THE  POWER  OF  PEOPLE

 

今こそ理性とヒューマニズム 後藤正次


大義なき自公の内閣不信任案


確固たる「国家としての政治」で

被災者に安心と希望を


 6月2日の内閣不信任決議案を巡っての騒動、そしてその後の「大連立」構想の騒ぎはいったい何なのか。「大複合惨事・悲劇」に国の総力を挙げて立ち向かわなくてはならないこの事態に、その総力を結集させるための「国家としての政治」が求められているこの非常事態に、肝心かなめの政治を動かす者たちが、公であるべき政治を我がものにして、苦闘する菅内閣に難くせを付け、被災者そっちのけで菅首相を引きずり下ろすためだけの駆け引きに終始し、今また進行中なのである。

 「そんなことをしている場合なのか」「被災者・被災地をないがしろにしている」と怒りの声がわき上がるのは当然である。大震災・津波・原発事故の「大複合惨事・悲劇」から3ヶ月になろうとしているのに、いまだに10万人をこえる人々が段ボール箱で仕切ったスペースの避難所で寝起きし、仮設住宅の建設も必要とされる半分にも満たず、瓦礫は1割程度しかかたづけることができていない。原発事故に至っては、収束に向かったと言えるような事態は全く創り出すことができず、放射性物質を含んだ汚染水は増え続け、地表にあふれ出る状況であり、原子炉が溶融しなければ検出されることはないというプルトニウムやストロンチウムなどが福島第一原発の敷地外からも検出されている状況である。

 こうした物理的な状況の停滞や悪化だけではなく、何にもまして、人も家も車も地上の全てをのみ込んでいったあの大津波から命からがら逃げのび、かろうじて助かったものの茫然自失としている人々や、原発事故という人災により全てを捨てて避難し、これから生きて行く展望を必死に見つけ出そうとしている人々が、「自分が生きてきた国が総力を挙げて自分たちに手を差し伸べてくれている」と感じることができ、心の中に安堵の思いが少しでも広がるという状況こそを作らなければならないこの時に、自民・公明両党は「複合大惨事・悲劇」に対して、前向きな提言や指摘などは全くすることなく、批判のための批判を並べ立て、内閣不信任案を突き付けたのである。

 不信任決議案の趣旨弁明や賛成討論でも明らかなように、政権を奪還するためなら震災・原発被災者などそっちのけの姿勢で、ただただ「ヤメロ」と菅首相の徳の無さや初動対応の判断ミスを声高にまくしたてたのである。民主党内の小沢元代表や鳩山前首相に至っては、自分たちの意のままになる権力構造づくりのために自・公の不信任案に同調し、あわや、不信任案の可決という状況まで菅首相を追い込んだのである。まさに動機が不純で大儀も全くなく、被災者・被災地を置き去りにした「政局政治」というお祭り騒ぎを進行したのであり、今、まだ進行中なのである。そこには政治家としての誠実さのかけらも見つけることができない。


思惑ある「大連立」などではなく

求められるは被災者・被災地第一の国家政治だ


 結局、内閣不信任決議案は、反対293票、賛成152票、欠席・棄権33票で衆議院本会議において否決された。

 賛成は、不信任案を提出した「自民」、「公明」、「たちあがれ日本」も加え、「みんなの党」も賛成した。欠席・棄権は共産・社民含めると計33人で、民主党内では小沢一郎元代表をはじめとした周辺議員ら15人が欠席・棄権し、2人が賛成した。

 衆院で圧倒的多数で否決された直後、菅首相は「結果として、大差で否決してもらい、これからの作業にこれまで以上に全力を挙げて取り組みたい」と続投に意欲を見せたが、それに対して自・公の両党と共に小沢・鳩山グループも一斉に猛反発をし、「早くやめろ、やめろ」の大合唱を繰り返し、今や菅首相退陣後の「大連立」構想の騒ぎとなっている。その「大連立」も、自・公両党にとっては政権奪還への思惑がちらついたものであり、民主党にとっては衆参ねじれの解消策として政権維持のためのものに他ならない。

 いずれも「復旧・復興の促進」を唱えているものの、誰もその政治体制と構想を打ちださず、いや、打ちだすことができずに、被災者・被災地を置き去りにして、さらには自分のことを棚に上げて「政局あそび」に終始しているのである。

