000年5月)では、71年結成以来の辛苦の活動をとおして、私たち「人民の力」が二つの段階をへて前進してきたことを確認しながら、もう一段高い「新しい次元の人力へ」と「第三の飛躍」を遂げていかなければならないことを決意しあった。詳しくは「自己革命」「構造的革命の探求」「農主工副社会の探求」「積極的憲法闘争」「民衆の憲法」「民衆の安保」「平和の創造」「核なき社会の探求」「社会性ある労働運動」をはじめ「普遍性ある人力へ」の多様な諸課題を確認しあったが、もはや、ここでは紙数が許さないので再録しないことにする。


 あるがままを確かめ合い


   絆を更に固くしよう!


 こうして「新しい社会主義の探求の道」と「悠々社会主義の道」にたって様々な領域で、その「推進力」として活動している全国の同志たちよみんな、みんな、その失敗や成功や、停滞や前進や、後悔や充実や、消耗や実りや、辛さや楽しさや、苦しみや喜びを、そのままあるがままに抱えて10月「全国悠々合宿」に集まろう!


 失敗も成功も、停滞も前進も、後悔も充実も、消耗も実りも、辛さも楽しさも、苦しみも喜びも、それら一つひとつのすべてが、今ある「悠々社会主義の実態」であり、その「前進しつつある姿」であり、幅と深さを増していっている「悠々社会主義の成長」であり、第三期へ「飛びたちつつある人力社会主義」なのである。その事実をそのままに確かめ合いながら、お互いの固い握手をもって「人民の力」の魂と絆を更にさらに高めよう!


                   (2008年8月20日)