THE  POWER  OF  PEOPLE

 


社会主義考200なお続く帝国主義人民の力代表 常岡雅雄


人類史の流れを透視し

徹底民衆主義の心と行いをもって


地球人としての道を生きぬいていく


 私たち「人民の力」は5月中旬に第12回全国大会を開催した。

 人民の力運動の「新段階」をきりひらく大会であった。「地球人として生きぬいていく」ことを意気高く確認した。


53年の歴史を積んでやり抜いた12回全国大会


 「人民の力」を結成したのは一九七一年七月であった。ただし、その結成にいたる過程がある。正式の「人民の力」を準備する苦闘と模索と全国奔走の辛苦の過程である。

 その前段の辛苦の過程を合わせなければ、本当の「人民の力」の歴史とはならない。


 だから、今回やりぬいた第12回全国大会に至るまでには実際には53年の歴史を積んできたことになる。

 今回の12回全国大会は、その前史過程もふくめた53年の苦闘と辛苦の歴史の結晶として成功することができたのだ。


 その正式結成に至る前史過程とは、(1)自分自身を社会主義者として自覚し、(2)それまでの旧来の政治組織的関係からの自己脱皮をめざしていく懸命の歴史であった。

 「新たな飛躍を準備せよ!」がその「絶対の思想」であり「不退転の決意」であった。


 その「新たな飛躍を準備せよ」をみちびきだした「絶対の思想」と「不退転の決意」を自己実体とすることのできた労働者闘士たちが71年結成から今回の12回全国大会(2015)に達する人民の力の堂々として毅然たる進路をきりひらいてくることができたのである。


 私たち「人民の力」は今あらためて「新たな飛躍を準備せよ」の思想的政治的な意義の大きさを知らなければならない。


「新段階」を自覚する人民の力


 こうして結成いらい44年、辛苦の前史もふくめて53年の歴史を積んできた私たち「人民の力」は、いま、私たちの生きている人類世界にとっての私たちの存在意義が問われている。


 「本当の意味での社会主義者」に「ふさわしい社会主義者」として「私たちは存在することができているのだろうか」と鋭く問われている。

 私たち「人民の力」は「新しい段階に向かう」ことを自覚しなければならないのではないか。

 こうした自分自身にたいする問いかけを私たちは一年余にわたって発してきた。その問いかけを、この「人民の力」誌にのせてきた。(ここ一年ばかりの本誌の巻頭言などを参照されたい。)


「新々飛躍」をめざす人民の力


 〈「国家=くに」意識〉のままでは、まさに帝国主義者なのであります。帝国主義とは  〈国家=くに〉の対立と競争なのであり、その究極の発現が戦争なのであります。


 したがって、「戦争反対=反戦」とは〈「国家=くに」〉意識を「すて去る」ことでなければならない。

 ところで、日本とは—「日本」意識をもつこと自体が帝国主義そのものなのに、さらに、日本は〈国家=くに〉の〈もっとも醜悪な天皇制国家〉なのであります。


 私たち「人民の力」は、〈国家=くに〉からの脱却のみならず〈天皇制日本〉からの脱却をもめざすことを、自分たちの基本的な思想とし基本的な進路としなければならない。


 こうした〈反「国家=くに」〉、〈反天皇制〉の意識と思想の進路に立って、その実体化として〈地球人として生きる〉ことの意味と意義を私たちは次のように明確にしてきた(本誌7月1日号参照)。


地球人として生きる覚悟

人間らしく生きるために


 「地球人として生きる」—その意味は何だろうか?


 第一には、私たち自身と私たちの周辺の人々の中にある「旧い歴史観」を「打ち破って溶かしてしまう」ことなのではないでしょうか。すなわち「旧い歴史観の究極である国家主義史観」から「抜け出す!」ことであり、私たち自身と周辺の人々が思想的人間的政治的に「根本的な飛躍!」を遂げることではないでしょうか。


 第二には、思想的人間的政治的に「旧い歴史観の究極」である「国家史観」の絡み合いとぶつかり合いにほかならない「帝国主義」にたいして「闘う!」ことであります。すなわち「反帝国主義の闘い」は「地球人として生きる」ことの「避けてはならない絶対要件」なのであります。


 そして第三の意味は、私たち自身が「徹底民衆主義に徹しない」かぎり、私たちは「地球人として生きる」ことは決してできないでありましょう。


「地球人として生きる」—その意義は何だろうか?


 第一には「今までの旧い自分自身」から「もう一つ」の「新たな飛躍を遂げる!」ことであります。


 第二には「地球人として生きる」という「進路と姿勢」の方向付けは、私たち「人民の力」だけの「世界認識であり自己規定だ」ということです。


 第三には、「地球人として生きる」とは、私たち「人民の力」の「勇気と覚悟」のこもった「進路と姿勢」の表明なのであります。


 第四には、有史いらい「この地球において侵略され亡ぼされていった文明や民衆」に「心を寄せる」ことであり、その「現代における異文明やその人々」の「正当性」や「復権」を主張するのであります。


 第五には、私たちの「実際に生きる場」にあって「所属する国家や民族や人種や宗教などの狭さ」を超えて、人々の「地球人としての自覚と生き方の絆」を「編み上げていく」のであります。


人類世界の現段階

帝国主義世界


 現段階の人類世界は、帝国主義世界であります。

 「民衆解放の世界」ではありません。「民衆解放に近づいた世界」でもありません。


 〈「国家=くに」を掌中にしたブルジョアジーや支配勢力〉が絡み合って争い合う「帝国主義の世界」であります。


 日本のブルジョアジー支配階級は、当面のその政治的代弁者=安倍政権の政治にみるように、アメリカ帝国主義の世界支配に癒着しつつも、独自に新たな帝国主義世界侵略へと乗り出しつつあります。

 民衆解放と社会主義をめざす私たち「人民の力」の前途は限りなく辛苦の道であります。


 前途は限りなく「道遠く茨の道」なのであります。


 どんなに辛くとも「地球人として生き抜いて行く」ことだけが、この現代の帝国主義世界での私たちの「存在意義?」なのであります。


 くり返しますが、人類史の現段階はいまだ〈「国家=くに」〉の段階であり、〈帝国主義の世界〉なのであります。


「地球人として生きる」ことを

「自分自身の生き方」とし

自分のまわりに

そのを編みあげる


▼「地球人として生きる」とは「大言壮語」ではありません。「大騒ぎ」でもありません。


▼「地球人として生きる」とは—

〈現代の「帝国主義世界」に対決して前進する民衆(人びと)の「進むべき道」〉なのであります。

▼したがって、「地球人として生きる」とは私たち自身の「生き方」なのであります。


▼すなわち「地球人として生きる」とは、私たちにとって「自分自身から始まる」のであります。


▼そして、その「自分自身から始まる」ところの思想と進路の「絆を自分の直近の周辺に編み上げていく」のであります。


▼人間として「自由で自立」した人が

(一)その「自由自立」のとして、まず自分自身をつくり変え、

(二)そして「自分の周辺」に「その絆をきずいていく」のであります。


▼そうする自分自身の努力によって

「地球人として生きる」ことが、私たちの「生きる場」の「風土」となるのです。

「文化」となるのであります。


▼私たちの提起する「地球人として生きる」が、私たちの「生きる場」の「風土」となり「文化」となる!


なんと素晴らしい私たちの「未来」ではありませんか。


(二〇一五・七・二六)