 今、この国に求められているのは、「3・11」の直後の4月1日号の当誌巻頭言が提言し、この間主張してきているように、この未曾有の複合悲劇に対して、「一人も漏らさぬ救済と保障をし、そのことを通して大きく日本改造に進むための国家としての緊急政治」なのであり、その「国家としての政治」のための、「総がかりの政権」こそが樹立されなければならないのである。政治を職とするものに求められているのは、そのことに全身全霊で尽くすことではないのか。


浜岡原発停止要請は立派な判断

絶対安全な原発など永遠に存在しない


 不信任決議案の賛成討論で自民党の石原伸晃幹事長は、菅首相の中部電力への浜岡原発の全面停止の要請に対して以下の要旨でその判断を糾弾した。「記者会見で浜岡原発の停止を要請する手法は、法治国家の首相とは思えない。国民の原発に対する不安につけ込んで自分の人気取りに利用する姿は共産主義の危機をあおりたて、その不安につけ込んで権力の座を掌握した独裁者のヒトラーとどこが違うのか」と。全く何をかいわんやである。中部電力は、事故を起こした福島原発が全くその収束を図れないどころか、放射性物質を撒き散らし続け周辺30キロ内の人々が何もかも打ち捨てて避難を強いられている4月28日に、突如として「浜岡原発3号機の7月運転再開」を発表したのである。中部電力の水野社長は再開理由として「原子力発電はエネルギーの安定供給を確保するために重要」と、いけしゃあしゃあと述べ、福島原発の収束のめどが全く立たない中、各地で反原発の声が高まるのを恐れた原発推進派の旗頭として運転再開を発表し、「反原発」の動きにくさびを打ち込もうとしたのである。菅内閣はその発表の8日後の5月6日に、「防潮堤などの補強完了までの期限付き」という不十分さはあるものの「浜岡原発の全面停止」を打ちだし、政財官界に多大な影響力を持ってきた電力業界に正面から切り込んだのである。立派な判断である。

 しかるに、石原幹事長は、自分たち自民党の政権において御用学者たちに「絶対大丈夫だ」と出鱈目な安全神話を吹聴させ、「国策」として推し進めてきた結果として「今」があることを完全に棚に上げ、原発推進に少しでも振り子を戻そうとの意図を込めて「浜岡原発停止要請」を批判したのである。周辺住民の過去も現在も将来をも奪い、今や、全日本列島大惨事へ、そしてアジア太平洋大惨事にもならんとしているその事態に、「自分たちにこそその責任がある」というその反省や謝罪もなく、さらには収束への提言もなく、「やり方がヒトラーだ」と罵ったのである。

 福島第一原発の事故に際して、国の中枢で原子力利用を推進してきた専門家16名が、事故に至ったことを国民に陳謝する声明を4月1日に発表している。松浦洋次郎・元原子力安全委員長は「謝って謝れる問題ではない。この事態を避けることに失敗した人間として、考えを突き詰めなかった点で社会に対して申し訳ない」と表明している。

 東電の清水社長は、避難を余儀なくされている人々の前で土下座をしたが、まさに「謝れば済む問題」ではないのである。今日までつつましくも営々と生きてきた全てのモノを捨てなければならない人々の怒りは筆舌に尽くせず、将来を奪われ展望を見出すことのできない人々の落胆は計りしれない。

 避難地域に指定され、その避難指示も遅かった地域の女子高校生が「子供を産めない体になってしまった可能性もあるのではないか」と東電社員に詰めよったことが報道されたが、彼女の将来を奪ってしまったかもしれないこと、そして放射能汚染によって将来どんな加害が降りかかるかも知れないという不安に対して、東電は責任の取りようもない。そして、今現在、命を懸けて福島原発で働いている人々の命を、東電は完全に保証することなど到底できない。

 福島第一原発の現状は、どんな詭弁を使われようとも、どんなに厚い札束で頬を打たれようが、「原発はもういらない」「全てを廃炉にすべきだ」という声をあげるべきことを教えている。

 福島第一原発事故を契機に、ドイツでは2022年までに原子力発電から脱却をめざし、現在稼働中の原子炉の閉鎖を計画より前倒しで実施することを受け入れ、脱原発政策を超党派で合意する可能性が高まったという。しかし日本政府の国家戦略室の事務局である「新成長戦略実現会議」は、6月7日、福島原発事故を受けた今後のエネルギー政策の方向性として、「省エネルギー、再生可能エネルギー、電力システム、原子力」などを列記し、原発推進路線を堅持する姿勢を示した。私たちは断じてこれを許してはならない。「全原発の破棄」と「原発なき生活への転換」を生活の場や労働の場から決意して、「脱原発」に舵をきる声を大きくしていかなければならない。その努力が一層求められている。(6月8日)